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小説『エミリーキャット』第27章・ブラッディ・スワン

外商先で固定客の一人である心臓外科医が所望したブラックのエッチングを、今しがた取り逃がしたことを彩は電話で知って愕然とした。
『ついほんのさっきなんですけれど…お手つきがもう既についています。』
と言う事務の土居の声がとても言いにくそうな、頭痛に耐える人のような声の調子で、敏感に先んじて異変を感じ取った彩は、ついまるで土居を詰問するかのような口調となってしまった。
『お手つきしたのって誰?』
『…そのう…』
『何?土居さんいいから言って!』『…松雪さんです。
…ほんの数秒のタッチの差でした。』
土居ゆかりは済まなさそうに、彩にまるで同情するような声色でそう言った。
"シンちゃんが…''と彩は思った。
『そう、よかったわ、
彼もあんな大物売れるようになったんだ、』
と彩はつい偉くもないのに偉そうな口ぶりになった。
なった後ですぐに後悔したが、言ってしまっては後の祭りである。
『…そう…ですね…』
と更にしょんぼりしたような土居の声がまるで耳障りのように彩には感じられて彩は妄想の中
『ちょっと土居ちゃん、
そういうみじめで貧乏臭い反応やめてくれない!?
同情するならブラックをくれっ!
ブラックを!』
と言い放ち、スマートフォンを壁に叩きつけて木っ端微塵にしてしまった。
短い妄想が終わると彩はつい過度な冷静さを装ってこう言った。
『じゃあ仕方無いわね、
こちらのドクターにはもう先を越されてしまったからって私からもよく謝っておくわ』
『すみません…』
『どうして土居さんが謝るの?
やめてよ、誰も悪くなんかないわ、かえっていいことじゃないの、
先を越してくれたのがむしろ他の人じゃなくてよかったわ、
先生には悪いけどシンちゃんなら私、嬉しいくらいよ、』
そういって彩は笑って電話を切ったがまだ胸は高鳴り、言葉とは裏腹に複雑な思いが彩を嵐のような辛苦と淋しさへと駆り立てた。
彩の謝罪を固定客の医師は明らかな失望の色を見せながらも優しく労(ねぎら)って受け入れ、ブラックと同時に全く違うタイプの画家ではあるが、非常に迷っていたクールベを代わりに契約してくれた。
しかもブラック同様、クールベもローンを組まず一括購入である。
こんなことは滅多にあることではない。
画商をやっている身でもそういった吉報に遭遇することは特に今の時代、ほとんど奇跡に近い。
彩は先程まで平身低頭で謝罪の一途であったのが、今度はソファ―の上で躍り上がりたいような気持ちになった。
電話に再度出た土居は今度はうって変わって弾んだ声だった。
『よかったじゃないですか、
だってブラックよりずっと格上ですよ、やっぱり吉田さんは違いますね!』
『格上も何も、画風も世界観も何もかもが異い過ぎるだけじゃない、
格上か格下かなんてそんな次元の問題じゃないわ、それよりキャリアのまだ浅いシンちゃんがブラックを売ったほうがよっぽど凄いことよ、
土居さん、
クールベのほうが高いからそんなこと言うんでしょ!?』
と彩は思ったがその言葉はぐっと飲み込んだ。
なんでこんなに苛つくのか?と彩は自分で自分を訝しんだ。
慎哉がブラックを先取りしたことは彩にとっては自分でも何故?と驚くほどのショックだったのだ。
だからといって土居ゆかりになんら罪は無い。
土居ゆかりは私を慰めたかっただけなのだから、と彩は自分に言い聴かせた。
然し土居にそう言われても彩は心が凪ぐことはなく、電車を乗り継ぎ、次の固定客先を訪れてみようかと思っていたのを急に取りやめにして、彼女は行き当たりばったりの見知らぬ駅で降りると、やけ食いのようにこれまた行き当たりばったりで見つけて入ったティールームで平素は滅多に食べないモンブランとバナナパフェを食べた。

