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1・冬「結びのことば」

今朝起きたらすごく寒くて、磨りガラスから射す光がやけに明るいなーと思った。

都心から電車で2時間ほど山間部に向かう里山に、住処を借りてもう5年。
裏庭に沿って流れる澄んだ沢に魅せられて決めた物件だったけど、住んでから気がついた。この土地は冬になると太陽の日差しが山々に遮られて一日中薄暗いんだ。
隣り合わせた杉林は地主が手入れする気配も無く年中鬱蒼として、ジメジメした湿り気で滅入りそう。南向き日当たり良好のウソ。

窓を開けたら雪が積もっている。寒いはずだ。
そして何もこんな日に出歩かなくったっていいのに、うちのすぐそこまでやって来てるお隣のおばあちゃん。膝、痛いんでしょ?
目が合って、玄関に走った。

「あ、柚子!」
「見た目悪いけどね。皮を刻んで使いな?」

長年養蚕業、いわゆるお蚕さんに携わっていたそうだ。
しわがれた指が、まだ黄色い小玉に乗っかった雪を払う。お庭に残った柚子をわざわざもいで届けてくれるとは。

ほっこりして、ふと故郷のおばあちゃんは元気かなってメールをしたためることにした。
夏の初めに真っ赤に熟れた巴旦杏《ハランキョ》を送ってくれたのに、ありがとうと伝えるタイミングを逃してしまっていたから。

一人暮らしは心配いらんけんね
おばあちゃん元気にしとる?
足腰冷やさんように
暖かーくしとかんといけんよ?

“じゃあね”

そう文字を打って眺めると、なんか違うな、とラスト4文字を削除した。
ツイートやラインに馴染んだら、結びの言葉選びが雑になった気がする。
作成途中のメールを放り出し外に出た。

雪の上には隣のおばあちゃんの足跡がまだ残ってたけれど、空からしきりに降る白い雪の粒はもう躍起になってるから、足跡の輪郭なんて早くもぼやけてきた。降り過ぎだっつーの。

雪かきしなきゃ。
おばあちゃんの足跡を掬って道を作った。
よーし。これでおばあちゃんちとあたしんちを繋ぐ細いラインができた。
とは言ってもヘタレな小径だ、半日もすればきっと白く埋もれて消えてしまうんだろうけど。

せっかくいい運動をしたのに、あたしはまだ寒い。

ストーブの芯にライターを近づける。
独特の青色の火が灯ったので、ヤカンに水を足し、ストーブの上にのせた。

そうだ。
思い立つやいなや端末の画面をタップ。
(あの人)と別れて随分経ち、ガラッと変わった生活も落ち着いてきた頃のこと。SNSで(あの人)のタイムラインを見つけたんだ。本名じゃなくてもすぐわかった。友達登録の中に1人知った名前があるし、2人で語った哲学書のターム、好きだったアーティストの固有名詞、呟く文体もみんな、あたしの記憶をやんわりと抉るから。

ゲームアプリに時間を浪費する自分に呆れては、どこかで生きてるんだなって、ごめんねって覗き見して(あの人)の時間をゲスト共有する、さもしい趣味。

そしたら今日はどれだけ検索しても
「aren't loading right now」
狼狽して他のアプリでも検索ワードを思いつく限り打ち込むけど
「…に一致する情報は見つかりませんでした」
(あの人)の息づかいを辿れる唯一の手段は、前触れもなく仮想空間からキレイに姿を消した。

こんなんだから端末片手にキッチンで料理をする手は、度々止まっていたのだ。
タバコでも吸うつもりでやって来た神保《ジンボ》さんが、私の背中にぴったりくっついて言う。

「どうした? 京子」

反射的に端末のボタン一つで電源を落とし

「ううん? なんでもない。お腹すいた?」

とポケットにしまって取り繕う。
今はそんな気分じゃないの、私を背中から抱え込む両腕から無言で逃れ

「今日も寒いね」

と、ヒトが有史前から持ってる感覚だけ言っといた。
あなたの両腕は不平も漏らさず黙って離れるのだから、あなたの口も同じように黙ってくれればいいのに、何が不安なのって聞かれても。

私にも分からないのに。
あなた自身が不安になるだけなのに。

一人暮らしに転がり込んできた神保さん。
都会を揶揄し、この家で自然の移ろいを満喫していたように見えた。カモが山道を闊歩するのも、キジのオスが求愛するのも、上機嫌でシャッターを切って。

籍を入れる話も交わさないうちに、やがて身籠もった。子どもが生まれ落ちてからも、何故かあたしたちはそのまま籍を入れなかった。

人肌寂しく震える夜に抱きしめる相手は、添い寝する息子に代わった。小さな命はいつでもあたしをじんわり温めてくれて、おかげか息子は2才になっても、おっぱい大好き。どうにもくっついて離れない。まあかわいいんだけど、顎クイされてキスされた時はさすがに…苦笑した。
大きくなって恋をしたら、きっと女の子にこんなことするんでしょって鼻を軽く摘まんでやった。

