見出し画像

小説『エミリーキャット』第33章・ハロー・アゲイン

木曜日は学習会が行われる時がある。その為、いつもは午前中から外商部は外へ出るのだが、月に一度、学習会のある木曜日は午前中、この学習会で費やされ、画商達が外へ出るのは午後昼過ぎからとなる。
彩はこの学習会が好きで、毎月楽しみにしていた。
画商といってもただ漠としたイメージだけが先行して特に美術が好きなわけでもないのになんとなくカッコいい"感じ''がするから、という理由で画商という仕事についてしまった若者も多い、その為、美術の『いろは』を教えないとならない必然性も出てくる。
中にはそれを、かったるく思う先輩達も少なくは無かったが彩はむしろ楽しかった。

初心に返れるようで自分も共に学び直し、若者と一緒になって自分も、おさらいするような気持ちになれて朝から清々しい気持ちにもなれる。
にも拘らず、今朝から彩は激しい偏頭痛に悩まされていた。
お陰で、普段は好きな学習会が憂鬱でならない。

画像1


頭痛に加えて頭重感にも耐えかね、額に手のひらを当てるとほんのり熱っぽい…
…ような気もする。
"なんで?''と彩は思った。
が、次の瞬間白鳥の湖ならぬ白鳥の池に入るような血迷った真似をしておいて"なんで?''も何もない、と彼女は思弁した。
あんな真似をしたせいで風邪を引いたのかもしれない、と彩は思い、
自己嫌悪で消えて無くなりたいような情けない気持ちになった。
でもその割りには咳も出ないし鼻水が出るというわけでもなく風邪らしい諸症状は全体的に見て、ほとんど無い。
彩は元来、頭痛持ちであったし熱があるような無いような気がするのはあまり乗り気でなかったり、気分的なものからそう感じることも多いことを彼女は経験上よく知悉していた。
彩は自分がまるで仮病を使いたがっているようで更に厭な気分になったが、頭痛に悩まされている今の事態は本当なのだからどうしようもないじゃないの、とやや不貞腐り気味に心の中で自分自身に呟いた。
廊下の隅のシートに座って、彩は普段はそんなことしもしないのに、バファリンの錠剤を苛々と奥歯で噛み砕いていた。
やがて紙コップの底に少しだけ残ったブラックの珈琲でそれを一気に飲み干した。
飲み切れなかった少量のバファリンが、憂鬱の欠片(かけら)のように彩の舌の上と同時に心の襞(ひだ)の奥で、苦くざらついてまるで砂のように不快に残った。
それを見た山下が心配そうに声を掛けてきた。
『吉田さん、どうしたの?
大丈夫?』
『ええ…どうにも朝から頭痛が酷くて…
まるで細いベルトで頭をギリギリ締め付けられてるみたい。
それなのに同時に脈打つようなズキンズキンっていうのも時々あって…まるで頭痛のミックスジュースみたいなんです。』
『そんなに酷いの?
でもさぁ吉田さん、ロキソニンをブラックコーヒーで飲んだりしちゃあ身体に悪いよ』
『これバファリンです。
私はロキソニンは体質に合わないようなんで…飲んでも効かないし、
胃痛は起きるし…』

