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小説『エミリーキャット』第32章・Mirage

まだ火曜日…と彩はドレッサーの前でため息をついた。
いえ、もう火曜日、もう火曜日になったのよ、憂鬱な月曜日は過ぎ去った、
明日になれば水曜日、すでに中日(なかび)だわ、
金曜日までもうあと少しよ、
と彩は鏡の前で自分を鼓舞した。
鏡台は本来、化粧や素膚の手入れをする為の場であるが、彩の鏡台は机の部分が比較的ゆったりと広い為、ついそこで手帳を開いたり手紙を書いたり、珈琲を飲んだり簡単な食事などもしてしまうことがあった。
洋式のドレッサーではあったが、
使っていない時には鏡に後から備え付けた覆い布を掛けていたので、化粧などの本来の用途以外で使う時には鏡はいつも覆いが下ろされていた。
鏡を覆う布は手先の器用な紅美子が過去に鏡を採寸して縫ってくれたものだった。
その為、覆いはきちんと鏡のゆるやかなカーブに添って作られ、別布で裏打ちもされており、しなやかでありながらも丈夫なものだった。
前身ごろと後ろ身ごろがあり、後ろ身ごろ部分が鏡の背に被るようになっていた。
そこの部分のサイドで細い共布をリボン状に結び、鏡と覆いとがエプロンを掛けたようにしっかりと合わさるとこも、覆いが、ずれたりせず安定感があって彩は気に入っていた。
前身ごろのような部分はストレートに鏡面に向かって沿うように垂れる作りとなっていて、必要時、そのストレートの覆い布だけをまくり上げて鏡の背面へ掛けて鏡に向かえばよいのだ。
兎に角、使い勝手がよく彩のお気に入りだった。
彩は朝夕と実質上、鏡を見る時間は少なくともドレッサーの前で過ごす時間を大切にしていた。

ドレッサーの前で音楽を聴いたり、手帳を開いて仕事上のスケジュールをチェックしたり、タブレットへ先輩や事務の人達から送られてくる連絡網のチェックをしながら珈琲を飲むこともある、
画商の質を落とさない為の学習会でのコーチングの際の勉強の為に、
自分もあらゆる美術書を本棚から引っ張り出してもう一度読んだり書いたりもするなどのおさらいをする時もある。
彩は使い慣れたティファニーのマグカップ『floral』の金箔の覆輪を、そっと指でなぞった。
飲んでいた珈琲の滴が、彩の下唇の形になって覆輪の黄金(きん)色の環の上にうっすら残っていたからだった。

すると彩の唇にエミリーの指の感触が蘇る気がして彼女は思わず人知れず訪れた疼痛に耐える人のように眉根を寄せて眼を閉じた。
外は雨である。
早朝の晩秋は昏い。
夏の名残をまだ感じる秋とは違い、晩秋はもう冬への扉がすぐ間近に見え始めた深い深い森の入り口に立つような季節である。
こんな時、彩は眼を閉じて自然の音にだけ耳を澄ませるのが好きだった。
彩の棲むマンションは、小さな地元の人間でも知らないほどの鎮守の森があった。
森そのものはそこそこ広いにも関わらず小さな無人の神社はその存在を知らない人は少なくはなく、ウォーキングや犬の散歩人ですらただの森くらいに思っている人もいた。
あまり神社なのだという謳い文句は大々的には掲(かか)げられておらず、どちらかといえばひっそりし過ぎているせいか、知る人ぞ知るという穴場のようにもなっていたのだ。

そこの森にはアオバトと呼ばれる種の胸が耀かしいほどの山吹いろで、背や羽根がラピスラズリの如く蒼く、眼はルビーのように紅いという非常に美しい鳩が棲息しており、
その市のシンボルの鳥とされていると聴いた彩はウォーキングがてら、その森を幾度も訪れたことはあったが、その鳩を残念ながら見たことは一度も無かった。
バードウォッチングをしている主婦から聴いた話だとアオバトはまだ見たことは無いが、子供達と居る時に祠の傍の茂みで野生の白蛇を見たことがあるという、
にわかには信じられない逸話もあるベットタウンの神秘の森でもあった。

