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小説『エミリーキャット』第37章・薔薇の告白

『エミリー?』そう言って彩は目覚めた。
傍の暖炉で薪がはぜる優しい音がする。だが彩はまだ自分の躰から潮(しお)の匂いを残像のように感じる気がして、
自分の手足がきちんと在ることを確かめずにはいられなかった。


然し実際に目覚めてみると、彩は暖炉の前に延べてある敷物の上で独り、毛布を掛けられて静かに横たわっていた。
彼女は何故、自分の躰がもとの客間のベッドの上には無いのか?
と、さほど訝しくは思わない自分の変化に気がついた。
ここではそんな現実的な概念や常識感はとうに失われてしまっている。
彩はそのことに少しずつではあったが恐らく自分は馴れてきているのだろうと薄く、遠く、そしてぼんやりと、どこか他人事(ひとごと)のように感じた。
彼女は暖炉から、仄かに漂う清々しい薫りに気がついた。
それは一瞬通り過ぎたような僅か、数秒間の薫りというよりは薫りの余韻のようなものだった。
彩はふとエミリーの『イヴには白樺の薪を暖炉にくべる』という言葉を思い出した。
イヴにはまだ少し遠かったが、その薫りは特に華やいだ薫りでもないのに、彩には何故かイヴを想わせた。
時折ふっとまるで香木を焚いているのかと思うような薫りを放つものの、それはほんの一瞬でしかなく、その芳香がずっと漂い続けるわけではない。
よほど敏感か、あるいは前知識があるか、この余りにもさりげなく薫る白樺の薪には、もしかしたら気がつかない人が多いかもしれない、と彩は思った。それ程、芳香と呼ぶには余りにも、そこはかとなく淡過ぎる薫りであったからだ。
彩は、薄ぼんやりと焔の色を見つめながら思った。
”とても微かではあるけれど…
でもエミリーの言った通り、
確かにいい匂い、薫りとは呼べないほどの素朴な薫りだけど私は好きだわ…。‘’
彼女は敷きものをそっと、
はぐるようにしてその奥に伸びる自分の脚を改めて見ると思い出し笑いをするようにホッとした。
『よかった、ちゃんと人間に戻れて…。』彩はそう小さく囁くと、
上半身をそっと起こした。
パチンと薪が時々大きくはぜる音に、
どうしても不馴れな彩はヒヤリとして暖炉に視線を移した。
辺りは暖炉の焔の反映でほんのりと明るみ、壁も、高い天井にも、
夕陽のような豊かな琥珀いろが揺れていた。


そっと辺りを見渡すとピアノ好きな茶トラのショーンはグランドピアノの前の椅子の上で眠り、ソファーではまるで何事も無かったかのようにロイが長々と寝そべっていた。
するとすぐ傍で何か暖かく柔らかいものが手に触れたような気がして視線を振り向けると、クリスが彩に掛けられた毛布の裾の拡がりの上に、ちゃっかりとまるで文鎮のように乗って眠っている姿が目に入った。
『あらあら…
猫達はみんなまだあの夢の中に居るのかしら?』
ロイをふと見ると、彼はソファーの上で無防備にも仰向けになり、時々白目を向き、髭をピクピクさせながら熟睡中といった様子だった。
『…そんな風ではないわね、
もしそうならあんなあられもない格好でスヤスヤ眠ったりは出来ないと思うわ、
きっと野原をみんなして駈け回ったり、綺麗な小川の水を飲んだり、木登りしたりして楽しい夢を見ているんだわ』
暖炉のほうを振り返って彩はある異変に気がついた。
部屋の一隅、窓に程近い場所にクリスマス・ツリーが輝いていた。
それが窓硝子にまで明るくその輝かしさが反映してまるで鏡のようだった。そのせいで窓外の闇の中にも、もうひとつそっくり同じクリスマス・ツリーが在るかのように見えた。

ツリーはごく少量のイルミネーションが点いてはいるものの、そのほとんどはイルミネーションの輝きというよりは、装飾された飾り玉や金モールや銀モール、金糸銀糸で縫い取りされた、いろんな形を模した綺羅びやかなオーナメントの数々が
暖炉の灯りに照らされて自然と照り映えているといった感じだった。


ツリーがあまりにも自然で威風堂々といった風姿の為に、本当の樅ノ木(もみのき)なのかどうか、と彩は暗がりの中で視線を絞って見澄まそうとしたが判らず、そっと立ち上がるとツリーに近づき顔を近寄せ、つらつらと眺めた。
とても大きいわけではない、
中くらいの大きさであろう。
とはいっても日本の家庭で飾られる一般的なツリーの大きさからは遥かに高さも横幅もあり、葉も枝ぶりもいかにもフェイクという感じがしない。
『まるでホンモノみたいに見えるんだけど…』
と囁きながら彩はツリーを、ためつすがめつした。
彩の瞳や肌にツリーの輝きが反映しても彼女はそれに気づかないまま、ツリーの周りを子供のように顔を輝かせながらゆっくりと一周した。