画像2

『どっちでもおんなじだよ、
鎮痛剤をブラックコーヒーで飲んだりなんかしたら駄目だよ、胃腸や肝臓にも悪いんだよ?
まぁ、よっぽど辛いんだろうとは思うけどさ…』
『はい…そうですね』と気もそぞろな彩は一応はそう言いながらも憂鬱そうに右手の中指で左手のスーツの袖口をそっと押し上げ、腕時計を見た。
もうあと10分弱で学習会は始まる。
『顔色もあんまり良くないし…
どう?今日は早退けする?
社長や部長には俺から言っとくから、事務にだけは報告して帰ったら後は大丈夫なように僕がちゃんとしといてあげるよ、』
『えっでも、』と言いながらも彩の顔は思わず怠惰な悦びが彩の意思とは反対に先んじて異様なまでに光輝いてしまった。
人の善い山下はそれには気づかずに、『いいじゃない、たまには、
早退けくらい、
いつも仕事熱心な吉田さんなんだからさ、時には許されるよ、
体調が優れない時くらい無理することないさ、上の連中には真っ青な顔で熱まであったので帰らせたって、ちょっとオーバーに言っとくよ、
そのほうが多分無難だと思うから』と言って笑った。
『今朝の学習会は…えっと?
ちょっと資料見せて』
彩が資料を手渡すと指に唾をつけ、頁をめくりながら目を通すと山下は、『なぁるほどね、印象派についてか…
それで頭が痛くなっちゃったの?』『違いますよう…そういうわけじゃ…』
『画商は食わず嫌いは駄目、
どんな画家でもみんな好きでいましょう、どの画家にもよいとこはありますってのが我々の仕事のモットーだもんね、
でもナンセンスだよなぁ
あまりにも優等生過ぎててさ、
画商だって血の通った人間だから、そりゃあ好き嫌いはあるさ、
あって当然だぁ、
ここだけの話、俺だってルノアールなんかただで上げるって言われても
別に嬉しくもなんともないもんなぁ、
きっと要らないって言うと思うよ』
彩はそれを聴いて思わず頭痛を忘れて吹き出した。
『まぁモネやマネ…はものによっては…そうだな、特にマネなら頂くかもしれないけど…
ルノアールやメアリ・カサットあたりはさ、不思議の国のアリスに出てくるチェシャ猫みたいにこう言って辞退するかもしれないな、
''御免被ります"ってね』
『不思議の国のアリス?』
まるでエミリーが言いそうなことを山下が唐突に言ったので、彩は見知らぬ知遇をふいに得たような不思議な気持ちになり、思わず山下の顔を改めて凝視した。

画像3

だがすぐに気を取り直した彩は
『どんなに世の中がひっくり返ったとしても、ルノアールを我々庶民がただで貰えたりなんかするようなことは絶対に起きないんで、安心して下さい山下さん、
だって、たまたま家にあった信楽焼の狸じゃないんですよ?』
『そりゃ信楽焼の狸に悪いよ、
だって俺ならルノアールよりまだあの狸のほうが好きだもん
でも吉田さんだってそうでしょう?
君はドイツを筆頭にしたヨーロッパ全域の浪漫派を始めとして…
派閥を拡げてみても…
そうだな…
オーストリアのブラウエライターとか…せいぜいその辺りがストライクゾーンだもんな、
まぁ僕も似たり寄ったりな趣味だから気持ちは解るんだけど…
どうだい?
今日は学習会の教示は僕が引き受けようか?』
『えっ…本当に?嬉しいです、
だって山下先輩のコーチングなら、私なんかより間違いないに決まってますもの』
『またまたぁ、
それより今日はもう帰ってうちで、休んだらいいよ、
本当に顔色よくないよ?ここんとこ根、詰めてたから疲れが出たんじゃないかな?
彼氏は君が急に居なくなったら、
心配するだろうから、
吉田さん頭が痛くて辛そうだったから先に帰したよって僕からやんわりと言っとくし、』
『どうしよう…
じゃあお願い出来ますか?
私…山下さんに甘えちゃって構いません?』
『甘えて甘えて、
こんな時くらい、お互い様さ、
俺なんかもう老人だからさ、
いつぎっくり腰やらなんやらで君に助けてもらわなければならない時があるかもしれないんだから、
今回は俺がバトンタッチするよ』
と山下はまるで欧米人のように彩にウィンクして見せたが、少しもそれは滑稽に見えたり卑猥に見えたりもせず、ごく自然に彩には感じられた。そのこともふと彩には不思議な感じがしたものの、よく考えるまでもなくそれは同時にいつもの山下でもあるのだった。
"考えてみれば山下さんって見た目は別として、どことなく日本人離れした雰囲気や感覚があるわ、
でも何故かしら?
単に私の気のせいなのかもしれないけれど…''
と彩は学習会の為に扉を開けて会議室へと入ってゆく際、チラと彩に向かって一瞬見せた山下の笑顔を見て心の中で呟いた。