都市部にささやかであっても自然を禁猟区域として保護し、意識的に森林地帯を残している界隈がそこここにあるこの緑豊かな街に建つこのマンションでは、都会で見る土鳩ではなく、森林にしか棲まないというキジバトの鳴き声がよくマンションの窓辺でさえ聴こえ、彩はその優しくもどこか、物憂い鳴き声で朝、目覚めることも珍しくなかった。
瞳を閉じて耳を澄ませていると、雨の音がまだ朝霧の立つ早朝をより静けさで覆い、雨音しかしない朝の乳白色のムーンストーンのような空気を更に白濁させてやがて街中をまるでミルクのように真っ白に染めてしまうのではないかという気がした。
マンションの傍にある小さな縫製工場のトタンの軒に落ちる雫の音、
アスファルトに落ちる雨の音、
自転車置場の屋根に落ちる音、
停車している車の上へ落ちる雨の音、
…落ちる場所やものによって''音"は様々に変わり、同じ雨音でも全然違う。

木管楽器と  鉄筋楽器ほどの差があると彩は思いながら珈琲をもう一口飲んだ。
エミリーがバスケットに入れてくれたショートブレッドをひとくち噛ると、その仄かな甘さに彩の閉じた瞳から涙が流れ落ちた。
''ねぇエミリー今、どうしているの?早く貴女に逢いたい…
貴女をもうこれ以上あの鎮かな森の大き過ぎる家の中で独りぽっちにしたくはないわ…"
彩は涙が止まらなくなるのを抑える為にその動揺の波の防波堤となるべく"音''に耳を澄ませた。
都市部では車が雨の湿度をはらんだ音をたてて独特の疾走音でたちまち遠ざかるのが遠くのほうで錯綜するように聴こえる。
その音が酷く耳障りに感じたのは何故か今朝が初めてであった。
彩の棲むマンションは車道側からは遠い為にそんなには車の音は平素、気になることは無かったが、森の中で過ごしたあの鎮かな夜を知ってからというものの、彩の耳障りはなんとなく増えた気がした。
"どうしてかしら?いつもはそんな風には感じられないのに…''
最初はそう思っていたが笛吹ケトルの甲高い音、キッチンタイマーの音、バスルームでは風呂が設定した適温になったことを知らせる効果音までもが流れる。
キッチンでは調理中、五月蝿(うるさ)く喋る家電まで居る。
元来、テレビなどのメディアを好まない彩は普段ニュース以外はほとんどテレビを見ないものの、NHKの朝のニュース番組ですらキャスターやゲストなどのそらぞらしい態度や慇懃な話し方、教養高げな嘘臭い笑いかたに鼻白み、何やらすぐに切ってしまいたくなった。
''エミリーはあんなにフランクで子供のように正直で真っ直ぐなのに、イヤね、この人達、
どうせとんでもない偽善者の食わせ者に決まってるわ"
などとふと心の中で眉をひそめる自分に気づいて彩は自分で自分に''はて?"と思った。
独り暮らしには些(いささ)か間数も多く、その一室一室も広過ぎるマンションに住む彩は掃除や雑用をしながら電話をするうちに時々そのままうっかりスマートフォンを深刻なまでに行方不明にしてしまうことがある。
話し掛けて自ら居場所を知らせてくれる普段重宝なSiriまでもが今ではなんだか煩わしく感じた。
あの森はあんなに静かだったのに、と彩は思った。
もし私がエミリーと一緒にあの森に棲んでいたら…
と彩は思った。
スマートフォンなんてきっと使わないと思うわ、それよりも本を読むほうがずっといい、
森のざわめきを聴きながら、庭や森の中を歩くほうがよっぽどいい、
エミリーと一緒に猫達と遊ぶほうがずっといい、エミリーと暖炉の前で薪が燃える音を聴きながらふたりで夜のお茶を飲むほうがよっぽどいい、