すると背後から急に聴いたこともない女の声がして彩はツリーの前で、飛び上がりそうになって振り向いた。
『それは本物の樅ノ木じゃないんですよ、まるで本物みたいですけどね、』
七十代くらいであろうか?
品のいい小柄な女性が練り絹いろのニットの上下の冬服の上からのエプロン姿で扉の傍に立っていた。
女性は微笑んではいるがどことなく彩を観察しているような雰囲気を彩は察したくもないのに察してしまい、まるで寝起きの悪さを味わうようなごくごく薄葉紙一枚ぶんくらいの居心地の悪さを感じてしまった。
『ごめんなさいね、
貴女、彩さんでしょう?
エミリーちゃんからさっき聴いたとこなのよ、
私も昨夜遅くにここへ来たばかりだから』
『あの…ごめんなさい、
エミリーの…いえエミリーさんのお母様ですか?』
『いいえ私は…』
と女性は声も無く静かに笑い、
『佐武郎の妻で佳容(かよ)と申します』
彼女は彩に向かって、そうと解らないほど目立たない、
ごく日常的なお辞儀を浅くして見せた。
微かにではあるが下ぶくれ気味の卵型の柔和な顔に、
笑うとくっきりと笑窪があり、娘時代はさぞかし愛くるしかったであろう顔立ちは然し今も尚、さながら齢(よわい)を得た女雛のようですらあり、
底光りするような奥ゆかしい優美さが漂っていた。
『…佐武郎さんって…えっ…
…あの…タクシーの!?』
『ええそう、タクシーの』
と佳容は口紅を塗っていないのに、桜いろの血色の浮かぶ唇に手のひらを当てて、さも愉しそうに小さく笑った。
『面白いオジサンでしょう?』
『……』彩はその心底温かく、胸の奥底まで響くようなその声に神々しささえ感じて、思わず慌ただしく頭を下げるとこう言った。
『ごめんなさい、私、ご主人様にはとてもお世話になりまして』
『いいえそんな…
お世話どころか、かえってご迷惑をお掛けしたんじゃないかしら?
あのひと余計なことが多いひとだから…悪いひとじゃありませんけどね、悪戯が過ぎるんですよ時々ね、特に綺麗なお嬢さんには…
変なオジサンでしょう?』
『いえ、そんな…
愉快で陽気な紳士で…
とても楽しい方でした。』
彩は自らを紳士、紳士と連呼していた佐武郎を思い出しながら妻である佳容にもそう言わずにはいられなかった。
佳容はその言葉にまるで心当たりでもあるのか、
ただ唇をすぼめたような形でまるで思い出し笑いのように、もの柔らかに微笑んでいたが、
『よかったわ…彩さんが善い方で…安心したわ
中には善くない心持ちの方もいらっしゃるから…
わたくし達、エミリーちゃんのこと、心配でね、
でも…よかったわ、安心したわ、
どうかエミリーちゃんと仲良くして上げて下さいね、
私も夫もエミリーちゃんのこと、
とても心配はしてるんだけど、
…私達の意思だけではなかなか来てあげることが今はまだ赦されなくて…


…とても心残りなんですの、
…でもよかった、
彩さんのような優しくて素敵なお友達がエミリーちゃんに出来て…
私も主人も本当に本当に、
…嬉しいわ!』
と言った。
しみじみとしたその言い方と、佳容の瞳に涙が盛り上がり、今にも零れ落ちそうなのを見て、彩は何やら恥ずかしいような気持ちとなり、
思わずうつ向いてしまった。
すると自分が室内履きの靴なのであろうか、
いつの間にかまるでバレエシューズを思わせる淡いピンク・サテンの光沢のある靴を履いていることに気づき、彩はその室内靴にたちまち目を奪われてしまった。
その靴のU字型の足の甲に沿わせたライン上に真珠が並ぶように縫い込まれているのを見て彩は小さく驚いてそれらの華麗な装飾を凝視したが、お陰で佳容への礼節をすっかり忘却し切ってしまっていることに気づき、はっと顔を上げた途端、
『あらっ?』と思わず独りごちた。
開いていた扉は音もなく閉まり、
佳容はいつの間にかどこかへ消えてしまっていた。
彩はまるでまた夢でも見たのかと自分を疑いそうになった。
その疑念のせいで室(へや)の中で薪のはぜる音以外は何もしない
だだっぴろい室(へや)に彩の不安感は黒っぽく巨きく、影の塊(かたまり)のように、宿る気がして彩は軽い恐怖を覚えた。
その為、暖炉の焔のオレンジの映え色が室全体を豊かに彩り、
高い天井にまで揺らいでいるのにも関わらず暗闇がちな雰囲気は一層強く感じられた。
よく見渡せば壁にある接灯は、オパールのような様々な彩りの遊色効果を放ち、壁にまでその虹いろを拡散させている。ピアノの傍のサイドテーブルの上にはランタンが蒼い焔を硝子の小部屋の中で揺らしている。
壁沿いの小卓の上のエミール・ガレの鈴蘭灯は黒い金属のS字型の先にうつ向いて灯り、そのぼんやりとした灯りは紅紫のシェイドの色を映した薄紅いろだ。
色とりどりの灯りが室内を点在しているにも関わらず、あまりにも広過ぎる部屋では闇の帳(とばり)のボリュームのほうが圧倒的に
強かった。
彩は猫達が皆、揃って熟睡しているのも手伝って独り目覚めていることに途方もない心細さと孤独を感じた。
彩は佳容の名を呼んだらまた返事があり、あの柔和な笑顔と共に帰ってきてくれるのではないかと一縷の望みを持って閉められた扉に向かってやや大きな声で呼び掛けた。

『佳容さん?』
呼んだと同時に彩は後ろからいきなり肩を叩かれ、悲鳴を飲み込んだ彩はサッと髪を振ってふり返った。
そこには初めて逢った時と同じ格好のエミリーが立っていた。
黒のタートルネックに淡いグレーのパンツスタイル、その上からあのクローゼットでの夜を思い出す濃いめのグレー地に赤や青や緑の細いチェック柄の入るストールを羽織っているとこだけが違う。
胸に下げた蒼地に白い猫のレリーフのカメオのペンダントもあの初めての日を思い出させた。
『…エミリー!』
彩はまるでごく普通にエミリーが歩いてやってきたかのように彼女の肩に両腕を回して抱きついた。
『よかった、無事だったのね、
私、ごめんなさい、エミリー私、
本当に…赦してくれる?』
『私のほうこそ赦して欲しいの、彩、
彩にはついてゆけないと感じることが、きっと私に対して余りにも多過ぎるはずだもの…。
…怖かったでしょう?』
『あれは夢?エミリー、
もう覚めたただの怖い夢?』
『そうね…ただの夢ではないけれど…でももう大丈夫よ、
嵐は過ぎていったから…』
『でもブルーベルの花は…?』
『大丈夫よ、もう今では咲いているわ、あの野原中、一杯にね、彩のお陰なのよ、花も喜んでいたわ』