すると綺麗に完食したのち、急に罪悪感と自己嫌悪が黒雲のように彩の中に沸いてきて、そうだ!と彼女は手を打ち急いでティールームのトイレットへ駆け込んだ。
彩は慣れた手つきで喉に指を突っ込んで吐こうとしたが何故かこの時は吐きそうで吐けなかった。
たまに上手く吐けない時があり、彩はトイレの個室で何もかも自分の過失なんだと我が身を責めて思わず両手で顔を覆った。
クールベの件など会社ではむしろお手柄扱いを受けそうなことがあったというのに彩は何故か少しも嬉しくなかった。
こういう時に限ってドラクロワの『画商は禿鷹である』という言葉が思い浮かぶ。
彩はトイレの個室で声を殺して少しだけ泣いた。
泣いた顔を化粧室で簡単に直したついでにコンタクトをしたまま、ややレンズに薄く色の入った伊達メガネを掛けた。
普段は近眼でコンタクトを装着している彼女はこの眼鏡を掛けると少々薄ら笑いならぬ薄ら泣きをしていても、傍目には決してそうと解らない為に泣き虫の彩にとっては必需品だった。
彩は眼鏡を掛けるとティールームの外へ出て、いかにも平然と遊歩道を歩きながら、眼鏡の下では器用な半ベソをかきつつ思案していた。
『今夜は電車を二駅前で降りて、
徒歩で家まで帰らなくっちゃ』
彩は食べ過ぎたと感じた時は二駅、三駅を平気で踏破した。

慎哉は時々そんな彩を直後ではないものの、一応病み上がりでもあるのだからと心配したが『歩いたほうが逆にスッキリするのよ、
木や季節の花や街の風景も見られるし、風に吹かれて嫌なことも忘れられるの』
『だからと言ってさぁ…
外商部なんだから俺達は日中充分、歩いてるんだぜ、多分普通のひとの倍は歩いてるよ、』

この時、慎哉はそう言った後に『彩なんて充分均整がとれてるんだからそんなことまでしなくても大丈夫なんだよ』
と言いかかって何故だかその言葉を飲み込んだ。
飲み込んだあと、その結局言わなかった言葉が一番肝心な言葉だったような気がして心が鬱(ふさ)いだ。
その為彩は、どうせ貴方には解らないのよとでも言わんばかりの冷たい口調でこう言い返してきた。
『それとこれとはまた違うの!』
『どう違うんだよ、おんなじだろう!?』
慎哉はそう半ば怒鳴るような声色に変わってしまいながらも、何故もっとよい言葉を掛けてやれないのだろうと後悔の苦さを心の底で感じ、その心の苦さを今度は口の中にまで感じてやりきれなくなった。
自分はいつもこんな風に彩を突き放したり、怒鳴ったり、逃げてばかりであまり向き合わずにきたとふと感じたからだ。
今まではそれでいいと思って特に憚らなかった。
しかし乳癌を一見克服し、オペ後のホルモンバランスの大きな崩れで出た二次罹患の重い鬱を、更に克服しようともがく闘病中の婚約者に、
もっとかけてやってもよいはずの
優しい言葉を自分はいつも飲み込んでばかりいるような気がした。
代わりにポンポン出てくるのは無神経みたいな言葉ばかりだ。
それを聴いていかにも彩は傷ついた顔を最初のうち見せたり、抗弁したりしていたが、この頃何も言わなくなったばかりか、何を言われてもその心中をおくびにすら出さない。
おまけに結婚事態をまるで渋るような言動すら滲ませつつある。
とはいえ慎哉は今更そんな変われるか、という思いが胸を締め付ける。
何故、俺がまるで折れるみたいにしてやらないとならない?
別に悪いことをしているわけでもないのに、と彼は婚約しておいて今更何を考えているのか解らない彩を無責任に感じて腹立たしく思った。
その反面、最近になって急に不安と共にこう感じるようになった。
"…だから彩はこの頃、だんだん俺に背を向けるようになってきたのだろうか?

以前は俺にいろいろ話してくれていたのにこの頃ではむしろ何も言おうとしない、言っても無駄だとでも思ってそうな様子すら感じる。
俺から話を聴こうとしてみても、
彼女は遠い目をしてなんでもないと笑うばかりだ。
この頃の彩は以前の彩とまるで別人のようだ…。''
しかし現実では彩をたしなめ揚げ句、口論が始まり彩が『解ったわ、確かにそうね』と決してそうは思っていない硬い口調で慎哉に合わせていつも口論は終わる。
慎哉はふと、自分は彩にもう少し温かい言葉掛けがあったなら、彩からこんなに思いもかけぬほどに距離を置かれることなど無かったのではないか?
そんな言葉をかけるなんて恥ずかしいような沽券に関わるような気がしていたし、そのことについて慎哉は深く考えたくもなかった。
"大切なのは心だ、口に出してわざわざ何かを言うことなんかじゃないさ、
俺達は欧米人じゃないんだから、
彩だってきっと察してくれるだろう、
彼女は賢い人なんだから…"
そう思いながらも慎哉はそのことが逆に彩への甘えの顕(あらわ)れのような気もして、ふと思わずそれを心の中で見たくない自分の恥部に出逢ったような狼狽を覚えた。
慎哉はそれを敢えて感じなかったこと、気づかなかったこととして無理矢理心の中でそっと捩じ伏せた。
その癖、"もっと言葉にしてよいこともあるのかもしれない、''と心のどこかでもう一人の自分の声がする。
だがそれに心やプライドが添うことを許してくれないのだ。
しかしもっと以前なら、そういった言葉掛けを多少の羞恥を感じながらもそんな小さな見栄よりもっと大切なことがあるような気がして寛容だった時季があった。
彩はそれに対して素直に悦び、律儀な彼女は思い遣りには思い遣りをと、まるで返礼のような優しさを言動にして、常に慎哉に返してくれていた。
そのせいで慎哉の中の照れ臭さは消え失せ、むしろ満足を感じていたというのに。
病身でもいつも微笑んでいた彩からその微笑みがどこか異う硬質の微笑みへと変わっていってしまったのはいつ頃からなのか?
慎哉は彩と婚約して初めて彩の中で磨り減り始めている自分への信頼や愛情やいろんなものを知った気がした。