暖炉の前に延べた敷物の上で、エミリーは純銀製のトレイに旧粧(ふるめか)しいティーセットを乗せて、お茶の用意を優美な所作で整えてくれた。
ティーポットの中で揺れるお湯の音、ティーカップにホトホトと注がれる紅茶が立てる小波の音、ブランデーがトクトクトクと静かで少しだけ急ぐような音を立てて紅茶の海へ落ちる音、
ティー・スプーンをソーサーへ置く音はまるでコインが遠くの大理石の上へ落ちるような澄んだ小さく愛らしい音だ。
薪をくべる重いゴトンという音、
パチパチと静かに燃える焔の音が時々、ビックリするほど大きな音を立て彩は最初爆竹かと思って飛び上がりそうになったりもしたが、近くのソファーやウィンザーチェアに寝そべる猫達ですらその音には慣れているのかうっすら片目を開けるくらいが関の山で、たいして驚きもしないことに逆に彩は驚いた。
エミリーは幼い頃から父親に教わり、すっかり暖炉の扱いだけは料理以上に手馴れたものだと云いながら、火掻き棒で暖炉の灰の中に眠る燠(おき)をつつき返すと、
それが目覚めたように赤く燻り出すのを彩に見せた。
しかしその燠に勢いがあり過ぎると感じると彼女は再び灰をかぶせて焔を優しく鎮め、その手綱さばきの巧さに彩はまるで暖炉の焔の精をさながらたおやかな妖精の女王のようにエミリーが操っているかのように
感じてしまい、彼女はまるで出し抜けに子供に返ったかのようにそんなエミリーを単純に尊敬の眼で見つめた。
『クリスマスにもし彩が此処へ来てくれたら…白樺の薪を用意するわ、
白樺の薪で暖炉の火を起こすとね、とてもいい匂いがするの、
香り高い暖炉の前で彩と私と猫達とで静かで安らかなイヴを過ごしたいわ、』
エミリーの言葉を思い出して彩は思わず鏡の前で微笑むとため息をついた。

''もう泪は流れない、''
だって私にはエミリーとあの森の中のビューティフル・ワールドで過ごす暖かいイヴが待っている"
彩は思わず鏡の中の自分に向かってフフッと声に出して笑ってしまった。
クリスマスイヴを指折り数えて待ち焦がれるだなんてまるでうら若い二十代の女の子か、あるいは子供のようだ。
解ってはいても彩の胸は夢と期待でいっぱいになった。

記憶に耽って瞳を閉じていた彩は、ふとベランダのすぐ傍を鳩か鴉か解らぬ大きな鳥がすぐ間近に強い羽ばたきの音を立てて通り過ぎてゆくのを見た。
薄いカーテンを透かして何故かまるでフットライトを浴びたかのようにそのシルエットを窓一杯に見せた鳥を目の当たりにして彩は驚いた。
その時、彩の中にエミリーとのクローゼットの中での会話が急に甦った。
『声を立てて笑わないで、
微笑みだけのほうがいい』
エミリーはそう言った。
そして何故か霧がかかったように思い出せない記憶の扉が次々開くのを彩は鏡の前で瞳を閉じたまま感じたるままに任せた。
すると鏡台の卓上に乗せた重たい美術書の頁(ページ)が、無風の室内で何故か次々と音を立ててめくれていった。

すると同時に失われていた記憶が彩の脳裡にゆらゆらと陽炎(かげろう)のように立ち登ってくる。
エミリーはこう言ったのだ。
『声を立てて笑わないで、
今は微笑みだけのほうがいい、
だって雨の音が聴こえなくなる』
そうしてふたり同時に瞳を閉じて抱き合ったのだ。
エミリーの言葉が蘇る。
『独りで雨の音を聴いてばかりいると時にとても辛くなるの、
雨音を聴くのは大好きだけど…
時には耐えがたくて…
でも今夜は違う、彩、貴女が傍に居てくれる』
何故だろう?クローゼットの中は寒くなかった。
そしてあの匂い…
いつ、つけたのかさえ解らないような旧くなった練り香水のような遠い残り香、
そしてまるで赤ん坊の吐いたミルクのような幽かな匂い…
不快に感じそうな匂いなのに彩には何故か少しも不快には感じなかった。
むしろどれも懐かしいような悲しみと疼痛とに彩られている。

そんなものは無いほうが無論好いのだが、あっても耐えられなくはないのは人が自分の体臭やふと感じる自分の性的な匂いを不快に感じないのと似ている気もした。
これが他人の匂いであったならもしかしたら耐えられないかもしれなかった。
エミリーは言った。
『彩の悲しみの匂いよ、
それと私の悲しみの匂いとが今、
抱き合ってひとつになったの、

この匂いも匂い以外のことも、多分誰もが私達を否定するでしょうね、
だけど森だってとても奥へ行くとね、
落ち葉を拾って手入れをするわけでもないし、野晒しになっている部分もあるの…
そこは落ち葉が深く深く積もったのち、時間をかけてゆっくりとバクテリアや様々な微生物達の偉大な力を借りて、天然のとても上質な腐葉土へと変わってゆくわ、
それが森のキノコや蕨(わらび)や薇(ぜんまい)
野生の花々やこの森に棲む禽(とり)達や栗鼠達の食べるものを育み、
小さな若い樹の芽までをも産み出して育むの、
でもその腐葉土が出来上がるまでの森奥はとてもいい匂いとは云えない状態になる、
だけど森にとってはそれはきっといい匂いよ、だってそれらはきっと彼らにとって森の胎盤の匂いのはずだから…