『また行きたいわ、
ブルー・ベルの咲く野原へ…
私達また行ける?』
『行けるわ、私も彩と見たいわ、
ブルー・ベルが咲き揃った野原は、それはそれは綺麗よ、彩にも見せてあげたい、そこで今度はピクニックがしたいわ』
『エミリー』
ふたりはお互いの顔をまるで初めて見たように、暖炉の焔に灯されて、しみじみと見つめあった。
エミリーの眼鏡は微かに色が入ったスモークレンズの為に、その奥の瞳は見えるとはいえ、なんとなく薄紗がかかったような見えかたで、瞳の艶や眼の奥の光りは、そこはかとなく伝わるように見えてもやはり、
それはクリアに視えるとは云えない。
彩はエミリーの頬に触れた指をそのまま滑らせてその勢いに委せ、
そっと眼鏡を外してしまおうと試みた。
すると鋭敏なエミリーは反射的に、しかし僅かに顔を反らし、そんな彩の手は宙に取り残された。
『ごめんなさい、私、
エミリーの眼が見たくって…
いつも眼鏡をかけているでしょう?』
『そうじゃない時もあったわ』
とエミリーは急に固い口調になった。
『そうだけど、でも暗かったからよく見えなかったの、
エミリーの瞳が見たいの、
お願い、
眼鏡を外して瞳を見せて』
『……』
エミリーは無表情ではあったがその貌の下には様々な感情が入り乱れ、惑乱しているのが彩には解った。
『ごめんなさい、エミリーいいの、もういいのよ、何故眼鏡を外したくないのか今の私にはまだ解らないけど…
いずれそのことを私には教えて欲しいの、でもまだ言いたくないのなら無理には聴かないわ』
『彩…』
エミリーは黙って彩を強く搔きいだいた。
『…ごめんなさい!もう少し時間をちょうだい、
彩にはいずれ全てを話すし、見せる時もくると思っているわ、
だけどまだ…
わたしのほうにその勇気がないの、でもこのまま何年間も貴女を蚊帳の外に置きっぱなしにされたような不安で心細い気持ちのままにさせる積もりなんか無いわ、
だからお願い、
私をあと今少しでいいから待って欲しいの、』
『解ったわエミリー、私、解った、
大丈夫よ、私、貴女なら信じて待てつことが出来るわ、』
暖炉の灯りの前でふたりは抱き合ったまま立ち尽くしていた。
そのまま地面に根差す樹になってしまっても構わないと彩は心の中で思った。
ああ、エミリー、貴女の前でだけ、私は素顔の自分になれる、
そう思ってるだけで本当はそうじゃないかもしれない、
でも少なくとも私は貴女と居ると、どうでもいい嘘を自分につかなくてもいい、社交辞令も疲弊を隠しての仲良しこよしみたいな交流ごっこも、しっかり者のように振る舞うことも、強い自立した女性のフリも、
楽しくもないのにつまらない上役のオヤジギャグにウケたり、同僚達やマンションのご近所との笑いさざめいての内心辛いお付き合いも必要無い、
ここに居る貴女の前の私はただの『aya』。


吉田すら付かない。
姓など必要無い、
画商でもなければなんのキャリアも肩書きも無い、婚約もしていないし病いすらも関係無い、
キャリアも彩は苦闘して築いてきたものだと誇りに思っていたが、それが役に立つことは今や主だっては人に教唆したり、場合によっては支配的な立場をとることもあった。
しかし彩はそんな生き方を望んだわけではなかったのに好きな絵画の世界に居て何故こんなに違和感や軋轢ばかり感じているのか、と悩ましく思っていた。キャリアも肩書きも名刺のように自らの立ち位置を他人に容易に指し示せるし時には自分の口以上にものを云うので便利でもある。
だがそれらは一体なんてつまらないものなんだろう??
ここに居るとそれをとても感じる。多分、他のところではそんな風には感じることは無かっただろう、
あのエミリーの深層心理である世界で枯れてしまってたブルー・ベルの花が生き返り咲いてくれたほうが、ずっと素晴らしい意味のあることなんだと感じる自分が彩はまるで別人のように感じながらもそのことが嬉しかった。
肩書きなんて人に威を示したり、
時に仕事での効果を狙って支配的に振る舞っても、決して美しいものじゃない、仮にどんなに美しいひとがしたとしても醜悪な行為だ。
花弁のような手触りも香りもない、
香りなんてなんの役にも立たないと人は言うかもしれない、香りをつけたかったらキャリアに克てて加えて高級感に満ちた香水をつければよい、彩だって女だ、香りの類いは嫌いではない。幾つか著名なフレグランスは持っていた。
だが生きた花の放つ精気が宿る薫りは香水と違って時に気圧や天気による頭痛や頭重感を癒し、生理痛の辛さやゆえに起こるどうしても調わない感情のアルファウェーヴや浅い呼吸さえ深くすることがある。