彩はそんなつい最近の慎哉とのやりとりを思い出しながら闇雲に歩くうち、閑静な家並みが巻き貝が渦巻くように円陣を組んで蝟集する住宅街の吹き溜まりのような一角に、いつの間にか来ていることに気づいた。
どこからかピアノの辿々(たどたど)しいようなエチュードが聴こえてくるのを彩は心地好く聴いた。
どこかで少女か少年が、バイエルかツェルニーを開いて一生懸命、鍵盤にその稚(いと)けない、まだ小さな指を這わせているのだと、彩はその辿々しさを微笑ましく、愛おしく感じた。
すると別の方角から全く違う、どこかで聴いたことのある旋律が響いてきた。

その聴き覚えがあるだけではない、熟練を感じさせる調べに彩は思わずベンチから腰を上げた。

美しい都市を造ろうと人々が街を截断する時、小さ過ぎるさながら余りギレのような土地が多分『なんとなく』出てしまうことがある。
その『なんとなく』な土地を遊ばせず、より有効に活かそうとして無理矢理作られたのであろう。
住宅街の隙間にまるで取り残されたように在る、ひどく狭苦しいパンダやコアラの形の遊具が1つだけポツンと立つきりの、裏寂しいような公園はどこの街にも在る。

そしてその僅かな土地を有効活用しようと作られたものであるはずなのに、大抵そんな公園では誰も遊んでなどいなかった。
歳月と雨風で塗装の剥げたパンダの遊具は何やら哀切感を漂わせ、かえって親子連れなど来るはずもなかった。
パンダの遊具の支柱となるバネの傍には枯れて固くなった雑草が少量、まるで針金のように生え、それが秋風に揺れて余計に寂々として見える。
向かいあって在るベンチも一人掛けにはやや広く、二人座るには狭過ぎるという中途半端さで、およそカップルが座るのには適さない。
そんな何もかもが虚しい公園を立ち去り、彩はそのしらべの先を求めるようにフラフラと尾いていった。