神保さんは子どもの育ちを目の前にしても、自分のペースを崩さない人。その優しい抱擁は愛とかじゃなく、もしかしたらあたしならタダで出来るから? とか疑いは下卑て膨張していって。

「出産後のホルモンバランスの乱れじゃん?」

バカ言わないで。
そんなにしたいなら、1人で出来るでしょ。
あたしだってそうしてるのに。

そしてある日、予告なく神保さんの母親が乗り込んできた。初めて会ったその人は鬼の形相だった。
鎌倉時代にまで家系を遡れるというこの鬼の目には、元々涙など無かったのだ。

「情緒不安定なあなたに孫は任せられない」

そう決めつけると、あたしのお腹に十月十日《とつきとおか》も宿り、大雪の日に産声を上げ、おっぱい大好きの可愛い盛りに発育した息子は、七五三のお祝いもしてやれないまま鬼に連れ去られホワイトアウトしてしまった。
神保さんもまた鬼の後を追い、それっきり戻っては来なかった。

ああ今日みたいに寒い日は、息子は鬼ババのおっぱいを触って暖をとっているのだろうか。

やだな、もう正午を回ってる。外はやたら静かだ。積もった雪は辺りの音を飲み込み、不気味なほど何者の気配も無くしてしまう。

そうそう、書きかけのメール。
思いついた。おばあちゃんへの結びの言葉は「またね」がいい。

そう言えばあたしを生んだ母親に「またね」は無かった。物心つく前に蒸発し、なのに兄が交通事故で危篤になった冬、何処から湧いて出たのか一度だけ病室に顔を見せたんだった。

「もうこの子をかわいいと思えない」

意識の無い兄に向けた言葉はそれだけだ。
でもあたしは心無い言葉すら貰えなかった。

ずっとあたしは誰とも「またね」と結んで来なかったのだ。
誤解されたくない相手ほど結びは慎重に。見返りなく育ててくれたおばあちゃんには、ブルーライトに浮かぶ文字ひとつにも、お座なりな心をのせたくない。

再び手にした端末が着信で震え、メール表示画面が強制的に消えた。

「お父さんだけど。ばあちゃんが亡くなったから一応知らせておくな?」
「……」

無言で電話を切ると、スーっとすきま風が通っていく。やっぱりだ、ストーブの青い炎がもう消えそう。
弱ったな。灯油買いに行かないと。
でもこんな雪では店まで出かけたくない。
不完全燃焼の匂いを漂わせている古いアラジンのストーブが、ただ静かに熱を失っていく様を真正面から膝を抱えて最後まで見届けた。

お父さんの電話はイヤガラセでしょ。
構ってる場合じゃない。おばあちゃんに送信するメールを完成させよう。

そして、文末に
「またね」
と結び、虚しくなって送信をキャンセルした。

しんしんと降り積もる雪は、里山の家を等しく包み込む。
ストーブ無いと心底寒いや。
震えるあたしはお蚕さんの繭のように布団にくるまれ、

我が家もまた繭のように雪に覆われる。

「おーい。生きてるー?」
「死んでるんじゃない?」
「喋れるなら大丈夫。あんた充分生きてるよ。うー寒い寒い。灯油が無いならエアコン使いなよ」
「電気代高い」
「生きるにはお金がかかるんだって」

1人1人、縁が切れていくもんだから、この友人とも、もう会うことないと思っていた。

「勝手にお茶沸かすよー?」

わざわざこんな大雪の日に、都心から電車を乗り継いでやって来て、さてはフラリと一人旅の観光気分か。
男が出来て忙しくなってあたしのことなんて忘れていたくせに。

「何しに来たのよ」
「あんた、雪が積もると殻にこもっておかしくなるもん。ほら思った通りじゃん」
「感じわるー」
「今日泊まっていい?」
「いやよ。あんたと寝る趣味ない」
「泊まる準備してきたから。ねえカマクラ作ろうよ。子どもの頃からの憧れなの。カマクラ」

ほら、観光客だ。
でも実はあたしも子どもの頃からの憧れだった。カマクラ。

「で、カマクラってどうやって作るの?」
「さあ?」

うっかり調子に乗せられて、一緒になってキャッキャッ騒いでいる。かき集めた雪山を固めてくり抜いたお粗末なカマクラは、穴ぐらの前に並んでしゃがんだ女2人のお尻をやっと隠せるくらいので。