香りは権力と違って人を癒すことが出来るのだ、特に子宮を持つ女と花とは意外なほど親密になれる。
それらは物凄いパワーだ、微塵も支配的では無いにも関わらずちゃんと力があるってなんて美しいことだろう、と彩は思った。
権力にもの言わせることはすこぶる効果的だが生き方としては美しくない、
効果が強いからこそ、その効果を発揮することの出来るポジショニングにこだわった生き方に一度手を染めたら、人はそのポジション以下の生き方には二度と戻れなくなる。
だが権力を鞭として振るう言動は、厚化粧を重ねるようにただ醜悪でしかない。
ひとは権力を持つポジションに立てば立つほどこのような厚化粧を自分の社会的な立ち位置という顔にほどこす。彩は自分もやがては40代、50代となるにつれ職場で重要視されるポストにつくようになるのかもしれない、と時々考えることがあった。
だが男女問わず何かにつけて、自分のポジションを笠に着るような言動をとり勝ちな上司達を見て、彩は食傷する思いをいつも抱いていた。
会議などに出れば30代の彩の意見など、
路面の煙草より簡単に、むしろストレスの発散の場として公然と老獪な上層の輩達に踏みにじられる。
そんな時、彩は自分がまるで人間扱いされていないような気持ちにすらなることがあった。
もしかしたら自分もまた将来、あんな風になってゆくのだろうか?
あんな風に人を支配し、蹂躙し、
そんな言動でいかにも会社の為を装いながらその実、個人的な溜飲を小さく下げる道具や切っ掛けとして目下の者や立場の強くない者を利用しているに過ぎない、
そんな輩に成り果てることに、やがては自分も時にも、歳にも、全てに抗えずに麻痺してゆくのだろうか?
彩はそう思うと本気で戦慄した。
さながら女帝の如く振る舞うことがやがては習慣化し、人を支配したり少しでも相手が意に染まぬと感じた時は、相手にとっては懲罰的な辛い環境を自分のポジションにもの言わせる力で作り上げ、その特権による腕力で相手を孤立させ苦しめるだけ苦しめる。
自分はそれによって溜飲を下げ、
おまけに快楽すら感じる。
そんな妖怪より妖怪的な人間になるくらいなら…
と彩は思った。
…いっそ綺麗さっぱり死んだほうがマシだわと…。

それにひきかえ、もの云わぬ花の力の偉大さは猫を抱き寄せた時に胸に伝わってくるあのゴロゴロと喉を鳴らす音の豊かさと同じくらい『ビューティフル』だ。


紅美子が苛めに耐えかねて校舎から飛び降り自殺をした水絵を『蝶』に喩え、無力で莫迦だから死んでも仕方が無い、といった言葉は彩の心を今も尚、昏くしていた。
一見なんの役にも立たない花や蝶や水絵のような子供達や、大人達も、彩の持つ肩書きなんかより本当はもっと豊かな『美しい世界』を生きているかもしれないのだ。
ただそれらは、今の世の中でなんの役にも立たなければ意味が無いとされるだけだ。
そんな役にも立たないとされるものが活かされる世界がたとえどんなに小さくともこの地球上のどこかに
あってくれたなら…と彩は今、心から思った。
もしそうだったなら…
水絵はこの世界からダイブしなかったかもしれない。
彩が今頃になって水絵の哀しみと孤独を想い、嗚咽が止まらなくなってしまったのをエミリーはただ固く抱き寄せ、彩の耳朶(じだ)に唇を当てて熱い吐息と共に囁いた。
『彩、独りで耐えようとなんかしないで、
お願い、もっと心を開いて、
貴女の心の痛みを愛おしいと思っているわ…
だってそれは彩の血の一部だからよ、


だからもう独りで苦しまないで、
これからは私が一緒にいるわ、
無力な私だけど…
彩と共に苦しむわ、
だから貴女の悲しみや傷の痛みを、これからは私にも分けて、
分けてくれたら私はとても幸せよ
貴女を少しでも楽に出来るのだとしたら…。』
『ええ…エミリー…
…ええそうね…
そうね私には今、エミリーが居る…』
彩はエミリーの腕に身をゆだねながら瞳を閉じたまま、どうしても知りたいことをそっと訊ねた。
『…ねぇエミリー、ブルー・ベルの花言葉って何?教えて』
『そうね…後でね』
『狡いわ後なんていや!
今教えて、いいじゃないの、
それくらい』
と彩は駄々をこねた。
無理を言って困らせたいわけではなかったが、なんとなく急にエミリーに拗ねて甘えてみたくなったのだ。
そうするときっと深い固い包容と、暖かいキスがもらえるような気がしたからだ。
だが気がつくとどうしたことか、
ふたりは暖炉の焔の前でいつの間にか静かにダンスを踊っていた。
エミリーの手に彩の手が据え置かれ、彩の腰にエミリーの手が置かれたふたりはぴったりと寄り添い、
音楽も無い中を暖炉の焔に照らし出されながら、いつまでもゆったりと水面を揺れる花房のようにその場を移動せずに、ただ回るように、揺れるように踊り続けた。
音楽は薪がはぜる音と泣きすさぶように吹く夜の森の木々の間を縫うように吹き抜ける冬の木枯らしの上げる慟哭だけだ。

目覚めたロイが暖炉のマントルピースの上へ高々と音も無く優雅に飛び乗り、猫のそういった特性に馴れていない彩はそれをエミリーの肩越しに見て、思わず息を飲むような小さな声を上げた為、ふたりのダンスはお互いの和やかな笑いにより、そこで途切れた。
エミリーは自分の手のひらへ例によってヘディングするように頭を突き上げてくるロイをひとしきり撫でて、その額にキスすると彩を振り返り、朗らかに言った。
『お夕食にしましょう、
佳容さんが本当は少し早いけどって…
クリスマスのディナーの支度をしてくれたのよ、』
『えっ本当??』
『ええ、
佳容さんとはもう逢ったんでしょう?
今夜のディナーの為に、昨夜遅くに我が家へ来てくれたようなの、
私も一応アシスタントになってお手伝いはしたんだけど…』
と、エミリーは肩をすくめて
『とてもとても…
何をしたってあのレディには敵わないわ、
だってカヨちゃんはお料理の天才なんだもの』
『カヨちゃん?』
『ええ、わたし小さい時よく佳容さんのことちゃん付けで呼んでいたの、
”カヨちゃん、サブちゃん‘’て、
私の親でもおかしくない目上の人達なのに、私ったら馴れ馴れしいでしょう?』
ふたりは思わず笑った。
居間の暖炉から離れたテーブルへ近づくにつれ、彩はすっかり忘れていた健やかな食欲が新芽のように自分の中で芽ぐむのを感じてそれを嬉しく思った。

