窓のバラ

小説『エミリーキャット』第13章  フローリスト・エミリー

彩は悪夢を見やすかった。
が、その日は夢を見ない、(少なくとも見たのであろうが記憶には残っていない)そのせいでまるで自分が『無』になったかのような、なんにも考えない、なんにも感じない、一番安らかな状態を得ることが出来た。その『なんにも無い夢』を彩風に喩(たと)えるならば、それはさながら『爽やかな気候の中で絹のハンモックに身を委ねた怠惰(たいだ)で野放図な死体のように』ゆったりと無をたゆたっている。そんな感じなのであった。
彩は夢を見ないか、あるいは夢を覚えていないというのが一等好きだった。
が、夢から醒める瞬間まるで階段を一段ガクンと踏み外したかのような稀に起きるあの特有の感覚にひやりとして目が覚めた。
階段を踏み外す、あるいはどこかへ墜ちるのを防ごうと訳も解らぬまま足を抗うように動かすと同時に目覚めた彩の驚きはそのまま張り付いたような凝視へと繋がっていった。
彼女は不思議なものを寝ながらにして目の当たりにし、果たしてそれが一体何なのかとじっと息を止めてそれらを見澄ました。
それは天井にしては低くて狭い、だが天使達が飛び交う美しい天井画であることに彩は気がついた。
フレスコ画のように見せながら実はよく見るとかなり凝った、そして非常に繊細な刺繍画であることに気がついた。
その狭いながらも豪奢(ごうしゃ)な天井は彫り込み細工を施した栗色の木枠に縁取られていた。
金糸の光が濡れたような光沢を放ち、天使達の黄金(きん)いろの巻き毛や黎明(れいめい)の輝きを映す朝露や色とりどりの美しい斑模様を狭い空間に棚引くようなグラデーションを描き、とてもその空が一刺し一刺し、人が手指で時間をかけて丁寧に掬(すく)い取るように縫い取りした刺繍とは思えない仕上がりを見せていた。
海なのか湖なのか、水辺の稜線(りょうせん)に沿うように神が巨きな刷毛で一気にひと刷毛、掃いたかの如く滲むフラミンゴピンクのビーナスベルトと、その下に溶け入るように在る藍色と水縹(みずはなだ)の濃淡とが神秘的な地球影の色の帯が水鏡に反映された様子までもが刺繍とは、にわかに信じがたいほど水々しく再現されていた。


『なんて綺麗なの…』
彩はぼんやりとまだ半分微睡(まどろ)みながら独りごちた。
『それに可愛い天使達も…』そして寝たまま辺りを見回すとベッドの四隅を囲むように栗色の柱が立っていてそれらが天井画の屋根の支柱となっていた。
寝ている彩の顔から上半身辺りまでを、両側からベッドに沿って流線型に覆うようにたっぷりとドレープを寄せた、重厚で深みのあるカスタードクリーム色のカーテンが緩やかに垂れ籠めていた。
ヘッドボードに沿って立つ柱に、やはり砂金を練り込んだような光沢のあるバター色の豊かな房付きの縦に捻られた優美なロープで、そのカーテンは結わえ付けられていた。
彩は絵画や外国映画でしか見たことの無い天蓋付きの非常に大きなベッドに寝ていることをようやく理解して驚いた。