動物達は母親の胎盤を食べる子供もいるそうよ、母親の獣だって自らの身体から出た胎盤を食べて出産したばかりの肉体の回復を速める為の滋養とするものもいるわ、
確かに人間には考えられないことで、それをおぞましく感じる人も居るかもしれないわね、
それを私は不潔だなんてとても感じることは出来ないわ、

彩の喪った痛みは今もまだ貴女の胎内にある、無くても…あるのよ、
エミリーはそう言って彩のセーターを捲り上げて彼女の腹部に口づけをした。
素膚と素膚が触れあう感触がこんなにも心地好くずっと触れていたくなるものだと彩はそれまで感じたことは無かった。
手入れなどされていないざらざらしたキメの荒い男の肌とはまるで違う、時々小さな脂肪か、吹き出物なのか、肩にも背中にも小さな塊が指の腹に当たり、それを爪先で痛くないようにそっとそっと薄く削り取っても、気がつかず、まだざらつく男の肌はとても分厚くて硬い。
女の肌はお互いにまるでピンと絹を張ったような、なめらかで張りのある手触りで、それは決して若くはなくとも手入れのゆき届いた女の肌だけに許される柔らかさとすべらかさだった。
頬はさながら淡くうぶ毛に覆われた水蜜桃に触れているようだ。
コーラルピンクの不思議な海牛のような生き物が艶(なまめ)かしくゆったりと彩の躯の線に添って這うように移動してゆく。
あれはなんだったのだろう?
と彩は瞑った瞳の裡に浮かぶ何やら奇妙で扇情的な幻影を追いかけた。
思い出した、あれはエミリーの舌だ。
ウミウシのようでありながら時折、蝶がその触角と同じくらい微細で脆い脚で横たわった彼女のウェストのカーブに止まるような危うい感触、あれはなんだったのだろう?
思い出した、
あれはピアノを弾く為に長く伸ばしていない花弁ほど無害なエミリーの爪だ。

時々彩の乳首の上をピアノの鍵盤のようにスタッカートで奏でたりする。
その悪戯にくすぐったくて笑い出したくなる、なのに笑い出しそうになるとあの珊瑚色のイキモノが彩のスカートの奥を掬い上げるようにする。
彩は何故だかまるでキッチンのシンクで剥きたての熟れて甘い桃を皿もフォークも使わずにその場で種だけ残して食べ尽くす、あのどうしようもなく怠惰な果実の味わい方を思い出して彩は酷く恥ずかしくなった。
息を飲み思わず太股を閉じようとしてもエミリーは囁く。
『大丈夫、貴女の傷をこうやって癒してるだけよ』
『考えられないわ、こんなことしちゃ駄目よ、恥ずかしい』
と彩が叫びそうになるとエミリーはその口を左手で封じた。
『考えないで、
恥ずかしいだなんて、思わないで、何も思ったり考えたりしては駄目よ、感じるだけの人になって、』
彩の口を封じた手の奥で光るエミリーの眼鏡を外した瞳がクローゼットの闇の中で爛々と赤く輝いていたのを彩はふと遠い日の疼痛のように思い出した。
エミリーのしなやかな手指が這う…思わず意識とは反対に躯が反ってしまう弱点を知り尽くしているかのような優しい勢力が肉感を押し分けながら入ってくる"あれ''とは違う、
でもそこだけはと制しながらも、気がつくと何度も甘い攻撃を受けてしまう。
ねぇエミリー、ねぇエミリー?
と言いながら彩は自分で自分の指を噛んで耐えた。
深い森の中で迷いながらも彩はエミリーを誰よりも探していたことを知った。欲していたことも知った。
この世界の誰よりも…

