遠藤周作『沈黙』⑷

(⑷まで来てしまった。多分これで最後。)


Ⅸ。ロドリゴ、改め岡田三右衛門は、長崎の で二度目(もしかしたらそれ以上)の盆を迎える。
自分が踏絵を踏んだことを、「穴吊りを受けている百姓たちの呻き声」を聞くのに耐えられなかったからなのか、己の背教により百姓たちを助けられると考えたからなのかと自問する。

多くの日本人が足をかけたため、銅版をかこんだ板には黒ずんだ親指の痕が残っていた。そしてその顔もあまり踏まれたために凹み摩滅していた。凹んだその顔は辛そうに司祭を見あげていた。辛そうに自分を見あげ、その眼が訴えていた。(踏むがいい。踏むがいい。お前たちに踏まれるために、私は存在しているのだ)

p.273-274

ロドリゴは踏絵を踏むその時に、キリスト教の主が自分に情けをかけてくれているのだと思った。己がずっと信じ崇めてきた聖像に対して足をかけたことへの罪の意識は一生消えはしないが、それでも主が己の中で慈悲深い存在であり続けていたことは、ロドリゴにとって幾分か救いになったのではないだろうか。


処刑の恐れはないとはいえ、役人連に目をつけられている以上、自由の身にはなり得ないことは分かりきっている。ロドリゴは、月に一度奉行所に赴く用事の際に、フェレイラと顔を合わせる機会があったが、互いの胸の内に様々な感情を持ち合わせつつ、歩み寄ることはない。おそらく、ずっと。

そしてある時、対面した折に井上筑後守はロドリゴに言った。

頭をあげて司祭は筑後守の顔を見た。微笑は頬と口との周りに作られていたが眼は笑っていなかった。
「やがてパードレたちが運んだ切支丹は、その元から離れて得体の知れぬものとなっていこう」
そして筑後守は胸の底から吐き出すように溜息を洩らした。
「日本はこういう国だ。どうにもならぬ。なあ、パードレ」
奉行の溜息には真実、苦しげな諦めの声があった。

p.290

井上筑後守は、かつてはキリスト教を信仰し、洗礼まで受けたような人物だった。その人が「どうにもならぬ」と嘆息するのは、キリスト教に触れたことのない者が言うよりも、どれほど深い意味を含んでいることだろう。



ロドリゴの死は、最終章「切支丹屋敷役人日記」という記録体の文章の中で確認できる。彼は日本名を岡田三右衛門として、土葬ではなく火葬により葬られる。心の内には、以前とは違うかたちの”神”への愛を抱くようになっていたものの、彼の人生は他人から見れば背教者として終わるのである。無味乾燥な「役人日記」で『沈黙』は幕を閉じる。



なんて悲しい、救いのない物語だろう。
私はキリスト教の教義も歴史もまったくと言っていいほど知らないが、自分がずっと信じ続けてきたものを裏切るということの耐えがたさは、身につまされる思いがある。
そして、”神の沈黙”。
祈っても祈っても、奇蹟が起ることはなく、世界は変わらず活動していく。”神”という存在は実は何もしてくれないのではないか、という疑念は、ロドリゴやキリシタンにとっては致命的な打撃になり得る。

神の救いの有無、キリスト教を信仰する強い者/弱い者の末路、自尊心、罪悪感……
人間の感情の揺れ動きを巧みに表わし、”神の沈黙”という重要なテーマを鋭く観察した作品であると思った。

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