住宅街の奥へ奥へとそのしらべを手繰(たぐ)るかようにしてついてゆくと、すり鉢状とは真逆の構造を持つ街の真の奇妙さに彩はようやく気がついた。
その巻き貝のようにうず高く巻き上がりながら、微妙に高台へと連なる住宅街の真上にある空だけが、異う物資で出来ていることを知った時、彩はまた夢でも見ているのかしら、と思った。
金赫と金褐色と黄色とクリーム、
マリーゴールドのような鮮やかなオレンジの綾織りの布地を縫い合わせた継ぎはぎだらけのパッチワークで出来た空を見て彩は今更ながら薄く驚いた。
その巻き貝の街から離れた遠くの空を見れば、そこはごく正常な空であり、夕刻をとうに過ぎて既に星の少ない夜空であった。
彩は静止した逢魔が刻の只中に今、自分は立っているのだと感じた。
『逢魔が時』や『逢魔が刻』とは、夕暮れ時、魔ものが現れる時刻なので、あまり出歩かぬようと昔の人は言ったというが、昔は街灯も何も無く夕刻ともなれば一寸先も見えない闇で女性が襲われたり子供がさらわれたり、追い剥ぎや辻斬りにあったりした時代である。
人間という真の魔ものに出逢うことへの時代背景的な警鐘だったのだろう。
しかし今や窓灯りやネオンで照り輝くような街に居てさえも某(なにがし)か魔と出逢う時というのはやはり存在するのかもしれない、
彩はそうひとごとのようにどこか薄ぼんやりと思った。
何故なら雲はグレーを帯びた真珠いろをした真綿で出来ていて、キラキラ光るピアノ線で遥か彼方の空の上から吊り下げられ、幽かに風で揺れている。
その黄金(きん)やオレンジのパッチワークの縫い目や解(ほつ)れ目から覗く僅少で歪(いびつ)な空だけが、まるで水溜まりのように蒼く、
彩は自分の頭上に切れ切れに見える唐突な『蒼』に驚いて一瞬、その空の切れ端を見上げて佇立(ちょりつ)してしまった。
何故ならそこだけが本当に『空』だからだ。
何もかもがまるでドールハウスか、舞台装置の書き割りの絵の中に居るようで、彼女はいつも見る本物の空をそこに見つけてまるで生まれて初めて空を見たかのように、芯から驚いてしまったのだ。
その時だ。
しらべは急にやみ、彩もはっとして辺りを見渡した。
すると彩の立つ位置からやや離れた閑静な二階家の窓に、レースのカーテンが風に揺らぎ、そこでピアノの前に座る人の姿が浮かび上がった。
紛れもなくエミリーだった。
エミリーは長袖でステンカラーのシンプルな白いドレスを着ていた。
髪を高くひとつに纏(まと)め上げ、その髪に白い花を飾っている。
眼鏡は掛けていない。
それでも彩にはエミリーだと解った。
高い位置にある窓など大きく開いてはいても、現実には下からピアノの前に座る人間の全容など鮮明に見えるはずも無いのに、何故だか彩には窓の奥に居るエミリーの頭からピアノを弾く指先、足の爪先までもが、その逐一、愛しい姿のディテールの全てがまるで天駈(あまか)ける鷹の眼のように仔細に見えた。

高く纏(まと)め上げた髪から波打つ解(ほつ)れ髪がゆらゆらと細長いうなじを伝い、それが肩まで流れ落ち、髪に挿した白い花と同じくらい蒼白なエミリーの貌(かお)は、どんな絵描きにも描けないだろうと痛感するほど神々しく美しい。

彩は息を飲み、咄嗟に声が出せないのを耐えて、ただ階下で身悶えするしかなかった。
エミリーは黙ってピアノの前に座り、悲しげでどこか憂鬱な横顔を見せていたが、やがて腕を重々しく上げたかと思うと最初からあの旋律を奏で始めた。
あの夜タクシーの運転手がタクシーの中でかけたのと同じ音楽だ。
彩の脳裡に運転手の言葉がつい昨日のことのように甦った。運転手はこう言った。
『この曲聴いてたらなんとなく憂鬱になるべ?
だけどただ単に憂鬱になるのとは違って、なんてぇのか、
まるで違う次元の世界を日常的なごく普通の扉の陰から偶然、垣間見てしまったみたいな…
そんな世界を見てしまった者だけが感じる悲しみや虚しさや、背徳感みたいなものすら、おら、この曲からは受けるんだなぁ…
この曲、辛い時エミリーさんがよく弾く曲の1つなんだが、いろんな曲を弾いちゃ孤独を紛らわしているものの、紛れ切れない時があって、
それが辛いとよく言っていたよ』

どこか不穏な感じも受ける旋律に感じるが、よく耳を澄ませば目立つ主旋律の為にそう感じはしても、副旋律や他に意識を傾けてみれば、怖い不穏な印象ばかりではなかった。
悲哀をまるで洗練された形式へ持ち込んで一つの世界へと余りギレ一つ残すこと無く創り上げてしまうか、さながら象嵌細工のように丁寧に想いを嵌め込むことにより、その旋律は虚しさを敢えて微細な装飾、あるいはマチエールのように変えてしまおうとする野心的な試みさえ彼女の奏で方には感じた。
それは奏でるという行為であると同時に編む行為にも似ていた。
編むことは創ることだからだ。

暗鬱も辛苦も孤独も哀しみも、寄せ木細工の床のように丁寧に一つ一つ泪と共に嵌め込み、そういう行為によってあらゆる苦しみを異質な形に変えて昇華してしまおうと試みているかのようにすら、今の彩には聴こえた。
この間、聴いた時にはそう感じなかったのに…と彩は思った。
それはその音楽が、というよりはエミリーの奏でかたによるものなのだと彩はようやく気がついた。

その旋律(しらべ)に重なるようにして同じ旋律が別方向からも流れてきた。
彩はその方角を振り返ると、やはり違う家屋の二階のバルコニーに面した窓が大きく開いており、そこにもやはりエミリーが座ってピアノを弾いていた。