ドレッサーの前で彩は急に目覚めたようにハッとして瞳を開けた。

何故記憶が抜け落ちていたのだろう?と彩は今更ながら思った。
少し自分の昂ぶりを抑えなくてはならない、彼女は簡単に基礎化粧を始めながらドレッサーに横付けされた簡単なテーブル付きのマガジンラックの上でアプローチブックを開いた。
『来月は…ヨーロッパからだけでも200点以上の作品がオープンされるわ、アメリカからはイサム・ノグチ、
フランスからはオーギュスト・ルドンまで…
素晴らしいわ』
と居たたまれぬほど恥ずかしくなった彩はどこかわざとらしく、まるで舞台女優の台詞のように言った。
彩は自分の躰の変化を感じて鏡に映る薄桃色に染まった色白の自分の顔を見咎めるように、睨みつけると『困ったわ』と小声で言った。
そして大急ぎでトイレへ行くと用を済ませたついでにウォシュレットで丹念に洗い立て、風呂場の折れ戸を前に脱衣場で素早くランドリーの中にあった清潔な下着を取り出すと、そそくさと履き替え何食わぬ顔で、またドレッサーの前へ戻ると今度は鏡を見ずに手帳を開いた。
でも書いてあるスケジュールが何一つ頭に入ってこない。
彩は諦めてさっさと朝の化粧を済ませてしまおうとした。
『私はとても不感症な女だとずっと思ってきたのに、』
と彩は言うと、リキッドファンデーションの硝子瓶から手のひらへとファンデーションの思いがけない大量の海を受けて思わず息を飲んだ。
プッシュするヘッド部分が壊れていたのか急に外れて、転がり落ちるアクシデント後、そういうことになってしまった。
''イヤだわエミリーなんてことをしてくれたの?
こんなことしたの貴女でしょ??"
と彩は小さく怒ると少しだけその海からファンデーションを適量掬(すく)い出し、顔に伸ばしながらキィン、キィンという秋によく聴くどこか金属音を思わせる野鳥のさえずりを聴いてはっとした。
彩はファンデーションままみれの手のひらをティッシュで拭うと、ベランダへ出た。
いつの間にか雨はやみ、遠くに見える丘は朝靄(あさもや)と雨露(うろ)とに美しくかすみ煙っている。
最初すっかり隠されて見えなかった丘が少しずつその全容を表し、反対側の駅に向かって街を見下ろす辺りはビルの窓や家々の窓が登りゆく朝陽に照らされてピンクゴールドの雫を輝かせ街中が咲き誇る朝の薔薇のように見える。

あの夜も雨が降っていたんだわと彩は誰も聴いていないのをいいことに自分で自分に囁いた。
きっと少しだけしとしとと降り、すぐにやんだほんの涙雨であったのだろう。
彩がエミリーを追って森へ出た時、薔薇に綺羅めいていたのは朝露ではなく秋の月時雨(つきしぐれ)の雨粒だったのだ。
芝生が靴を履いていても冷たく感じるのはまだ夜明け前の森の中だからだろうと思っていたが雨後(うご)だったからなのだ。
唇の色素にほんのり赤みを加味させる程度のやや地味なピンクベージュを彩は好んでいつもつけていたが、今日はそれよりもう少し赤い口紅を薬指で唇の中央にだけ乗せてぼかすようにしてみた。
それだけでも妙に今朝の彩は艶めいて見える。
髪を梳かしながら彩はスーツに着替え、ベランダにもう一度出て街を見た。
あの鎮守の森がまだ静かに眠るように彩の棲む高層マンションから在るのが見える。
マグカップや皿を洗いながら彩はふとエミリーの姿を思い出して胸が痛くなった。
あの夜露に濡れた薔薇の茂みの前で泣いていたエミリーがまるで目の前にいるかのように近くに感じられてならない、
そして思った。あの薔薇は夜露でもなければ雨粒でもない、エミリーの泪に濡れていたのだと…

エミリーああ、エミリー、
不思議なエミリー、
私、危険な気もするの、貴女にあまりにも近づくと…
それなのに放っておけない、
貴女をあの森で独りぽっちで泣くような想いにはさせたくないの、
彩は再びエミリーの言葉を鏡の前で思い出した。

『貴女の悲しみの匂いと私の悲しみの匂いとは違うけど似てるわ、
だからお互い不快には感じないのよ、
悲しみと悲しみが寄り添った時、
悲しみ同士は互いに優しく微笑むわ、
どうしようもなく深過ぎる傷を人生に負ったことのある人の微笑みは、そんな傷を人生に負ったことのない人の微笑みよりも多分、何十倍も何百倍もあらゆる命を癒やし、生かし、救うことが出来る微笑みになり得るのよ、
そのことに苦しみのさなかに居る人達は、あまりにも辛過ぎて気づけないだけ…
…でも彩、貴女は気がつかなくちゃ…
だって貴女は生きているんですもの、』