会社を出た彩は、豊かに繁茂し、風にざわめく銀杏並木が、まるでゴッホの描く輝くばかりの"クロームイエロー''に色づき、目映いばかりである様に思わず目を細めながら歩いた。
秋の涼風に吹かれて歩くうち、あれほど執拗だった頭痛が嘘のように治ってしまったことに彩は驚くと同時に何やら羞恥心を感じ始めた。
『今頃、薬が効いてきたってわけ?家に居た時から飲んでても、
からっきし効果ゼロだったのにこれってどういうこと?
これじゃまるで登校拒否だった頃の私みたいじゃないの、』
と彩は思った。
彩は高校時代、一時期登校拒否になり、前の晩は元気でも朝が来ると必ず転げ回るほど胃が痛くなりどうしても登校出来なかったという苦い思い出があった。
病院で胃カメラを飲むと医師いわく『今時の高校生には珍しくもないが、胃潰瘍、十二指腸潰瘍があるね、
軽症だしそんな転げ回るほど痛むとは思えないんだけど、心理的なものもあるのかな、
要するに神経性胃炎ってやつだ、
これは案外、厄介で難治なんだよ、
ストレスを感じると出てくるヤツだからね、
今この年齢で神経性胃炎なんか患うようじゃ先が思いやられるな、
将来社会人になった時、またコイツが出てきて、のっぴきならないことにもならないとは限らないからね、だからコイツとは今のうちから、
上手くコントロールして折り合いをつけるというか、手懐けるというか…、
そうする為のコツみたいなのを自分なりに模索しといたほうがいいかもしれないよ?』

画像4


あの時の医師の言葉を思い出しながらも遅い朝陽を受けてさんざめくような銀杏並木の中を歩くうちに早退けが許された嬉しさのほうが徐々に勝ってきてしまい、彩の羞恥心はいつの間にか、どこかへ吹き飛んでしまった。
横断歩道を誰も見ていないのをいいことに子供のように思いっきりスキップして渡ると
『今日は木曜日よ、
明日は金曜日、あさって私はビューティフル・ワールドでエミリーとハニハネハニームーン』
と即興で作った歌を唄いながら彩は横断歩道を渡り切ったところで、
まるで舞台の大根役者のようにわざとらしく手のひらをひとつパチンと打つとこう言った。
『そうだわ!
いっそのこと、私、もうビューティフル・ワールドへ今日行っちゃおっかなぁ?そして明日の金曜日は病欠ってことに、』
パッと晴れやかになった彩の顔がふいにまた曇った。
『駄目、駄目、
そんなの駄目よ、
エミリーとは土曜日って約束なんだから…
急にこんなに早くに行ったりしたら驚かせるかも…
エミリーにだってプライバシーは、あるのよ、
他の用事だってあるだろうし、いくら早退けになったとはいったって、こっちの勝手な都合の変更だけで人様のお宅へまるで行き当たりばったりみたいにふいに訪ねるなんてドタキャンと同じくらい失礼だわ、』
と言いつつも彩はマンションの寝室のベッドの上で小さめの旅行バッグに衣類に歯磨きセットやメイクポーチ、必要最小限のものを摘めながら思った。
『そんなこと思いながら私ったら、もう行く気満々なんだから、
少しは恥を知れって、お願い誰か言って!』
と彩は急に自己嫌悪と奇妙な悲しみとに襲われてベッドに仰向けに倒れ込んだ。『あの頭痛は高校生の時の登校拒否の症状と同じよ、
胃痛じゃなくて今日のは頭痛だったけど学習会なんてイヤ、
早くエミリーに逢いたい、早退けしちゃいたい!って心身が悲鳴を上げていたのよ、後は…私、エミリー・シックなの、
ホームシックじゃなくてエミリー・シック、

画像5


''仔猫のように愛おしい、私の可愛い大切な彩"…ってエミリーから言われたくってしょうがないんだわ、
私ったらなんて恥ずかしいの!
でも抱きしめられてそう言われたくて、言われたくて…
もうどうしようもないんだもの!
早くハグしてそう言ってもらわなくちゃ、私、きっとどうにかなっちゃうわ!』