エミリーはサングラスをかけ、
白いTシャツとジーンズ姿でまるで真夏のような姿だ。
するとさっきまでのしらべはやみ、
彩は白いドレスのエミリーを目で探してふり仰いだが、その窓は固く閉ざされ、クリーム色のカーテンが下がり、いつの間にか柑子(こうじ)いろの灯りが点(とも)っていた。
そして見知らぬ家族の団欒が暖かいシルエットとなって浮かび上がった。

彩はサングラスのエミリーに再び視線を戻そうとすると、同時に真っ正面の家の二階からあのしらべが重なって聴こえ、見るとその窓には眼鏡をかけ、白いサテンの襟のすっきりとした濃紺のワンピースに身を包んだ姿のエミリーが居た。
サングラスをかけた夏服のエミリーを見ようとふり返ると、その窓は鎧戸
が閉ざされ、その鎧戸は塗装もところどころ脱落し、留め金も錆びつき家屋に絡みついた羊歯(しだ)が、暗がりでもそうと解るほど鮮やかな錆び朱に紅葉して風に揺れているのが、彩の恐怖感を煽った。
普通の羊歯でも充分、薄気味が悪いのに、異常なほど鮮やかな朱を誇る羊歯を、彩は鳥肌の立つ思いで眺めた。

恐らく外来種の羊歯なのであろうが、彩はムンクの『赤い蔦の絡まる家』という絵の中に自分が入り込んでしまったかのような不安感でいっぱいになった。
その家は然し、まるで長く廃屋であるかのようで壁は羊歯に精気を吸い取られでもしたのか、黒ずみ、ひび割れてもいた。
濃紺のワンピース姿のエミリーからピアノの音がやみ、彩はまたもや、狂おしくエミリーを求めてただ無力にふり返るのだが、その家の窓までもが暗闇に閉ざされ、嘘のように森閑としている。
するといきなり全てのピアノが鳴り響き、にも関わらずその音はたったひとつに絞られて、日没を迎える住宅街を大きく沈みゆく巨大な船のような黄昏いろの不安で満たした。

そして彩は見た。
どの家の窓にもエミリーが同時に座り、二階の窓にも、一階の窓にも、テラスに置かれたアップライトにも、
庭の芝生の上のグランドピアノの前にも、屋根のスレートの上にも、遠くに望む丘の鋭利な切り岸の上にも、日没の巨大なオレンジいろに照らされて、エミリーは至るところに同時に居た。

彼女は皆、彼女で、全て一人残らずエミリーだった。
エミリーはあのしらべを奏でながらその音楽に街全体が鳴動し、震撼し、やがて夕陽は血のような『赫』となって流れ、忍び寄り、あのコーヒーカップの中の珈琲のように、何故だか左に向かって否応なしに渦を巻いて流転するのだった。
その『赫』はあの錆び朱の蔦の如く家々の壁を侵食するように色鮮やかに染め上げ、ピアノのしらべは美々しくも病的に高鳴り、彩を責めるようにクレッシェンドで満ち潮となりデクレッシェンドで徐々に退いてゆき、またクレッシェンドで高鳴る階(きざはし)をじりじりと登り詰めてくる。
その乱高下する旋律の波に翻弄され、彩はとうとう耐え切れずに思わず両耳を抑えてその場を走り去った。

逃げて逃げて…一体どこまで来たのか解らない、
彩はどこか大きな見知らぬ白い建物の傍の小径をトボトボと歩いていた。
ヒョロヒョロと細長い脆弱げな木々が、疎(まば)らに早くも冬枯れした芝生の斜面や平らな土地に在り、その見るからに貧しい木立の奥へと彩は足を踏み入れていった。
その寒々しい疎林(そりん)の奥には何故だかヨーロッパにでもありそうなひじょうに壮麗な噴水広場があった。
彩は夕刻のライトアップにその噴水が七色に吹き上がってはまた鎮まり、その同じパターンを繰り返すたび、広場のベンチに腰掛ける恋人達はまるで機械仕掛けの人形のように噴水と同じようなパターンの決まった歓声を虚ろに上げ、時々互いの顔を見つめあっては虚ろで覇気の失せた微笑みを形ばかり浮かべ、また噴水が上がると同じパターンの歓声を上げていた。
傍で立っているカップル達も、何やらギクシャクとまるでパントマイムのような動作しかしない。
恋人達は何故か白い袋を頭からすっぽりと被ったような服を皆、一様に着ており、気がつくと遠巻きに同じく白い上下に分かれた衣服を着た冷たい顔の男女が、恋人達をまるで監視するかのように見つめていた。
やがて恋人達のうち幼げに見える女性の一人が抱いていた人形を足元に落とし、それを拾おうとしてそのまま凍りついたように動かなくなってしまった。
白い上下に分かれた衣服を着た若い男性がその女性の異変に気づくと駆け寄り、彼女の袋縫いされただけの簡単な服の背中のファスナーを下げた。
すると女性の背中には巨大なソケットかコンセントのような何かが露(あらわ)となり、そこへ男性は巨大な発条(ぜんまい)仕掛けの為のスクリューを差し込み、それをギリギリと固く巻き上げた。
トンボの羽根のような形をした、
バネのツマミ部分は巨大なオルゴールのネジのようにゆっくりと回り始めた。
すると途端に彼女は生き返ったかのようにまたギクシャクとではあったが元気に動き出し、人形を拾い上げると同時に彩に気がついて、明るい笑顔で手を振った。
彼女の横で巨大なネジを持つ若い男は、無表情な顔を彩のほうへゆっくりと向けたが、その片方の瞳はひび割れて赤や青の電気コードでぶら下がったまま眼窩から僅かに飛び出しているのが見えて彩は戦慄した。


