階段の上のひまわりと人

小説『エミリーキャット』第12章  誘(いざな)われて森

麾(さしまね)くような枝は武骨な手指のように彩を内へ内へと誘(いざな)うような動きを見せ、それを合図のように濃く繁茂する木々がその濃密さを壁か門扉のような堅牢な固い物質と化し、ゆっくりと傾(かし)ぎ、揺らぎ、外側へ外側へとさながら夜の森を映した鏡の平面かアクリルの巨大な板と化し、それらが森奥に向かって綴れ織りの如く連立し、1枚1枚が彩向かって外側に開いていった。
森はいつの間にか、もはや森の象(かたち)ではなくなっていた。

彩が一歩森に足を踏み入れるとその傍に釣鐘草のような象の花が生え、花は俯きながらも明るく彩の行く先を照らした。
一歩一歩森に踏み込むたびにその花灯りは咲き点(とも)り、振り返ると、もう用の済んだ花は地面に倒れてそのまま眠りにつくかのように見えた。
前を見ると彩の行く手を示すように森は花の光であふれていた。
彩は光に包まれて木間がくれの月を見上げて囁いた。
『わたし、帰ってきたわ、でも何故帰ってきたのかしら…ここには私の居場所がきっとある…そんな気がしてならないの』
彩が森奥へ足を踏み込めば踏み込むほど、森の奥はどんどん明るく煌々と輝いた。
彩の進行と共に輝きは森奥へと移動し彩の背後は闇に閉ざされた。
咲きこぼれ光に照らされた純金の森のトンネルの奥に、あの硝子の館が遠くに見えてきた。
彩は何故だか嬉しくなって、硝子の館を一心に指して少女に返ったように駈けていった。

硝子の館の傍についた頃には、もう森はすっかりもとの自然な夜の森に返り、闇に沈んでかえって音がしそうなほど鎮まりかえっていた。
その中で館は明るく気だるく燦然と輝いて花々もシャンデリアも飾り棚までもが透けて見える。
『ただいま』
何故そんな言葉が出たのか解らなかった。
彩は無意識にそう言うと同時にごく自然に硝子のドアーをまるでかつて知ったる自分のうちの扉のように押して、この間と同じ大きな真鍮のドアベルが鳴ったが今度の彼女は驚かなかった。
鎮まりかえった邸内はこの前来た時と花々の種類とそれらを活けた琺瑯のバケツの数々の配置といい、あらゆる見覚えのある調度品の置いてある微妙な場所から位置といい、何から何まで寸分たがわず、まるで誰も一度も何も触れなかったようにすら感じた。

硝子戸棚の中の花々は、相変わらず酷く美しいのに何故か生気が感じられず、まるで美しいビスク・ドールを見ているような感覚を覚えそうになった。
花弁の一枚一枚があまりにも整然と並び、薔薇一輪眺めているだけでその剣弁咲きで高芯咲きのナイトタイムというボルドーとコニャックを底に秘めた深い深い黒紫の薔薇の時計回りに渦を巻くように外側から中央近い花弁を巡らせて咲く、その小さな薔薇の世界の中の螺旋階段にまるで自分が迷いこんだような錯覚をおぼえ、彩はふっと思わず高い天井を仰いだ。
そこに小さな薔薇の中の螺旋階段を登る小さな自分を見ている大きな自分が顔を覗かせているような気がしたからだ。
更にはまるでパラソルのように、
きつく巻かれた薔薇の中央に突き出した花芯部分は、ゆっくりと、じんわりと、ほどかれるようにその巻きが緩(ゆる)み、花開き、やがてその奥に驚くほど肉感的な緋赤の唇が現れこう言うような気がした。
『彼を裏切ったわね?ここへはもう来ないはずだったんじゃないの?』