長方形の広やかなテーブルは、白い清潔なテーブルクロスが掛けられ、花瓶には大量の薔薇が活けられていた。
ピューター製の燭台にはクリーム色の蝋燭が焔を揺らし、銀器やグラス類を照り輝かせていた。
食卓の上には驚いたことに七面鳥の丸焼きがメインディッシュらしくテーブルの真ん中に置いてある。
サラダや副菜が入っているのであろう、大小取り混ぜて蓋付きのシルヴァ―の小鉢や陶器のキャセロールなどが中央に集結し、彩にはそれがとても胸躍り、何やら秘密めいて見えた。
空の皿や小皿や深皿が卓上に並べてられ、また重ねられている。
席の両脇には規則正しくスプーンやフォーク、ナイフ類が並んでいる。
ワイングラスやフリュート・グラス、ティーカップと並んで林立しているのも彩を戸惑わせた。
立ち尽くす彩を見たエミリーは『気負わずに好きなように食べていいのよ、
ここはホテルのレストランじゃないわ、私達の家ですもの』
と言って彩を安堵させた。


エミリーが取り分けてくれる様々な料理は佳容がふたりを喜ばせようと腕によりをかけた、心尽くしのものばかりなのであろう。
野菜やハムや色とりどりの果実が、透けて見える美しいガラス細工のようなアスピックや魚のパイの包み焼き、スープやサラダやフルーツポンチ、クリスマスらしい飲み物のエッグノッグやそのエッグノッグにナッツやドライフルーツ、小麦粉、ベーキングパウダーを加えてオーブンで一気に焼き上げたエグノグ・ナッツ・ローフ、
甘酸っぱいレモン・パイ、
歯ごたえがあって香ばしく、調子に乗って沢山食べるとニキビが出来てしまいそうな、いかにもアメリカンなピーカン・パイ、
どれを食べ、飲んでもどこか遠くに日本人向けの味付けが彩には感じられるような気がした。
食卓にはお握りやヒジキ、卵焼き、鯖のみぞれ煮まであり、彩は喜んだ。
食べ切れないほどのご馳走ではあったが彩はこんな風に豪華でなかったとしても、
かりそめにもクリスマスらしいクリスマスをプライベートに過ごしたのは生まれて初めてのことで、もともと、『ビューティフル・ワールド』で生まれ育った家族の一員であるかのような錯覚を覚えそうになり、
心の中で思わず呟いた。
『莫迦ね、私、そんな幻想を抱くだなんて、たとえ此処が半分夢のような作用をする場所だとしても…
私とエミリーとでは育ちが違い過ぎるのに…』
心の中で薄く自嘲しながらワインを飲む彩を見て、エミリーがふと淋しそうな微笑みを浮かべるのを彩は遠い国の映像を見るかのような気持ちでぼんやりと微酔の被膜の向こうから眺めた。


ふたりは暖炉の前でシャンパンを飲みながらチェスに興じて暫くの間、夢中になったがエミリーが優勢となった辺りでどうしたことか軽い小競り合いになったショーンとクリスがチェス盤の上を駆け抜けてしまい、やむ無くゲームオーバーとなった。
酔いが加わり些かゲームにのめり込み過ぎた彩は小さく憤慨してこう言った。
『エミリーがチェス優勢になるのは無理も無いわよ、
だって英国の伝統的なゲームなんでしょう?私なんてチェス初体験なのよ、それにしちゃ奮闘したほうよ、
ねぇ今度は日本人らしく歌留多をしない?
施設じゃお正月によくみんなで歌留多をしたわ、あの時はしたくもないのに無理矢理させられてって思っていたけどお陰で私、歌留多なら滅法、強いんだから、
私、歌留多なんて持ってないけど、次回来る時買って持ってくるわ、
そしたら私、絶対リベンジ出来るもの』
エミリーは酔いに任せて幼児性丸出しを隠そうともしない彩を愛おしむ姉のように笑うと『花札ならあるわよ、母のものだけど、
じゃあ今度やりましょう、新年にでも、
…でも今夜はもう疲れたわ』
ふたりはハーブティに夕食のアペリティフだったシェリーの残りをほんの少量垂らしたものを飲んだ。
そして抱き合うとそれぞれの寝室へと軽やかなキスと同時に別れた。
だがシャンパンの酔いや、初めて挑戦したチェスのせいで、すぐには興奮が覚めない彩は、なかなか眠れなかった。
客間の壁や高い天井にまで、ナイト・テーブルの上のランタンの揺れる焔がさながらフットライトを室(へや)中に当てたような、過剰に妖美でドラマチックな効果を生み出し、彩は更に高揚した。
そのせいで旧粧しい調度品に付いた小鬼や妖精の彫刻が、リアルで繊細な影絵を造り出し、壁や家具の上、高い天井にまでランタンの灯影がそれらを鮮明に映し出した。