『奥の部屋で休むといいわ』
といったあの花屋の美しい女主(おんなあるじ)の言葉が脳裡に甦り、彩は今更まるでいきなり現実に返ったかのようにベッドから跳ね起きそうになった。
が、次の瞬間、強烈な目眩に襲われ彼女は起き上がることを断念した。
ミャアという猫の鳴き声に、はっとして彩は枕元を仰ぐように見ると、あの大猫がゴロゴロと喉を鳴らしながら彩に向かってナイトテーブルの上で、所謂(いわゆる)猫独特の"香箱を作る"と呼ばれる座り方をして、彩の顔を目を細め優しい顔でじっと見つめていた。
『まぁ!』と彩は驚いて『猫ちゃん、居たの??』
『みゃあ!』猫は一層大きな音でゴロゴロと喉を鳴らして返事をすると待ち焦がれたように彩の枕元に降り立ち、彩の顔中に自分の額や濡れた小さな鼻をゴシゴシとこすりつけてきた。
彩はさっきまでの動揺はどこへやら急に愉しく、嬉しくなって『まあぁ、あなたってこんなに人懐っこい子だったの?嬉しいわ迷惑な珍客にこんなに優しくしてくれるだなんて』
大猫はゴロゴロ喉を鳴らしながら彩の顔や頭やいたるところにゴシゴシと愛らしい額や頭をこすりつけるのをいつまでたっても止めようとはせず、彩は思わずさっきまでの躊躇や強い緊張感はどこへやらベッドに横たわったまま、大猫の頬擦りを受け、滅多に立てない子供のような澄んだあどけない笑い声を思わず立てていた。
こんなに声を立てて笑うだなんて一体大人になって何年ぶりのことだろうと彩はふと思った。
心地好い清潔なホワイトリネンのシーツ、
枕からは仄(ほの)かにラベンダーの香りがした。
ベッド用の掛け布団の内側に在る暖かくすべらかなカシミヤの毛布を目当てに大猫はそのなめらかな温もりを目指して、ベッドにズザザと音を立てて滑り込んできた。
滑り込むと中でくるりと居ずまいを正すなり、彩の鼻先に向かって猫は勢いよくズボッと顔を突き出すとにゃあぁっ!と驚かすように悪戯っぽく大きな声で鳴いた。
『きゃあ!びっくりした!悪戯っ子ね!』
彩はこの愉快な大猫がなんだか愛おしくなって思わずベッドの中で捕まえるとぎゅっと抱き締めた。
が、猫はよほど人馴れしているのか抱き締められても少しも抗(あらが)う様子が無い。
『貴方確かロイ君よね?ロイって呼ばれていたのをなんとなく覚えているわ』
彩は動物は好きだったものの今まで一緒に暮らしたことは一度も無かったので、柔らかな毛並みに覆われた程好い弾力と、心地好い温もりのある人間以外の小さく無垢な肉体を抱きすくめることがこんなに幸福で豊かな気持ちになれるのだとは露ほども知らなかった。
彼女は猫の軆の温もりと感触に何か言葉にならない感動で思わず胸が熱くなった。
『命の灯火』という、ともすれば陳腐な言葉が彩の中に泉のように輝きながら次々と湧き出(いず)るのを止めることが出来なかった。
この灯火を守る為に、人はきっと様々な試練や苦労をするのだろう。
然し代わりに尊い気づきを与えてもらえるかもしれないのだ。
それは一見些細なことのように見えて、実は人間の人生観に与える大きな素晴らしい影響なのだ。
動物達は小さく、また人間のような言葉や文化は持たないが、それ故にきっと人間を軽く凌駕する偉大な師となり得るのかもしれないと彩は感じた。


胸に猫の鳴らす喉のゴロゴロという音の振動はまるで人間の赤ん坊の心音のように彩のえぐり取られた胸の痕に暖かく慰撫するように響き、彩はますます感動で胸が一杯になり、その音に瞳を閉じてじっと耳を澄ませた。
すると突然扉の傍で女の声がした。
『その子はクリスよ、クリスはロイの息子なの、そっくりだけどね』
その声に驚いた彩は猫を抱いたままガバとベッドに跳ね起きた。
でもまだ頭がクラクラする。
『クリス?この子、女の子だったの?』
『いえ息子だから彼は男よ』と女主は楽しそうに話すと
『笑い声が聴こえてきたから覗いてみたけどだいぶ顔色が良くなったみたい、ほっぺが綺麗なピーチィズ』
『ピーチィズ?』
彩は思わず自分の頬に手を当ててその頬に一層血が昇るのを感じた。


彩は急いで話題を転じた。
『ごめんなさい私、こんな立派なベッドに寝かせてもらっていただなんて、すっかりご迷惑をお掛けしてしまって本当にどうお礼したらいいのか、』
『お礼だなんて』花屋の女主はドアに凭(もた)れたまま一瞬俯いて少し、はにかんだように笑った。
その姿は美しい豊かな黒髪のミディアムロングの巻き髪と、黒いタートルネックのセーターにシルバーのチェーンで繋いだ碧いカメオのペンダントを下げた女性らしい女性ではあるものの、どことなく手持ち無沙汰でなんとなくそれを照れながら困っている青年のような雰囲気があった。
彼女は非常に長身で175、6センチは軽くありそうに見える。
『いいのよ、困った時はお互い様、貴女だって好きで倒れた訳じゃないんだから』
『そうだけど…』
彩は一瞬言葉に困って相変わらず膝にちょこなんと座っているままの大猫の頭から背中にかけてをまるで言い訳のようにとても丁寧に撫でた。
大猫は今やゴロゴロというよりもブルンブルンと聴こえるほど大きくハッキリと喉を鳴らしている。
愛撫してもらって嬉しくてたまらないといった感じだ。
『クリス君ってロイ君と本当にそっくりだわ、私、てっきりロイ君だと思っていました。』
『瓜二つでしょう?まぁ親子だしね、厳密にはロイのほうがやや大きくて逞しいの後、声も低いわ、クリスはまるで…ボーイソプラノ』そう言って女主は心地好いアルトで笑った。