すると螺旋階段上の小さな彩は、
急いで唇から逃げようと階段を下に下にと駆け降りてハイヒールの音をたてながら恐怖の中を、さながら無力な人形のようにカタカタと逃げ惑った。
しかし緋赤の唇はそんな彩を上から封殺するかの如くこう言い放つのだった。

『悪い女は私が食べてあげよう』
小さな彩は唇から細い蔦のようにスルスルと伸びてきた薔薇の赤い舌に絡め取られ、悲鳴を上げながらもあっけなくひとくちで食べられ、ごくんと丸呑みされてしまう。
彩は夢から覚めたようにはっとして顔と胸を張った。
立ったまま、薔薇の花に顔を寄せたまま、彼女は意識のある浅い悪夢をたゆたっていたのだ。

ああこれは夢だわ、
もう覚めなきゃ、
こんな夢、
覚めたい 、
そう思った瞬間彩は長い間深い湖に潜って泳いでいたかのようにはぁっ…と大きく息継ぎをし、喘ぐようにして立ったまま目覚めた。
『悪い女?』
彩は急に悲しくなり、硝子のように冷たい頬を熱い涙が伝い流れ落ちるのを感じた。
まるでその涙だけが確かな現実のようだった。
『私だけが加害者なの?悪いのは私独り?』
彩はいつの間にかフラフラとアメリカ製とおぼしき旧いレジスター機のある象嵌細工の机の前まで来ていた。
彼女はウィンザーチェアに勝手に沈み込むようにして座り込むと、そこで顔を覆(おお)ってしくしくと泣き出した。
机の上には沢山の書類があり、
その書類がばらけないように薔薇の彫刻を施された血赤珊瑚の文鎮で、しっかりと留め置かれていたが、
その薔薇の頂上に彩の糸雨のような落涙が一条(ひとすじ)零れ砕氷のように綺羅(きら)めきながら跳ね返った。
彩は机に顔を伏せて声を殺して泣き始めた。
何故こんなところで泣いているのか解らない、
何故今泣いているのかも解らない、
何故この森へ来たのか 、
何もかもが全てわからない、
でもただただ悲しいのだ 。
泣きながら彩は想った
『賢一さん、
私は今でも本当は貴方が好き、
忘れようとして貴方を脅したの、
慰謝料?手切れ金?
いいえ、私が本当に欲しかったのはそんなものじゃなかった!
揺るがない貴方、不安で散り散りになりそうな私を強くしっかりと留め置いていて欲しかったのに、
貴方以上の人は居ないと今でも本当は思っている、
シンちゃんごめんなさい、
私は今でも賢一さんのことが本当は、恋しくて恋しくてならないの』

彩は堕胎のオペの最後の記憶が酷く鮮明に今その只中にあるかのように、眩しさも消毒薬のにおいまでもが逐一身近に感じるようにして甦るのを、どうしても止めることが出来なかった。
麻酔が効き始め、彼女は夢か現(うつつ)か解らない中で声にならない声を上げていた。
『いやよ!いや!私の赤ちゃんよ私産みたい!産みたいの!賢一さん!わたし産みたい!!殺さないで!お願い何故そんな顔をするの?
私と貴方との子よ!』
賢一が苦し紛れに頭を振り苦い口調で『ごめんよ彩、今回は可哀相だけど堕してほしい、でも必ず妻ときちんと精算して結婚するから、そうなったら…なっ?必ず、もう絶対こんな想いはさせないから』
オペの何もかもを照射し、見尽くしている天井の無影灯が、まるで巨大な宇宙船のように群れを成し、急に明度を上げたような気がした。
その刺し貫くような光は平面的で、どこまでも果てしなくのっぺりとしていて、この世の中で罪人が隠れ、休める影をひとつ残らず抹殺してやると云わんばかりの暴力的な眩さだと彩は感じた。
そしてこの先決して神から赦されない人生が待っているのだと彼女は我が身の罪深さに怯え、喪う魂への愛惜に今更ながら狂おしい目には見えない手を延ばした。