その影絵が少しずつ蠢(うごめ)いて、伸び上がり、やがては妖精がコケットな動作で小鬼を誘い、
誘いにのった小鬼とふたりで扇情的な行為に及ぶ姿が赤裸々に、壁だの天井だのに大きくそして小さく、伸縮するように映し出された。
徐々に早まりゆく呼吸や、互いに打ちつけ合う楽器のような音、
その癖、楽器ではないその生命力に溢れた音は段々とリズミカルに早く、そして強くなり、顔を左右に激しく振って喘ぐ妖精を見て、彩は思わずネグリジェの上から自分の谷間に手を当てた。
手を当てただけなのにその感触が、彩の柔らかい肉感を押し拡げ、その奥に睡る泉沸く芯部にまで深く深く浸み渡るように響き、彩は妖精と同時に思わず枕の上で、頭をのけぞらせると切なく喘いだ。
天井にまで小鬼の影が蝙蝠(コウモリ)のような翼を延ばして長く這うように伸びゆくような気がして、彩は余計に興奮して眠気がかえって取り払われてゆくばかりか、同時にそこへ幽かな怯えも芽生えた為に、
大人しく眠ることを諦めて、
そっと扉を開くと廊下を覗いた。


エミリーの寝室は一体どこに在るのだろう?エミリーのベッドに子猫のように滑り込んで一緒に眠りたい、何故今夜は別々なのよ?
と彩は思った。エミリーにどうしても愛撫されたい、と彩は痛切に思った。こんな時にエミリーが傍に居ないだなんて…と彩は泣きそうになって思った。”エミリーったら別々なんて酷いわ!‘’
彼女は長い廊下を歩くうち、廊下がどんどん先に長く果てしないほど伸びてゆくような気がして眩暈に襲われそうになった。
『ここの廊下はずいぶん意地悪なのね、先に先にと伸びてゆくだなんて、これじゃいつまでたっても遠くへは行けないじゃないの、
でも諦めないわよ、絶対エミリーの寝室へ行くんだから、』
彩は階下へ降りると暖炉の焔はまだ燃えていて周りで猫達が気持ちよさそうに眠っているのを扉越しに見ると居間を後にした。彼女は他の部屋を冒険がてらエミリーを探してみようと思って客間を出たにも関わらずなんとなく後ろめたさを感じ、やはり客間へ戻ろうと階段を登りかけた。すると上からエミリーの声が、まるで花時の芳(かぐわ)しい紅雨のように降りてきて、彩は思わず額に手の甲をかざし、まるで目映い山の頂を見るようにして天井を振り仰いだ。
赤い絨毯を敷きつめた螺旋階段が幾重にも夢見るように連なり、そのまるで薔薇の花弁の重なりのように見える階段の手摺りからエミリーが顔を出し『彩、貴女も眠れないの?
こちらへいらっしゃいよ』
と誘(いざな)うのが見えた。
目の覚めるような緋赤の絨毯が鮮やかな螺旋階段を見上げて彩はふと、ここの絨毯ってこんな色だったのかしら?とふと熱に浮かされたように、どこかぼんやりといまだ夢見心地のまま思った。


下を向いて声をかけるエミリーの顔は暗くてよく見えないがその声はむしろ晴れやかだ。
『エミリーも眠れないの?
ごめんなさい私、エミリーのとこへ行きたくなっちゃって…エミリーの寝室を探していたらなんだか迷子チックになってしまって…』
と彩は今更だらしなく襲ってきた後ろめたさにほんの少しだけ嘘をついた。
『いいのよ、好きに探索して…
ここはもう半ば彩のうちみたいなものなんだから…だって彩はもう家族でしょう?』
その声に答えようと彩は階段を上がりながら上(うわ)向くとエミリーはもう居なかった。


赤い螺旋階段は高く尖った薔薇の花芯のようにうず高く巻き上がっていき、どこかひずんだ円を剣弁咲きの花弁の如く互い違いのスパイラルラインを描きながら、天井に向かってどこまでもくるくると巻かれたパラソルのような左周りとなり、天井に向かって彩が見上げるその先からどんどん高まってゆく。
さながら高芯咲きの薔薇のうずを巻く花芯部分か、薔薇いろの巻き貝の中にでも居るようだ。
巻かれたパラソルを小人となって内側から見ているような錯覚を彩は覚えそうになった。
その花咲く薔薇を『外』からではなく下方ではあっても『内』から眺めるような不思議さに彩は薔薇というよりは薔薇型の鋳型の中に居るような気がした。初めてエミリーと出逢った時、黒薔薇の階段を小さな人形のようにけたたましくヒールの音を立てながら駆けおりた彩はあの薔薇の妖魔に長い蔦のような舌で捕らわれあっという間に食べられてしまった。もしかしたら…と彩は思った。この真っ赤な世界で私は薔薇の鋳型にこの薔薇いろの空気や虚無や微熱や恋情と共に流し込まれて、全部一緒くたに鋳抜かれてやがてあっという間に一輪の『aya』と名付けられた薔薇となってしまうのかもしれない、そうしてエミリーに毎日毎晩、
『美しいaya、なんてよい薫りなの』
と愛でられながら暮らすのだ。
そしてやがて萎れ枯れるとエミリーの優しい手によってビューティフル・ワールドの庭にエミリーの涙と共に埋葬され、土の下で昏々と眠り続ける、やがて春がくれば芽吹き、花開き、エミリーに選ばれ口づけと共に摘み取られ、エミリーの傍で愛でられながらエミリーのベッドサイドかピアノの傍でほんの数日間、暮らすのだ。
そしてまた枯れると再びエミリーは泣いて『aya』と云う名の薔薇の死を悼み、薔薇の庭に埋葬する。
そしてまた春が来れば…
この永遠の繰り返しになるのだろうか?彩は熱に浮かされたようにそのことを想い、それでも構わないわ、エミリーに愛され続けるのであれば、私は喜んで彼女の愛する一輪の薔薇になる、と思った。
そんな彩の心模様を知らないエミリーの声が真っ赤な薔薇の花弁の雨のように彩の上に降ってくる。
『彩、早く、こっちよ』