そう言いながら彩は自分で自分を抱きしめたまま、シングルベッドの上を一回転半転がるとカーペットの床へドスンと落下し、カーペットの上で臥せったまま彩は深々とため息をついて悲しげに言った。
『あーあ私ったら本当にビョーキね、
これはきっとエミリー・禁断症状なんだわ…
私、本当に恋してる…
エミリーに真剣に恋してる、
こんな恋は…ああ、私の人生で初めてよ、
エミリーとずっと一緒にあの森で暮らせたら…どんなにいいかしら…
人にそんなこともし言ったら、いい歳して何をそんな甘い夢みたいな、浮世離れしたこと言ってるんだ、
子供じゃあるまいし莫迦らしいって叱られるかもしれないわね、
増してや紅美子なんかに言ったりしたら…もう大変、
だからこのことは決して誰にも言わないの、私とエミリーとふたりだけの秘密、
ビューティフル・ワールドでの…
誰にも言わない…
…誰にも言えない…』

画像6


彩はエミリーと暖炉の前で飲んだ暖かいレモネードを見様見真似で作ってみてドレッサーの前の椅子に座って飲んだ。
『ナニ?これ、
ただあったかくって甘ったるいだけ、
これはなんだかわかんないただのレモン汁の入ったお湯よ、
あぁこんなものは自分独りで飲んでも美味しくもなんとも無いものなのね、』
彩はドレッサーの覆いを上げると、軽く化粧全体を直し、なんとは無しに思い立って口紅の色を挿し変えてみた。
冬薔薇のようなどこか淋しげで憂いを含んだ口紅は春の口紅のように甘過ぎず浮き足立たない。
シックで落ち着きはあるものの、
どこか含羞を秘めた目立ち過ぎない華もある、
いつものピンクベージュよりやや濃いめのローズブラウンだった。
つけたあと彩は鏡の中の自分に向かって言った。
『濃いかな?おかしいかな?』
慎哉はその色を好まず『それをつけるとなんだか妙に女っぽくは見えるけど…彩の清潔感が削がれる感じがする、なんかその色をつけた彩とデートしたくないんだよなぁ、
しっくりしないっていうか、別人みたいでなんだか落ち着かないんだ、』

画像7


と言ったことがあった。
デート先で彩はその口紅を仕方無く化粧室で拭き取って先輩、上司、彼氏に関係無く男性ウケすると彩自身自認していた淡過ぎず濃過ぎない、ほどほどの中等で無難な…彩が思うところの''つまんないピンク"に塗り直したことをどこか、痛くて辛かった歯痛か生理痛の記憶のように執念深く覚えていた。

画像8


鏡の中の彩は色白の肌の中、沈み込むような冬薔薇いろに染まった唇のためにとても女らしく艶やかにすら見えた。
『おかしくないってば、おかしくてもいいんだってば』
と言いながら彩はスーツを脱ぎ捨ててベッドへ投げ掛けると、鏡の前で秋のシフォンのワンピースに着替えた。
透明感のある渋めのモーブグレーで上から黒のトレンチコートを着てボルドーの大判のスカーフをマフラーのように巻いた。
黒のピンヒールをあわせたら、もう彼女は出かける積もりだった。

画像9


『私、行くわ、
どうしても行きたいの、エミリー・シックで苦しいんですもの、
行ってもしあの門が閉まっていたら…土曜日に出直して、また行けばいいだけじゃない、』
そうは言ったものの、彩は電車に揺られながら不安が徐々にもの淋しさと共につのってゆくのを感じていた。
『門が閉まっていたら…私、耐えられるかしら…
もしそうなら…私、帰らないで門の前に座って夜明かししちゃうかも…でもそんなことして…門がやっぱり閉鎖されたままだったら私は…どうしたらいいの?
きっと取り残されたみたいな気持ちになると思うわ…』
駅につき、彼女は約束の時間まで喫茶店で簡単なランチを食べたあと、見知らぬ広々とした公園のベンチで、公園内に点在するベンチに座り、本を読んだり編み物をする老婦人達に混じって、自分も読みかけの本を開いたり、と思わぬゆったりとした時間の流れに身を任せることが出来た。
木の下で開いた本の頁の上へ、黄色や朱や琥珀いろのわくら葉が風でハラハラと舞い落ちてくるのも、屋外の秋ならではの情緒だ。
読書に疲れると、公園内の小さな木立を低徊して形ばかりの紅葉狩りのふりをしながら彩は時間をつぶした。