医師の優しい、それと同時に索然(さくぜん)とし、同時にどこか諦めたような玉虫色の声が聴こえた。
何度も何度も彼はこのビジネストークである、まるで決められた科白(せりふ)のような言葉を、繰り返し女達に言ってきたに違いない。

『…大丈夫、まだ海のものとも山のものともつかない状態ですからね。
次に目覚めた時にはもう全て終わっていますよ。
さぁゆっくりとリラックスしてカウントして下さい
1から空気を吸うようにして深く深くゆっくりと数えて』
彩の長い睫毛はまるでスローモーションのように閉じられた。
それと同時に泪が目尻から溢れて耳の上を伝い落ちた。
『泣かないで、大丈夫ですよ』
看護師の一人が彩の泪を拭ってくれる感触も、声も、遥か彼方へと風と共に吹きすさび、何億光年もの無意識の旅を越え、彩が再び目覚めた時には彼女はもう前の彼女ではなくなっていた。
私は死んだんだ…。
あの子を殺して私も死んだ。
きっとそのことに誰も気づく人は居ないだろう… 。
私の中の冬はもう終わることがない…。
この先もうずっと生きている限り、私の中は厚い氷に閉ざされたまま…。
凍て溶けはもう訪れない。


増してや春などもう私の世界から、その意味すら消滅してしまった。
黒薔薇が泣いている彩の背後にそっと蔓のように、人影のように、蜘蛛のように忍び寄って甘い吐息で囁いた。
『可哀想なのはお前じゃないわ、
お前の赤ちゃんよ、お前はその報いを受けたんだ』
『やめて!解ってる!そうよ!
いちばん可愛そうなのはあの子!
私は被害者なんかじゃない!
加害者よ!
それなのに死に切れなかった…。
生きたいと思ってしまった、あの子のぶんまで負けずに生きたいって…。
どんなに苦しくても生きようって、それがきっと私の赤ちゃんへの償いになるって信じたかったから、
でもそんな虫のいい話、償えるほどの真似を私はしていない!
出来ない、
だって私は鬼になってしまったんですものっ!』
彩は泣き叫びながら薔薇を振り返った。
黒薔薇は怯(ひる)んだような、
傷ついたような様子を見せて、彩から不思議な金鎖を引き摺るような金属音を立てながらスルスルと引いていった。
『待ちなさいっ逃げるのっ?
そんなこと二度と言わせないから!花なんかにいったい何が解るって言うの!?』
彩は引いてゆく薔薇のロープのような蔓や巨きな葉に向かってアンクルブーツの細いヒールで思いっきり踏んづけた。
巨大な薔薇の棘と棘との間にヒールは突き刺さり、薔薇は女の悲鳴を上げて蛇のようにのたうちながら更に逃げようと派手な萌黄色の血を流しながら大理石の床をうねって逃げた。
彩は逃げる薔薇の化身の恐ろしい姿を恐れず追いかけていった。
後もう少しで追い付く。

彩はいつの間にかさっきの机の上にあった優美な武器を手に取っていた。
それは流線型の縦に絞ったような鋳型で造られた、美々しいほど華奢造りで鋭利な硝子ペンだった。
蛇のような蔦に突き刺してとどめを刺してやろうとした瞬間、彼女は床の上ではっとして目が覚めた。
夢?
また夢?これは一体なに?一体私に何が起きているの?
彩はしくしくと泣きながら冷たい大理石の床の上で自分のフレアースカートの膝頭を顔近くまで抱き寄せ、頭を下げてまるで胎児のような格好をした。
そうすればまるで誰かが助けてくれるとでも言わんばかりに…。