彩は人形達の噴水広場に近づきかけたものの、その悪夢のような色蒼褪めた臨場感に耐えきれず、その場を再び走って逃げた。
彩はヒョロヒョロと細長い木々ばかりが立ち並ぶ、陰気な林泉を駆け抜けて、いつの間にやら、大きな池を囲む冷たい欄干を握り締め、その上に顔を伏せて彩は声を上げて哭いた。

『酷いわエミリー、
どうしてなの??貴女は私を求めてくれているんじゃないの!?
それとも私を玩(もてあそ)んで娯しんでただけ?
それとも私をただ怯えさせたいだけなの?
だったら私はもう貴女なんか要らない!エミリー私はもう貴女なんか要らないわっ!
貴女なんかずっとあの森で独りぽっちで居ればいいっ!!
私はこんな世界なんか欲しくはない!
私をもとの世界へ帰して!
もう貴女なんか私には必要無いわ!
エミリーなんかあの森と一緒に消えてしまえばいいのよ!
私はただ貴女に逢いたかっただけなのに、
もう一度逢いたかっただけなのに、貴女を恋しく想ってしまっただけなのに…』

すると壊れたオーボエのような不思議な、と同時に悲痛な音声が聴こえてきた。
それは夕陽で赤く染まった瑪瑙のような池に震動し、細波(さざなみ)となって欄干にすがる彩のもとにも、その水の震えは巨きな波紋として伝わってきた。
その悲鳴のような音声のもとを見澄まそうと視線を上げた彩は、池に美しい白鳥が何故か一羽だけ淋しげに朱い水面を滑るように泳いでいる姿を見て今更ながら驚いた。
''こんなとこに白鳥がいたの?"
彩は欄干にすがりながら池を周り込むと、白鳥の近くへと歩み寄っていつた。

遠目には気付かなかったのだが白鳥の傍には灰色の柔毛(にこげ)をそばだてた愛らしい雛鳥が沢山居た。
『お母さんだったのね…』
と今までの悪夢を忘れて思わず彩が独りごちると同時に、白鳥は再びあの壊れたオーボエのような、あるいはファゴットのような、およそ白鳥のイメージには似つかわしくない、美しくもなければ、優雅でもない、非常に野太い野生の声を、一声哭き上げた。
然しその声は優美ではないものの、どうしようもなく悲痛さに満ちていてなりふり構わず慟哭しているようにも彩には感じられ、彩はより白鳥が見えるようにと欄干に手を滑らせながら池の畔へ近づける階段を降りていった。
階段を降りるとそこは人工の白いコンクリートの岸があり、その岸と池との接地面はつるつるに研磨した石を積んで、堅牢にセメントで塗り固められていた。
白鳥は彩が餌を呉れるとでも思ったのか?岸辺に膝をついて座った彩の傍へ、水面を滑り寄ってきた。
それを嬉しく感じた彩は思わず白鳥に手を差し伸べて言った。
『いい子ね、さぁおいで、貴女とっても綺麗よ』
そう言って笑った彩の顔が次の瞬間、恐怖で凍りついた。
何故なら白鳥は胸を深く切り裂かれそこから血を流しながらこちらへ助けを求めるように流れ寄ってくるからなのだ。
白鳥は悲痛なあの壊れた楽器のような苦悶の声を上げながら、血塗れの胸を向けながら、両方の翼の根元をくっきりと浮かせつつ彩に向かって水面をスルスルとやってくる。
しかし彩は恐怖がたちまち引いてゆくのを感じてそんな自分を不思議に思いながらも次の行動は今の彩には自然で、当然至極のことだった。
『いらっしゃい、
いいのよ可愛そうに、
私が手当てしてあげる、
何があったのか解らないけれど、
獣医さんに連れていってあげましょうね、』
彼女はそう言いながら外商でよく歩き回っても疲れず、尚且つある程度の品位も保てると8年も前に買った大切な外勤用のフェラガモの靴を散乱するように乱暴に脱ぎ捨てると、池の浅瀬へザブザブと入っていった。
白鳥はそれを見て今度は急に甲高い、その癖、野太い酷い声で鳴くと大きな翼をバサバサとまるで彩に向かって風を送るかのように羽ばたかせながら、水面で半ば立ち上がり、彩に対して精一杯の威嚇をした。
『大丈夫よ、落ち着いて、
怖くなんかないわ私は貴女の味方よ、
貴女の傷の手当てをしたいだけ、
大丈夫、私、助けてあげる、
貴女を私、助けたいの、だからお願い、私を信じて、』