ずっとレガートだったのにスタッカートになったと彩は思った。
『そういえばなんだか声が違う気がするって思っていたの』
『それにしても違い過ぎるでしょう?それと眼も違うのよ、
ロイは右目がガーネットブラウンで左目がアイスブルーなの、
でもクリスは右目がアンバーブラウンで左目は明るいアップルグリーンよ』
『えっ』
彩は改めて猫の顔を見つめて驚いた。
『本当だわどうして私、今まで気づかなかったのかしら、こんなにハッキリと左右、眼のいろが違うのに、きっと私凄く緊張してたのね、猫ちゃんの顔を見ているようでちゃんと見ていなかったのかも…でも何かこう…不思議な違和感はあったんだけど』と彼女は女主が気を悪くしないかと急に気になって急いで言葉を継ぎ足した。
『なんていうのかしら…美し過ぎる為の違和感、でも厭な感じのじゃなくて』
女主は再び俯いて声も無く肩を揺すって笑うと、横顔に垂れ落ちた長い髪を細長く形のいい中指で掬(すく)い上げると片耳に掛けて、こちらを見た。
そしてその耳朶(みみたぶ)には偶然彩と同じ真珠のひと粒ピアスがあった。
『…ありがとう、それよりよかったらキッチンに来ない?スコーンを焼いたの、食欲があればだけど』
『ありがとうございます。嬉しいわ、でも…いいのかしら私こんなに綺麗で豪華なベッドで眠ったの初めてで、なんだかまだ夢を見てるみたいなのに、そんなにまでしていただくだなんて…申し訳無いわ』
『いいのよどうせ店仕舞いしちゃったし、
夜にスコーンを焼くだなんて可笑しいけど私時々するのよ。
眠れない夜には深夜2時過ぎていたってカップケーキだってどんどん焼いちゃうわ。
お陰で朝には花屋でなくてカップケーキ屋さんが出来ちゃうんじゃないかっていうくらい、ダイニングキッチンはカップケーキであふれてるってことも、そんなことしたってだぁれも食べてくれる人なんか居やしないのに、私ったら馬鹿みたいね』女主は肩をすくめて自嘲した。
然しその薄くシニックな笑顔を浮かべた貌もノーブルで美しいことに変わりは無かった。
感嘆した彩は『凄い!私なんにもお菓子焼けないんです。以前クッキーを数回焼いてみたけど小麦粉の量を間違えた訳でもないはずなのに、固くてまるでお煎餅みたいで全然美味しくなくて…』
『お煎餅?』                            花屋は哀しいのか可笑しいのか解らない複雑な微笑を浮かべた。
しかしホワイトマーブルの彫刻で出来た美女のような、ともすれば冷然と見え過ぎる彼女の貌に、笑うと途端に血が通ったような生命感がやや蒼白い彼女の頬の内側を透かして、幽かに蝋燭の炎のように燃え上がり暖かい血色感となって揺らぐのを感じ、彩は安堵して言葉を続けた。
『ええ、焼き立てをつまんで食べたらバターの風味がしてとても美味しかったのに冷めたら何故かクッキーがお煎餅になっちゃったんです。
それも美味しいお煎餅ならいいんだけど不味いお煎餅…もう何回トライしてもお煎餅にしかならないからスイーツを作るのはトラウマになってしまって断念というか…諦めたんです』
『諦めるのはまだ早いんじゃないの?それとも誰かにお煎餅みたいって言われた?』
『あぁええ…』彩の脳裡にはクッキーを食べながら言った慎哉の言葉が甦った。

                              『これ本当にクッキーなの?煎餅みたいだな、クッキーってもっとサクサクしてて軽い感じだけど、雷おこしまではいかないとしてもこれクッキーにしちゃやたら固いし、それともう少し甘くてもいいんじゃない?スイーツなんだからさ、ちゃんと砂糖入れたの?』                 『入れたわよ、
お砂糖も小麦粉もバターもミルクもベーキングパウダーも、
全部本に書いてある通りに作ったのよ』                    彩は少しむくれてやや荒々しいような仕草でエプロンを外すと傍の椅子の背に投げ掛けた。
更にはそんな自分の挙措(きょそ)に余計刺激され、かえってムシャクシャしてきて、慎哉が誕生日に買ってくれた真珠の一粒ピアスを左右の耳朶(みみたぶ)から外すと、キッチンのテーブルの上にある、帆立貝の形の銀の飾り皿に、ぞんざいに音を立てて投げ置いてしまった。     そして半泣きみたいな顔になって抗弁した。               慎哉は二時間前に彩が焼いたという『焼いたばかりの時は確かに美味しいクッキーだったのに冷めたらクッキーではない何か別のしろものになってしまった』という言い訳付きのクッキーを、文句をつけながらも次々と平らげながら、いかにも固そうな咀嚼をしつつ、そんな彩の必死の抵抗にはまるで気づかぬ風で『ふぅん、でもさぁクッキーて普通お菓子の初級編だろう?彩はおかずやご飯ものは無難に上手なのにスイーツ作りはもしかしたらセンス無いのかもしれないな、クッキーがお煎餅じゃケーキ焼いたらでっかい大福になるぞ』