泪がどうすれば止まるのか解らないほど彩は何時間もその氷のように冷たい床の上で泣き続けた。
これも夢なのかもしれないと彩は思った。
いいわ夢でも… 現実の世界に帰ったら私はもう本当の泪は流せない 。
何もかも無かったふりをし続けないとならないのよ。
そんな演技にもう疲れたの。
…どれくらい時間が経ったのだろう。
凍えた彩の頬に何かが触れたような気がして彩はふと目を開けた。
触れたのは猫の冷たい、と同時に温かい鼻だった。
ぎゃあ…
『…猫ちゃん』
彩は思わず掠(かす)れた声を、小さく吐息と同時に上げた。
あの時のあの猫だわと思った次の瞬間彩は見た。
大猫はしっかりと誰かに抱かれていて猫を抱いたその人は床に上半身を低くかがめるようにしてひざまづいていた。
その人の腕の中から猫は身を乗り出すようにして彩の泪を再び舐めるとびゃああぁとあの独特の低い声で鳴いた。
その人は温かい手のひらを彩の額に置いて言った。
その声は天鵞絨(びろうど)の質感を想わせるなめらかな品のいいアルトの声だった。
『大丈夫?貴女、
ここに倒れていたのよ』
『…ごめんなさい、私…よく覚えていないんです』
彩は急に恥ずかしくなって、少しだけ嘘をついた。
その人は猫にキスをすると優しい、まるで壊れ物を扱うような仕草で、そっと床に下ろした。
そして更に深くひざまづき、まるで深い水の中から彩を抱き上げるように彩の肩の下に腕をするりと、しなうように滑り込ませた。
『この人あの薔薇かもしれない』

彩は心の中で怯えたが、抱き起こされ、その人の胸に抱かれたままその貌(かお)を見て怯えはたちまち引いていった。
さながら金鎖の音を立てて引いていったあの蔓のように…。
海の潮が引くように…。

その人は肩の上で緩く巻いた黒髪が、深く膝まづいた拍子に鎖骨の辺りへと垂れ落ち、幽かに揺れるのを顔を振って優美な仕草で背中へと振り払った。
黒のタートルネックの胸に抱かれたまま、彩はその美しい人の貌を改めて見ずにはいられなかった。

真正面ではなくやや斜交い気味ではあるが、鼻筋の通った彫刻のような白い貌は日本人ではないように見える。
眼鏡を掛けているが、レンズにややワイングレーがかった暗い色が入っている為その瞳をはっきりと見ることが出来ない。
『貴女はあの薔薇?』
彩はまだ麻酔から覚め切っていないような口調で聴いた。

『いいえ私は人間よ、
薔薇じゃないわ、店の床に倒れていたお客様を見つけた、ここの店主』
おどけたような口調で話す声もなめらかで音楽的な響きに満ちている。
『倒れて…私…いったいどのくらい長く…』
するとその人は何故かこう言った。
『しぃっ、静かに、もう大丈夫よ、きっと貧血を起こしたのね、
奥で少し休めば、きっと快くなるわ』
『奥?…奥って…?』
と彩はまた不安になって身をよじろうとしたが、今度は全く力が入らなかった。
『私のうちよ、花屋の奥と上階が私の家なの』
びゃあぁと大猫が例のバスの声色で鳴きながら彩を抱いたまま床に座る女主(おんなあるじ)の周りをぐるぐると回っていたが女主が
『お願いロイ、扉を先に行って開けてちょうだい』と言うと
不思議なことに猫が女達の先を越えて遠い扉の前に鎮座した。
すると両開きの扉は音も無く鎮かに開いた。


不思議な花屋の女主の腕の中で彩の意識は薄れていった。
その直前に彩は花屋が茶目っ気めいたウィンクをすると、朗るくこう言うのを聴いた。
そして安堵して一気にまるで高い岩場から遠い水底(みなぞこ)へと、飛び込むように、さながら失神に近い眠りへと落ちていった。
『暖かい部屋でゆっくり休むといいわ、充分休めて目が覚めたら、私の淹れる美味しい特製のお茶でもいかが?』







to be continued…



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