とエミリーが驚くほど高いとこから顔を覗かせて言ったので彩は首が痛くなるまで上を見上げなくてはならなかった。
果てしなく高みへと花弁伝うカーヴを描きながら彩はさながら赤い薔薇の中を歩いて登るような気持ちになりながらも、エミリーを目指して階段を早足で駆け登った。
しかし登っても登ってもエミリーの姿が見えない。
『エミリーどこ?ねぇどこに居るの?』
『ここよ、彩、大丈夫、
ここまで登ってきて』
とエミリーが三度(みたび)顔を覗かせた欄干は信じられないほど上にあり、彩はまるで塔を登っているような気持ちになった。
そう思って見上げると、螺旋階段は幻想絵画の廻転する宇宙のようで、
螺旋階段というよりもまるで今や、真紅の暗号か記号絵図か、巨大なヒエログリフの中にでも居るかのようだ。


しかしよく見ると螺旋階段の一番上には天井ではなく教会のような壮麗な薔薇窓さえ見える。
『エミリー、ここは二階建てじゃなかったの?
一体どこまで昇れば…』
と言いかけて彩はふと目の前の踊り場に大きな犬が座って、しきりに尻尾を振りながらこちらを見下ろして居ることに気づき、悲鳴に近い声を上げて壁にへばりついた。
『エミリー!エミリー!
犬っ!犬が居るわ
エミリー!ワンが居るわ、
ワンよ!ワン!
ニャンじゃなくてワンが居る!
どうしたらいいの?
凄く大きな犬が目の前に居て私、
これ以上怖くてもう登れないわ!!』
するとエミリーは更に高い位置の、ほとんど薔薇窓の間近で顔を覗かせると、こう言った。


『その子はバターカップよ、
うちの犬だから安心して、
雄の癖にその子はクリスや他の猫達を自分のお乳を与えて育てたのよ、
とっても優しくて悧巧だしいい子なんだから、
だから猫達ともみんな凄く仲良しなのよ、
兎に角、早く上がってきて、彩』

『そんなこと言ったって…』
彩は泣きそうになりながら首をこれ以上倒せないほど倒して上を見上げたが、エミリーは求心型に巻き上がった花芯の縁から覗かせていた顔をすぐに引っ込めてしまった。
彩は目の前の犬を見つめて途方に暮れていると再度、エミリーの音楽的な響きと余韻を持つ声がはらはらと舞う桜雨(さくらあめ)のように振ってきて、彩は手摺りから薔薇の頂上に居るエミリーを半分泣きながら見上げた。

『バターカップ、彩を上まで案内してあげてね、
彩、バターカップは身体は大きいけれど温和しくて、優しい子だから彼についてきて』
『わ、解ったわ』彩は震える足を無理矢理、上げながらギクシャクと階段を登った。彩は幼い頃、離し飼いにされていた近所のシェパード犬に噛まれたトラウマがあり元来、動物好きではあるものの犬は些か、苦手なのだった。
特に大きい犬は怖かった。
『貴方、バターカップっていうの?
シェパードみたいに見えるけど…
でも違うわよね?だって耳が片方だけ倒れているし…よ、よ、よろしくね』
ヴァウンッ!と声を限りに返事をされた彩は驚いて一段階段を踏み外しそうになりながらも、おっかなびっくり薔薇の階段を登っていった。
バターカップは先立って彩を水先案内の如く上へ上へと導いてはくれたが、へとへとになった彩はとうとう階段に座り込み、ぞんざいにバターカップを見上げるとこう言った。
『ちょっと待って、バターカップ、
お願い、ここで一休みさせて、
本当に…水筒でも持って来ていたらよかったのにって思うくらいよ、』
『ヤングレディ、
だらしないわね、
私より年下で若い癖に何言ってるの?
もう少しじゃない、
ここまで来たらもう私の部屋だから頑張って来て、彩』
エミリーの間近な声を聴いたバターカップは大きな尻尾をバサバサと振って振って振り回し、露骨に喜色ばんだ様子で彩をさっさと置き去りにしてエミリーのもとへと行ってしまった為に、彩は緋いろの階段に独りぽつねんと取り残されてしまった。
が彼女は諦めて次の踊り場までは我慢するわと重い腰を上げて振り返った。
その途端、彩は思わず声を上げた。
目の前に既に部屋が拓けていて、
天井は屋根の形となり、更に屋根の上にある小屋根までが内側から望めた。
『ここから街が見えるのよ、彩、
来て!』
エミリーは大きな窓を開いたまま彩を振り向いて手招きした。
気がつくとエミリーの周りにはさっきまで暖炉の端に居たはずのロイやクリスやショーンまでが当然のような顔をして居て、おまけに見たことも無い風体の猫が数匹エミリーの傍にいるのを見ても彩はもはや全く驚かなくなってしまっていた。
『ねぇエミリー、今度はまた違う猫が居るんだけど』
『この子はね』とエミリーは三毛猫を指して言った
『ロージィよ、ロイの奥様なの、
つまりロイ夫人ね、とても可愛くて美人でしょう?いかにも日本の猫らしくエレガントだわ』


『えっそうなの?そういや前に聴いたわね、ロイの奥さんは三毛猫の日本猫だって、
でも今まで一度も見たこと無かったわ、ロージィもだけどロージィの傍にいるもう一匹の薄灰色がかった小柄な猫ちゃんも初めて見る顔だわ』と彩はにべもなく言った。
『彼女はブルーベルよ、
ブルーベルもとっても美しくて聡明な子なの』
『ブルーベルってあの花のブルーベル?』
『ええ、でもそう深い意味はないの、だってほとんど牝の子達は花の名前だし、ベッドで眠ってる白いフサフサの子はブルーベルの娘のスノードロップ、名前の通り花のように優しくて綺麗な子よ』