「中で熱いお茶飲みたかったなー」
「積雪30センチじゃ、こんなもんね」
「よし。雪だるま作ろう」
「まだやる気?」
「もちろん」

思いの外大きく出来た雪だるまは、身長1メートルくらい。腰痛いだの、ブーツに雪が入っただの、言い出しっぺのクセに愚痴る友人を無視して独りごちた。

「ゆうくんも、このくらい大きくなったかな」
「かもね」

だから雪だるまは、とびきり可愛い顔にした。

「ねえ、知ってる? アフリカのマラウイじゃ、『甘い』と『旨い』って同じ単語使うんだって」

友人が万が一の遭難に備えて持ってきたという板チョコを分けてくれた。

夜になって雪はやんだ。鍋をつついてお風呂に入ってぬくぬくとしたまま眠りにつきたかったのに、ちっとも温まった気にならないのはどうしてだ。

「なんでマラウイ?」
「そこに2年住んでた人が言ってた」
「ふーん。でも日本語も発音似てるよね。『甘い』『旨い』」
「日本語でも語源は一緒みたい。古代人も甘いのは旨いって感じてたなんて、親近感わくよー」

そうね。柚子を絞った紅茶にたっぷり砂糖を入れた。

「『寒い』と『寂しい』も語源は同じらしくてさ」

スプーンでぐるぐる混ぜながら、あれもこれもそれもやっぱりそうかと思い当たった。

「『山里は冬ぞさびしさまさりける』なのよ。街に戻っておいでよ。雪に呑まれちゃう前に」
「もう遅いよ。繭が出来上がっちゃった」

かつてこの土地で盛んに行われていたという養蚕業。
あたしを覆う頑固な白い繭を、誰か一本の細くて長くて強い絹糸に紡いでくれればいいのに、今はもうこの集落にもお隣のおばあちゃんを最後にお蚕さんの後継者は無いと聞いた。
そこらの畑に生えた桑の木に、産地の面影を残すだけだ。その桑の木も、今日は雪の下で黙って眠っている。

「相変わらず意地っ張り。ただ、ちゃんと笑っててよね。
ゆうくんがもう少し大きくなったら、ママはどうしていないの、ボクのこと嫌いなのって悩み始めるんだから。
その先の思春期にはもっと激しく悩むんだよ?
ねえ、聞いてる?
あんたが欲しくてたまらなかった『大好きだよ』って言葉を、未来のあんたの息子は待ってんのっ!」
「…分かったようなこと言わないでよ。説教くさ」
「おー、くわばら、くわばら」

桑の木にかけた駄洒落のつもりらしい。

「ゆうくんはいつかきっとあんたを探し出すよ?その時老けて疲れ果てた顔見せられる?妖怪白粉婆おしろいばばあの話でもしてあげようか」
「やだ。くわばら、くわばら」

あたしは不幸な妖怪の顔を晒して誰かの同情を惹きたかった、とでも? だとして、それをいったい誰に見せたかったのだろう。気づいて欲しかったのか、報復するつもりだったのか、でも何だかどうでもよくなった。
雪の日に顔面真っ白に厚化粧して酒をねだり歩く白粉婆だなんて、まだまだ勘弁だ。世捨て人風情をしても、あたしにはまだ現代の平均寿命まで60年くらいの持ち時間がある。

「いっぱい笑おうよ。ゆうくんが俺のお袋美人だぜってこっそり自慢しちゃえる顔が、絶対いいって」

翌朝遅く2人してグダグダと眼を覚ますと既にいい天気だった。
今なら電車も定刻で動いてる、ハンガーに干してすっかり乾いたアウターとニット帽を友人が装着した。

「また来てね」
「会いたいならあんたの方から来てくれていいんだけど」

また来てくれるといいな、なんて、せっかく殊勝な気持ちを込めて結んだのに、噛み合わない。もう言ってやらないからねーだ。

空は青でも山の陰に隠れて直射日光の当たらないこの集落には、しばらく雪は溶けずに残る。古い言い伝えにある妖怪白粉婆も妖怪震々ぶるぶるも身を隠すのにお手頃な土地に違いない。他にもきっと色んなアヤカシが潜むんだ。

だけど

「駅まで乗せてってあげる」
「あれー、どんな風の吹き回し」
「灯油買いに行くついでに。その代わり雪かき手伝って」
「人使い荒くない?」

昨日作った雪だるまのほっぺをつつき、えくぼを作って行ってきまーすと車を出した。暦は巡って大寒を過ぎ、立春に向かっているはず。

「本気で引っ越しておいでよ。ここ賃貸でしょ?」
「今は動く気ないし」

視界の晴れた心でもう少しここで暮らしてみたいから。

「そっか。今度は夏に来ようかなー。川で水遊びできるんじゃない?」
「水、綺麗だよ。裏の沢でこっそりワサビとクレソン育ててる」
「いいじゃん。食べさせてくれるんでしょ?」
「スーパーで買えば早いよ」
「あんたが作るからいいんだって。じゃ、またね」

糸口の見つかったあたしの繭から、スルスル透明な糸が手繰られていく。

たった一本の透明な糸だけど、
新しく言葉を結ぶ大切な糸。



ー終わりにして始まりー


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