エミリーの囁きはエミリーが話しているのか、闇が話しているのか時々解らなくなる。と彩は思った。
エミリーの腕の中に居ながらエミリーを何故か遠くに感じて、彩はふとエミリーの存在を闇の中で確かめるようにエミリーの顔に触れてみた。
その仕草を愛おしむようにエミリーは彩が闇の中で時々そっと差し伸べてくる手を先んじて取り、その手のひらに姉のように口づけをした。
そして傷跡の残る手首の感触に気がつき、黙ってその傷跡に母親のように口づけた。
闇はただ優しく口づけし、何も言わない、何も聴かない、
彩の失われた乳房の痕にさえ何度も口づけては、闇は泪の雫をそこへ落とした。
そのすっかり抉(えぐ)り取られた、かつては痩せ型なりに程よく豊かだった乳房の在った痛ましい手術痕は、大きく縫い合わせた痕だけでなく、皮膚はそこだけ、ひきつれたように固くなってしまっているというのに肌色の美しさだけは全く変わっていないことがかえって痛ましさを強調して彩自身に感じさせた。

そのことに彩はより心を傷め、慎哉も彩を抱く時、彼女の痕に毛布や服を乗せて隠し、一度も見ることはしなかった。
『一度ちゃんと見て欲しい』
と彩は敢えて頼んでみたが、慎哉は『それは…ちょっとどうかな、
見るべきじゃないような気がするんだ』と言った。
『見たら…出来なくなる?』
彩は思いきってそう言ったが、違う言葉が返ってくると心の中では密かに期待していた。
だが慎哉は『そうだね…正直言ってそうかもしれない、あまり見たくはないんだ、怖いのもあるし、』
『怖いって私が?』
『違うよ、まさか、そうじゃないよ、ただ…そんな他人の手術の痕とか、俺、まだそういうの見たことないし…』
『でもその手術の痕がある身体を、私は持っているのよ』
『解ってる、でも今はまだ心の準備が出来ていないんだ、
綺麗な胸をしていた頃の彩のイメージしか俺の中では今でも無いし…
それを見てショックを受けるのが怖いんだ…
頭では理解してる積もりなんだけど心がまだついてゆけなくて…』
『でも結婚するのよ、私達』
『うん、だから結婚してから見るよ、結婚したらお互いもういろんな意味で心の整理もついて落ち着くと思うからさ、
心積もりや決心もつくだろう?』

エミリーはその痕に頬を当て、まるで子供が半ば睡るような時を過ごしたかと思うと、ふと睡りから覚めた小さな妹のように囁いた。
『海の音がするわ…
彩の中で引いては寄せる波の音が…遠い海鳴りが…鼓動と共に聴こえてくる、』
『海?私の中に?』
『ええ…とても綺麗な海よ、
誰もが泳ぎたくなるような…
彩は生命の豊かな宿り木ね、
不思議で楽しい生命や夢や才能や、いろんな国や、いろんな国のいろんな肌の色やいろんな瞳の色を持つ人達や動物達が無数の惑星と共に、
彩の中で今はまだ眠っている、』

闇の一部となったエミリーが彩に囁いた言葉が彩の中に甦り、まるで虹のように美しい光の塔となって彩の心の中を照らした。
彩はエミリーのその言葉を自分がどんなに年老いても決して忘れることはないと思った。

『美しい私の大切な彩…
貴女が私の中に探し求めているものがどんなに脆弱なものか、
私は知らないわけじゃないのよ、
そして私も貴女の中に求め探し、
迷う貴女という深い森の奥にも、
もしかしたら本当は私が求めているようなことは何も無いのかもしれない、
人が人に求めることは多分『無』と同じくらい、
がらんどうなのよ、
それでも人は人を求めてしまう、
求めるものはそれぞれに違っても、…だから人は同じ過ちを繰り返すわ、
与え癒そうとして間違うこともあるし、闇の中でかかとを挫(くじ)くことも…更には光の中でさえ迷うことも…

それでも人は人の中に、何かを見つけたくて旅しようとするんだわ、
それがたとえ蜃気楼のように儚(はかな)いものだとしても…
その儚さを知っていながら人はそれが永遠に続くと心の底のどこかで信じたいと思ってしまう時がある、
そしてその為に生きようと人生や若さや命すら懸けることだってある、

…人間って救い難く愚かね…
だから人間ってどうしようもなく孤独なの、
それなのに人間ってごく稀(まれ)に
仔猫のように愛おしいわ…
…まるで貴女のように…』

(To be continued…)
    

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