すると白鳥は苛烈でたくましい老婆のようなひび割れた鳴き声と共に、彩に長い優美な首を一瞬、怯むように後退させたかと思うと次の瞬間、龍のようにその首を突進させて、
彼女の指に噛みついた。
彩はその瞬間、激痛と共に気がついた。
目が覚めたように気がついた。
白鳥は怪我など全くしていなかった。
何故、そう見えたのだろう?
また幻を見たのか?
疲弊と混乱による錯覚か?
それともあまりに朱い夕陽に染まった瑪瑙のような池の水の単なる反映のせいか?
解らない…彩は池の浅瀬でスカートの裾を持ち上げたまま立ち尽くし、茫然となった。
白鳥は突然、入水してきた人間の気狂いじみた行動に驚いて、どんどん遠ざかり池畔近くに待たせておいた雛鳥達の傍まで行くと、彩のことを怜悧な目つきで振り返り今度は一声も発しなかった。
彩は氷のような晩秋の水の中で急に昔幼い頃、施設で紅美子から聴いた話を思い出していた。

『白鳥ってね、お父さん鳥が狐や鼬(いたち)に襲われて、お母さん白鳥だけになっちゃった時、雛達だけを置いて餌を取りに出かけることも出来なくて…しばらくは自分が食べたものを吐き戻して雛達に食べさせるんだって、
でも何日も経って雛に食べさせるものがもうすっかり無くなった時、
その痩せ衰えたお母さん白鳥はどうすると思う?』
一緒に並んで寝ていた少女の彩は稚(いと)けない声で尋ねた。
『…どうするの?』

当時、彩より数段ませていた紅美子は布団にくるまり、その布団の中の闇で濡れて光る円い瞳を更に円くしてこう答えた。
『自分の胸を自分のクチバシで突き破って血を流して、その血を雛達に飲ませるんだって』
『そんなことしたらお母さん白鳥、
死んじゃうじゃない!』
『そうよ、それでも雛達はお母さんの胸からたっぷり流れる血潮を飲んで大きく成長してすぐにでも飛べるようになれるんですって、
お母さんの白鳥の血にはそういった特別な力があるからなんだって、
神秘的な…特別な力が…、
だけどその力は雛達を助ける時のただその一度きりしか使えない力なんだって、

だからお母さん白鳥はそれを知ってて最期の力をふりしぼって雛を守る為にそんなことをするの、』
『…そんなの…そんなの…いや!
だってお母さんが可愛そう過ぎるじゃない!』
『そうだけど…
お母さん白鳥はたとえそうしてでも雛達を守りたいんだよ、
お母さんってね私達はよく知らないけど、きっともし私達にも居たら、そんなんだったと思うよ、』
彩はその夜、一晩中紅美子と抱き合い、泣きじゃくっていたが、夜明け近くなると泣き疲れていつの間にか眠っていた。