奥に居る茶と白のぶちの子はスノードロップの妹でスイートピー、
お茶目でキュートな女の子よ、
シャムみたいに見えるのはジャスミン、宝石のような碧い瞳がチャームポイントなの、
みんな姉妹で、同時にクリスの姉妹よ、』

『今まで彼女達の存在には少しも気づかなかったわ』と彩が言うと
『彩が初めて逢ったと感じているだけで本当は彼女達もバターカップも、最初からずっと私と一緒に居たのよ、
貴女の目に見えなかっただけなんじゃないかしら、
みんなが段々、彩に心を許してきてくれている証拠だわ、
彩の目にも彼らの存在が見えるようになってきたということは…
よい兆しよ、特に犬だけど猫よりナーヴァスなとこのあるバターカップに心を開かれたなんて彩が初めてだわ、』
『犬が居るだなんて私、聴いてないわよ』
とまだ口を尖らせるような彩にエミリーは言った。
『彩ってばそんなに怖がらないで、
バターカップは牡だけど女の子より優しい子よ、』
『私、昔、施設の近所にまだ大人になりきってないけど充分に大きかったシェパード犬を離し飼いにしていたとんでもないお宅があって…
そこのワンちゃんに噛みつかれたの…
どうも遊んで欲しくてじゃれついて噛んだようで…だからたいした怪我ではなかったけれど…。
追いかけ回されて、凄く怖い思いをしたのよ?
だから大きなワンちゃんには…
特にシェパードには…
トラウマがあるのよ、私、
シェパードなんて私が幼稚園とか、小学生の低学年くらいまでならよく見かけたけど、最近じゃあまり見かけなくなって、ちょっぴりホッとしていたのに…
まさかこんなところで懐かしのシェパードと出くわすだなんて』
と皮肉めいて言いながらも、彩はバターカップを見て泣きそうになった。
『まぁ可哀想に、彩、
でも安心して、この子はシェパードじゃないわ、シェパードと何かが合わさった私と同じミックスだから』
『私にはほぼ同じよ』
と言うと彩はまるで不機嫌な猫のように小さく唸った。
そして不機嫌のベールの下から部屋の中を改めて見回すと、ありとあらゆるとこにいろんな色柄の猫達が居て、彩は瞠目した。
フサフサと毛足の長い猫はロイとクリスと純白のスノードロップの3頭くらいで、後居るほとんどの数が、
短毛種だ。
『いずれ、彩もみんなと仲良くなれるわ、
もちろんバターカップともね』
エミリーに招き寄せられて、彩は三角小屋根の奥にある大きな窓から白い鎧戸を開け放ち、夜の街をエミリーと並んで見遥かした。
森のざわめきが暗く広い湖の波のように、すぐ下方に三角波を立てたように揺らいで見える、
その遥か遠く先に、街のネオンの煌めきが広大無辺な大海のように、
果てしなく拡がって見えた。
大海は輝きの素粒子を中央
に濃縮して集め、裾拡がりにその光りの粒や欠片(かけら)が徐々に水増しされたかのように、その色も輝きさえも色落ちし、艶消したようになって暗闇へと徐々にグラデーションをつけて溶け込んでゆくのを見て、彩は平素、自分もそこに居て暮らしているはずなのに‘’都会はまるで光りと闇で出来たピラミッドみたいだ…”
と思った。
すると隣でエミリーが、どこかさみしげな声で囁くように、街の輝きを見つめたままこう言った。
『いつもここから街を眺めていたの…
私には関係の無い刺激的で、でも魅力的で、活気と煌めきに満ちていて…
でも怖くて…私が行くと苦しくなるところなんだって…
そう思ってここからいつも遠くを眺めていたわ』
『苦しくなる?』
『…ええ…子供時代から私はなんだか…普通じゃなかったわ…
それは周りだけじゃなくて、私も感じていた、でもだからといってどうしたらいいのかなんて解らなくて…
…解らないけどただただ悲しかった…。
私は半分イギリス人だけど、イギリスで生まれたんじゃなくてアメリカで生まれたの、
アメリカにいても私はやっぱり自分と周りとの口に出せない、表現のしようのない違和感に、幼い頃から密かにずっと悩んでいたわ』
『…エミリーは何故アメリカで生まれたの?イギリスでもなく日本でもない、何故そんな外国で…』
『母と父が出会ったのがアメリカだったの、それは前にも言ったわよね?』
『エミリー、エミリーはアメリカの帰国子女なの?
私、エミリーのアメリカ時代の話が聴きたいわ、
だって私、外国なんて行ったことないもの、異国の話にはとても興味があるわ』
エミリーは窓外の遠く夜景を眺めながら頷いた。
『いいわ、
私はアメリカのニューヨークで生まれて、シカゴ、あとはウェスト・コーストのカリフォルニア方面で主に育ったの、
…当時の若かりし日の父は、アメリカに居る父の兄のコネで初めてアメリカでの個展を開いたばかりだったの…
その頃…父はとってもヘヴィなわけありの私の母と出逢って恋に堕ちた…』
『個展?』
彩の胸は強く掴まれたように痛んだ。
『ええ、私の父は画家だったの』
彩は彫刻のようなエミリーの横顔を見ながら目の前が段々暗くなるのを感じた。彩は喘ぐように訪ねた。
『…もしかしたら…お父様の名前は……ダルトン?
ビリー・C・ダルトンって云う人?』

(To be continued…)

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