エミリーの家のお勝手口

小説『エミリーキャット』第14章  サイコな花屋疑惑?

彩ははっとしてエミリーの貌を戦慄した瞳で見上げると思わず素っ頓狂な声でこう言ってしまった。『私…自分の名前、言ってたっけ?』
ふたりは一瞬歩みを止めたがエミリーは微笑を崩さずに。
『いいえ、ただ貴方をベッドに運んだ時にバッグも触らざるを得なくって、
ごめんなさいね?驚かせてしまったかしら』『バッグ?』彩はまだ動揺を隠せない様子でそういえば自分のバッグはどこだろう?と目で探した。
『ソファーの上に置いてあるわよ』
と言うエミリーの言葉と同時に彩はベッドの傍にあるアンティークのカウチを見つけた。
カウチの上には自分のCOACHのバッグがクッションにまるで凭(もた)せ掛けるようにして置いてある。コートとマフラーもカウチの背に丁寧に伸ばし掛けるようにしてあるのが目に入った。
革の手袋はゴブラン織りのカウチの座面に半ば爪先を重ねるように並べて置いてある。
カウチの前にある同じくゴブラン織りのオットマンの上には、なんと彩のアンクルブーツまでもがきちんと乗せてありそれは一目で綺麗に磨き立てられているのが解った。
彩はといえば今はフカフカの白いスリッパを履いていた。彩はバッグの在りかに視線を合わせると同時に自分の疑心暗鬼を彩らしい生真面目な駿烈さで恥じた。
何故ならバッグには彩自身でバッグの持ち手に取り付けた携帯電話用のストラップがあるからだ。それは最近よく感じる眩暈(めまい)や失神、体調への自信の無さ故に夜帰宅する際の保身の為にと買い求めたものだった。
夜、医院や職場から帰宅が遅くなる闇路での車やバイクのヘッドライトに光って文字が浮かび上がる蓄光タイプのそれは事故防止用ストラップだった。
バッグの表面にそのAyaの三文字が彼女の目に飛び込んできて彩は穴があったら入りたい気持ちになった。
ストラップは昨年ぶらりと入った手作り雑貨の小さな店で偶然見つけた、いろんな女性の名前を型どったストラップが陳列された中から選んだものだった。『A』だけが一際大きめだが後のyaはごくごく小さい 。
よく見ないと『あや』という文字の全体像が解りにくいというところが気に入って買ったのだが、バッグを持つほどの至近距離で見たら誰でもすぐに気づくはずである。
『…』彩はバッグから視線をエミリーへと戻し無言の上目使いで謝るように見た。
エミリーはまるでそんな彩を愉しむかのように微笑みを絶やさずに言った。
『すぐに彩さんだと解ったわ』
『…ですよね…ごめんなさい当たり前よね』
『いいのよ急にこんなシチュエーションで自分の名前を呼ばれたら、確かに誰だってギョッとすると思うわ、“あや”って可愛い名前ね、どういう漢字?』
『…彩る…って字…』彩は情けなげな消え入りそうな声で答えた。
エミリーはそれには頓着せず『美しい字ね、色彩の彩…キュートな貴女にぴったりね、私、今、インスピレーションだけどふと花籠(はなかご)をイメージしたわ、
フラワーバスケット、いろんな種類の花が沢山、咲き揃っていて色彩が豊かに籠いっぱいに甘い薫りと共にあふれているの』


エミリーは夢見るような口調でうっとりしてそう言った。
その口ぶりはまるで女学生だ。それもイマドキのドライな女学生ではない。
それに現役の花屋の店主とは思えない発言のような気もした。
『そんな風に言って下さってどうもありがとう、嬉しいわ“エミリー”って名前のほうがよっぽど美しいのに…響きが素敵、詩人のエミリー・ディキンソンをなんだか思い出します…お美しいエミリーさんにぴったりだと…。でも私、エミリーさんみたいに詩人じゃないからそんなに素敵な比喩が出てこなくてごめんなさい』


『何故謝るの?お美しいって言ってもらったのよ私』とエミリーは笑って
『それにエミリー・ディキンソンは好きな詩人だから光栄だわ、じゃあこれからはお互いせっかく美しい名前があるんだからそのファーストネームで呼びあいましょう。ちなみに“エミリーさん”ではなくてエミリーって呼んでちょうだい。そのほうが気やすくていいわ、それから私は敬語は嫌い、もっとフレンドリーに話し掛けて欲しいな』
『あぁええ、でも…』『私も彩さんではなく彩って呼ぶわ、構わない?』
『ええそれはもちろん、…』
『じゃ、彩?私が他人のバッグの中身をチェックして身元調査をしたりするちょっと危ない人ではないと解ってくれたなら私と一緒にお茶を飲むのも平気よね?』
『ええもちろんよもうやめて、私、なんだか段々恥ずかしくなってきたわ、エミリーさ…いえ、その…エミリー』
『あらエミリーって呼んでくれた!よかったわ、これで私の“サイコな花屋疑惑”は完全に払拭されたのね』
『ごめんなさい、でも私、サイコな花屋さんだなんてそんな酷いこと考えてなかったわ』ふたりは笑いながら廊下へ出ると扉は静かに閉められた。
温かいベッドの中でクリスがまるで人間の赤ん坊のような声色で小さな寝言を言うと安らかな寝返りを打った。





(To be continued…)

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