今、急に何年間も忘れていたその話を彩は凍りつくような池の中に棒立ちになったまま思い出していた。
彼女はザブザブと今度は白鳥を脅すような大仰な音とジェスチャーで岸へ上がると、濡れたストッキングを脱いで絞り、タオル地のハンカチをバッグから取り出して、冷えきった脚を丁寧に人工の岸に座って拭いた。
そして急にまるで頬を叩かれたように彼女は気がついた。
この間エミリーに逢わせて下さいと月の光に祈った理由を…。
10年以上長く鍵をかけた小抽斗(こひきだし)に仕舞い込んである母の戒名の中には、一年で一番寒い時に亡くなった女性によくつけられるという"月光''の文字が組み込まれているのである。
彩はその月光の文字に意味があるのだと思えてならなかった。
彩はくすんと一つ鼻を鳴らすと思わず囁いた。
『…お母さん…
私を愛してくれていた…?
今もどこかで私を見ていてくれているのかな…?』
やがて昇る月の光で黒曜石と化した池に黄金(きん)いろの月柱(げっちゅう)が長く延び、それは揺らめきながら艶然と輝き、白鳥の親子と岸辺で震える彩とをくっきりとその黄金(きん)いろの揺らぐ帯が二手(ふたて)に分けた。
彩はその揺れる月柱にもう一度祈った。
祈りながら彼女は思った。
こんなこと、ただのままごとと同じでなんの意味も無いんだわ、
ただの祈りの真似事で、真似は真似でしかないから本当の祈りなんかじゃない!
そう思いながらも彩は祈らずにはいられなかった。
『お母さん、
お願いよ、エミリーに逢わせて、
彼女に逢いたいの、
私、恋に堕ちたの、
私はエミリーが好き、こんな辛い思いをさせられているのにまだ彼女が忘れられないの、
これにはきっと何かわけがあるのよ、
エミリーは邪悪な人なんかじゃないわ、
私には解るの、
みんなは誤解しても私だけは解ってあげられるわ、
解ってあげたいの、
だってエミリーも私を解ってくれたから…

愚かだと、子供じみていると、
軽蔑しないでどうか私を助けて、
私、どうしてもまたエミリーに逢いたい…逢ってまたあのオレンジ色のマーガレットが天井で揺れるのを、ふたりで見たい…』
彩は冷たい月の光に濡れそぼったように光る白いコンクリートの岸辺でいつまでも膝小僧を抱いたまま泣きじゃくり続けた。

伝線した時の代えのストッキングをバッグから取り出し、誰も見ていないことを暗闇の中で確認したのち、素早く履き替えた彩は、人工岸に投げ捨てた古いフェラガモの仕事用の靴を、闇越しに痛ましく思って見つめた。
それは漢数字の八の字が遠く離れたように在った。
『ごめんね、私、本当に馬鹿だったわ…』
と彩は言いながらそれを拾って、
いたわるように撫でさすってから履いた。
履き慣れた靴を履いて、彩はやっと安堵と同時に不満までもが混み上げてきて、その場に誰も居ないのをいいことに思わずブツブツと独りごちた。
『…脚全体が冷たくて、爪先なんか痛くて感覚がほとんど無いんだけど…
…でもこれでよかったんだわ、
だって本当に白鳥が大怪我をしていたら、そっちのほうがずっと悲惨よ、
それに助けてあげたいって本気で思って水に入ったけれど、あのまま私、一体どうする積もりだったのかしら?
靴擦れの塗り薬や絆創膏や消毒液の小さいヤツは持ち歩いてるけど…
そんなので白鳥の手当てをする積もりだったのかしら?
出来るわけないじゃない、
そんなもんで、
だけど…大怪我に見えたんだもの、
あの時、獣医に連れてゆかなくちゃって本気で思い詰めていたけれど、どうやって連れてゆくっていうのよ?
白鳥を小脇に抱えて歩くわけにもゆかないし、タオルで包んでバッグに入れてゆくことも出来ないでしょう?
仔猫じゃないんだから…
白鳥よ?
私、気でも狂ったんじゃないの?
おまけに何?噛みつかれちゃったじゃない、
イッタァイ…赤くなってる、
結構キツい鳥なのね、白鳥って…
何よ人の気も知らないで、
何も噛みつかなくたっていいじゃない、何が白鳥の湖だ、
こんな狂暴な鳥だとは思わなかったわ、
もともと私は白鳥なんてツーンとしててすまし返ってるからそんなに取り立てて好きじゃなかったのよ、
黒鳥のほうがクチバシが真っ赤で、よっぽど綺麗でセクシーで、あっちのほうがいい女って感じがするわ、
そんなS気質だからもしかしてオデットって黒鳥のオディールに彼氏の王子様を盗られちゃったんじゃないのっ?』
散々、今更、白鳥に向かって彩は毒づいたものの、白鳥はとうに池の中央にある白鳥用の水上小屋に雛共々入って長い首を軆の豊かな羽根に深々と仕舞い込み、彩のことなど、とうに忘れ果てて親子揃って熟睡している様子だった。
『ふんっ…よかったわね、
怪我なんかしてなくって、
…悔しいけど、でもやっぱり無事で居てくれてよかったわ!』
彩がそう呟くとそれにまるで応えるように欄干の立つ岸の上から、ニャアと猫の声がした。
低くまるで押し潰されたようなあの独特の声だ。
彩は思わず振り返った。





(To be continued…)
    
    

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