『…』彩は紅茶を淹れようとレディグレイの茶葉の缶を手に取ったが、慎哉が続けてそう言ったので、缶を出来ることならドウェイン・ジョンソンのように握り潰して慎哉に見せつけてやりたい気持ちになった。
が、到底無理な話である。
『これさぁ、バターを上から塗って砂糖を振りかけて食べたら、超固いのは目をつぶるとしても、なんとかなるんじゃないのかな』
彩は茶葉の缶をシンクの上に黙って置くと苦虫を噛み潰したような顔をした。                                 “賢一さんはそれでもきっとなんかおかしいって内心思ってたはずなのに、彩が一生懸命焼いてくれたクッキーだから美味しいよって食べてくれたわ、シンちゃんたら無神経よ』                      彩は何を思ったのか泣き出しそうになるのを堪えるあまり思わず指をギュッと握り締め、こぶしを作った手の甲で、口紅を激しく擦(なす)り取った。
淡い色ではあったが口紅は彼女の頬にまではみ出した。
慎哉はいつもの彩らしくない奇行を、クッキーだらけのまるで穴のような口をあんぐりと開けて驚いて見ていたが、彩が泣き顔を背けて寝室へ駆け込んだのを黙って見送った。
彩は慎哉が甘過ぎる言葉と態度で謝りながら慰めに来てくれるのを待ち詫びながら、ベッドに臥せってぐずぐずとどこか態(わざ)とらしく泣いていたが、いつまでたっても慎哉は寝室に現れなかった。


『?』
泣きながらしびれを切らしそうになった彩の耳にばたんというマンションのドアを閉める静かな音がして彩は驚嘆した。
寝室を慌ただしく飛び出し、キッチンに戻った彩の目にキッチンテーブルの上のピアスが置かれた飾り皿の横に置かれた一枚のメモ用紙が飛び込んだ。
そこには慎哉の朴訥としながらも、きちんとした筆跡でこう書かれていた。
『傷つけてしまってごめんね、今日はもう帰ります、またね』
彩はそのメモ用紙をクシャクシャに丸めると廊下に走り出て、慎哉の去った玄関のドアに思いきりまるで石礫のように投げた。


それは彩が初めて乳癌の手術をして退院した最初のまだ寒い春だった。

そんなことを想起してしまい、思わず眉根を寄せた彩の髪に花屋の女主の白い手がそっと触れた。
その感触はさながら髪に一輪の花で撫でられるほどの微かな微かな感触だったが、はっとして彩は現実に引き戻された。
いつの間にか女主はベッドの端に影のようにひんやりと腰を下ろし、彩の髪をそっと撫でていた。
『綺麗な髪ねまるで絹みたい』
『そんな…』
『いいえ艶があって…その艶の帯がまるでティアラみたいに貴女の頭をぐるっと一周しているわ、本当に天使の環とはこういう髪のことを指して言うのね』
『…ありがとう』
それを聴いて彩はなんだか妙に溜飲が下がるような、深く癒されるような想いがして、今更ながら自分の単純な女心を知って心密かに恥ずかしくなったりもした。
と同時に確実にどうしようもない孤独と渇きが一瞬だけでも癒えるのを感じた。
『さぁリビングへ行きましょう、立てる?』
実際にベッドから立ち上がろうとしたら、まだ眩暈が細波のように彩の頭と躰の両方を襲ってきて彩は不安にたじろいだ。
『食べられるようだったら少し食べてみて、食べて飲めば少し力がつくかも』
『本当にありがとう』
美しい花屋の女はどう見ても異国の女なのに、日本人と変わらず日本語がうまい。
彩は花屋の女主に肩を支えられながら、右手を女主の左手に委ね、そっとベッドから立ち上がった。
この夢のように美しい天蓋付きのベッドにもう永遠に帰れないのだと思うと、なんだか名残惜しくなり彩は女主に気づかれない程度に横目でそっとベッドを盗み見た。
『スコーンも美味しいけど、私の淹れるお茶を飲んだらベッドが名残惜しいだなんて思えなくなるわよ』
『えっ?』
自分の心を読まれた彩は驚いて花屋の女主の顔を見た。
女主は黒縁のトラッドな眼鏡を掛けているが、そのワイングレーを帯びた暗めのレンズの奥で、瞳を木漏れ日がさんざめくように輝かせると笑ってこう言った。
『私はエミリー
花屋のエミリー
彩さん、よろしくね』





(To be continued…)

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