画像10


どこかで六時を告げる鐘のような音が聴こえてきた。教会などではなくお寺の暮れ六つを知らせる厳かでありながらどこか素朴な鐘の音(ね)であった。
晩秋の六時はもうすっかり暗い、
"私達はいつも逢魔が刻に出逢っているのね…''
と彩はふと思った。

画像11


彩はバスを降り、あのまだ暗い朝、二人で手を繋いで歩いた遊歩道を彩は今、独りで胸を高鳴らせて歩いた。
するとあの古式床しいまるで水銀灯かガス燈を思わせる、やや花車造(きゃしゃづく)りな街灯がひとつひとつまるで音を立てるように彩の歩く先をポツポツと宵闇の中、灯っていった。

画像12


そして彼女はある不思議なことに今更ながら気がついた。
ビューティフル・ワールドの敷地である森はかなり背の高い、切り立つような鉄柵で、すべからく囲まれており、その先端にはまるで剣のような忍び返しが空を刺すように在り、もう1つは曲線を描き、しなうような形で下向きに在る為、柵の外側を歩く人を、
その剣の切っ先はまるで、見下ろすかのように感じられる造りとなっていた。
その二重に打たれた鋭利な忍び返しは、中に棲む人を護りたいと徹底され切った強い想いでのみ造られた防衛の徴(しるし)という風に彩には感じられてならなかった。
とてもじゃないがそのような堅牢過ぎる造りからして、森へふらりと迷い込むなんてことはどう考えても、不可能なのだった。
『どこかに柵の破れ目でもあったのかしら?
いえそんな筈はないわ、
私は本当に森へなんの障害も無く、ごくスムースに入れたんですもの』
だんだんビューティフル・ワールドの門へ近づいてくる。
彩は割りと急峻な坂道を登りながらほんのり汗ばんでくる背中に秋の気温を感じてかえってひんやりとした。
すると彩の耳に低くてごく小さなモーター音のような音が聴こえたかと思うと、次の瞬間、蜂が彩の髪に止まり、『きゃっ!やだ!』
と彩は蜂を振り払ったものの、一度は彩から離れた蜂は再度、彩の振り払った手元にまるで蝶のように止まった。
彩は再びその手を払おうとしてその小さな蜂の異変に気づいて思わず凝視した。
蜂は後ろ足に黄金(きん)いろに見まごうばかりの山吹いろの花粉を後ろ足に各々一つずつ付けて、まるで飾り房のついたクリスマスのブーツを履いたようなその愛らしい蜂の姿を見て彩は『まぁ!』
と小さく叫んで思わず微笑みがこぼれた。
蜂はそのまま彩の頭の周りを何故か、ぐるりと一周すると、やがて気が済んだのか急勾配の上を飛んでゆき、早くも立ち込め始めた晩秋の深く濃い紫水晶のような宵闇の奥へと消えて行った。
彩は晩秋というのに、花粉を後ろ足に黄金(きん)の鈴のようにつけた蜂を見てなんだか胸がいっぱいになった。
ビューティフル・ワールドから飛んできたのかしらと彩は思った。
『蜂は花蜜を吸う時に花粉が身体に付いて、別の花へそのまま飛んでいって…それで雄しべから雌しべへと受粉されるのだって、確か中学校くらいの時に生物の授業で習ったことが確かあったわ』
と彩は独りごちた。

画像13


『でもあんなの間近で初めて見たわ、
蜂なんて怖いとしか思ってなかったのに、なんて可愛らしい姿だったのかしら?』
そう言いながら門の前に立った彩は、あまりの想定外の事態に呆然としてその場にそそり立ってしまった。
あの居丈高に屹立するような鋭利な門は内側に向かってすっかり両側共に開かれ、前庭から玄関に向かうスロープが門灯で煌々(こうこう)と明るく照らし出されていた。
『エミリー…』
彩は思わずそう囁くとビューティフル・ワールドへと足を踏み入れた。『…エミリー?』
彩は思わず駆け足となって玄関の両開きの扉へと向かった。
呼び鈴を押そうとしたその時、何故か説明のつかない、いいししれぬ力に誘(いざな)われ、彩は横路へ反れ、奥庭へと向かった。
広い庭は美しく手入れはされているが不馴れなものが侵入すると、迷いそうな造りとなっていた。
泥棒対策の為なのかは解らないが、その薔薇の茂みの迷路をそぞろ歩きながらも、彩は何故だかなんの保証も無い確信めいた本能に突き動かされるかの如く、微塵も迷うことなくまるでドミノ倒しのような勢いに乗って冬薔薇、薫る迷路をみるみる一気に踏破した。
そして迷路を脱出した次の瞬間、
彩は見た。
その先の芝生の庭にエミリーがこちらを向いて立っているのを…。

画像14


『ハローアゲイン、彩、
さっきも貴女に逢ったのよ、
だって私、とても待ちきれなくて…
だからとても小さくて可愛いキューピッドに頼んで私の気持ちを乗せてもらってさっき一緒に空を飛んだの…
彩のもとに向かってね、』
エミリーの瞳にはうっすら涙が浮かんでいるのが眼鏡ごしにも光って見える。
エミリーは臙脂(えんじ)がかった茶葡萄のタートルネックに黒っぽいダーク・グリーンの地色にあまり目立たないグレン・チェック柄のロングマキシを巻きスカート風に着ていて、黒い毛糸編みのほつれの目立ついかにも古そうなショールを羽織っていた。
そのともすれば酷く時代遅れにしか見えない姿が痩せ型で長身のエミリーの美しい骨格をより際立たせ、彩には不思議とかえってその旧臭さが新鮮でしかなかった。
『さっき?』と彩は訊いた
訊きながらも彼女はもう駆け出していた。
彩はエミリーの腕の中へ飛び込み、しっかりと抱きとめられた多幸感で自分の奥で弾けるような音をたてて無数の幻の花が開く夢を目覚めたまま見た。
それが夢なのか現実なのか、もはや彩にとってはどうでもよいことに感じられた。
何故なら彩はもう既にエミリーの腕の中に居た。
エミリーも彩の腕の中に居てくれる。これ以上のことはあるだろうか?と彩は思って目を閉じた。
『愛しい彩、私の大切な可愛いひと…』
エミリーは彩に口づけた後こう言った。
『彩がもうすぐやって来るような気がしたの、
だからもう…夕食の用意をしてあるわ』
『本当?』彩は驚いた。
『私、ずっと心配していたの、
だって約束の日よりも早く来過ぎてしまったから私…』
『しぃっ…ちょっと待って』
とエミリーは彩の髪に触れると何かを指先でつまんでそれを彩の目の前で見せた。
それは庭にある屋外灯の明かりに照らし出されてエミリーの指先で小さな純金の塊の一粒のように煌めいて見えた。
それはあの蜂がつけていた花粉の粒子の1つだった。
『これは薔薇の花粉よ、
さっき私が貴女に受粉したの、
あの可愛らしいキューピッドに頼んでね、
だからもう彩は私だけの彩よ、』
『エミリー、
嬉しいわ、あの蜂は貴女が差し向けたキューピッドだっただなんて…
まるで今朝からずっと夢の続きを見ているみたいだわ、
その夢に導かれて来たみたい、
それに、しばらく私、ここの住人になれるのね、帰る時間なんか当分、気にしなくていいんだわ、』
『そうよ、もう彩はこの森の住人なのよ』
宵闇に浸食された晩秋の庭で、恋人達はいつまでも固く抱き合ったまま時を忘れて立ち尽くし続けた。

画像15
画像16
画像17

(To be continued…)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?