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4・夏「川天狗のレガシィ」

それは陰惨な事件と言う他無かったよ。

不具ある者が、人里離れた山奥に生涯閉じ込められる……今さら珍しくもない。元より彼らの存在は無かったものと扱われ、ムラとは隔離されてきたのだから。

なのに檻の中で生かし続けるのは何故?

「生きる価値」とは?

草木が眠る刻、雄叫びが山々に木霊する。

ウォォー…
ウォォー…

これを妖怪の仕業と片付けてしまうとは愚か者。忘れられた命の価値を乞いもがく声を聞け。

青年は「生きる価値の無いお前らは皆死ね」と狂喜し、檻の住人を次々刺し殺してしまった。
無惨。彼らには身を守る術がないというに。

年老いた親らしき者たちは一様に、オイオイ泣き残酷な青年を罵るが、待てよ。
まさか惚ける気か? その手に余るからと我が子の命の行く先を、山奥の赤の他人に委ねたのは誰。

世もこぞって青年を人に非ずと断罪した。鼻高々に意気揚々と思想を血筋を暴く。青年が『旅の者』とな? だからどうした。
ヤレ『旅の者』と烙印を押し、皆そうして自らの後ろ暗さを誤魔化していくだけよ。

まだ気づかぬか。
『旅の者』が手を下してくれたのだ。汝《うぬ》らの代わりに。

カアァ…カアァ…

奇岩山の向こうの湖を見よ。美しいのだろ? 水と森と光の風景は癒しなのだろ?
ならば癒されついでに聞くがいい。あれは人造の湖だ。その浅い歴史くらいは知っておるだろう。

某《それがし》には見える。
かつて大陸から来た労働者の人柱がぷかぷか浮き沈みしておるのよ。

罪人という格好の人柱を立て、湖は今年も花火大会の準備が始まった。
貧しいムラの期待を背負った湖上花火は、盛大に打ち上げられるというが。

人造湖のお陰で水脈が大きく変わった。命の地図が大きく書き換えられ、この川は住処とするには余りなドブと化しておる。

「生きる価値」

大罪を犯した青年こそ、生きる価値が無い?
死ねと言う奴が死ね?

何やら偉そうにホザいた輩が大勢おったな。
だから某《それがし》がムラを捨て、バサバサ飛び去る前に教えてやったのさ。

「じゃあ、貴様にはあるのかい?」

(ムラの若者A)

蝉の時雨れる神社の長い階段を駆け下りた。暑いのは苦手。なのに俺は何やってんだか。
分かりもしないことに汗を流しては、馬鹿馬鹿しくなって投げ出す、俺の人生はその繰り返し。

畦道を抜けて、古い舗装をひた走る。もう見飽きたけどな。役目を終えた火の見櫓は解体待ち、田は放棄され水車は既に木っ端。日陰のない一本道には潰れたアマガエルがジリジリ焦げていた。

さあ景色が変わった。あともう少し。
ゴツゴツした奇岩山へ登る古道、杉の林は植えっぱなし、かろうじて流れる深堀の川に架かる赤い橋を渡れば、

林の陰に小さな一軒家があるんだ。

ちょいと昔に『旅の者』が別荘として建てたそうだ。長老に断りもなく山を切り拓いたもんだから、当時から目の敵にされてたっけなあ。
そんな事情を知る由もない都会者が、荒れた空き家にわざわざ越して来たとか。

俺の住処に、なんて当てが外れて……

あ、アレだ。今度の『旅の者』。
ムラでは珍しい若い女。

「初めまして。隣に越して来た木室と申します。よろしくお願いし」
「なんじゃ、また『旅の者』か」
「?」

あーもー、小娘が引越しの挨拶してんのよ? ババアそりゃないぜ。アンタも娘時代にはこの位の愛嬌あったろう?

「旅の、者……?」
「さ、ワタシは畑で忙しいから」

この地では、よそから越して来る人間を『旅の者』と呼ぶ。
娘のような移住者と、江戸以前からムラ住み着く自分らとをきっぱり区別し、蔑んでいるのが常だ。
とは言っても面と向かってハッキリ言える奴はそうそういないんだがな。

……てなわけで、満腹。
今日もなんとか遅い昼飯にあり着いた。鎮守の杜でシエスタといこうか。ミンミン蝉の合唱だんが今日も下手くそ過ぎてグウグウ寝るにはうってつけ。

娘の肩、アブが刺したんだなあ。
白くつるんとした肩に、赤く丸く腫れた傷。
さぞ痛痒いだろうが、……
それが妙に艶めかしかった。

クソ熱い日差しの下の新しい日課。好奇心だけは旺盛なもんで、娘の様子をせっせと覗きに行っている。

あー傷をベロンと舐めてやりたいなあ。

「ねえアンタ、今度の『旅の者』ってもう見た? 若い娘なんですって?」
「……」
「まるでホンモノの狸ね。また寝たフリ?」

俺のシエスタが……

「あーまあまあの女だな」
「ヤダ、やっぱりもう目をつけてたの」
「ババアに虐められてる所を見たいんだよ」
「まあね。あのバアさんも偏屈な妖怪まがい……ってねえ、寝たフリしないでよもう! アタイを出し抜いて川天狗さまのとこにゴマスリに行くんだわ?」

めんどくさいから相手にする。
相手にしないともっとめんどくさい。

「あ? 川天狗なんざもう伝説。湖ダムのせいで干上がってさ。田んぼの水は水道水だとよ。笑える。そりゃ川天狗も嫌気さすって」
「ふーん。でさあ、怠け者のアンタが村ハズレまで通ってんだって? カラスが噂してたわよ、アタイをそっちのけにすんの、ヤな感じ」

コイツは尻尾を振ってフェロモンを醸した。
全くお喋りカラスめ。

「オマエの方がいいオンナだよ」

さてな……俺はこのムラしか知らない。だからってムラを出たらどうにかなるのか? 仕事だ、女だ、人生だっつっても今さら生きる価値なんて代物、俺には……

川天狗が言い残した言葉をメスの耳に吹き込む。

「じゃあ、オマエにはあるのかい?」

耳を甘く噛むと、酷く的はずれな答えが返ってきた。

「愛? あるわよ」

陽炎が揺れた。俺はオマエよりはマシだ。
だが、……まいっか、腹ごなしに丁度ヤりたかったという事で。

夕暮れになっても一向に気温は下がらない。ひたすら背筋に舌を這わせながら空を見上げると、帰路のカラスが俺を見て見ぬ振りだ。

カアァー…カアァー…

もうじき花火なんだってな。

頭の隅で、ふと、そう思った。

(中年男B)

顔をしかめた。集会所の防災スピーカーから正午を告げるチャイムは喧しくて敵わないよ。

私が娘を見かけたのは、集会所の真横の畑の脇道に差し掛かった時さ。つばの広い麦わら帽子を目深に被っているから、顔立ちがよく分からなかったが。

爺さんが道楽で作付けしたのだな、色鮮やかなトマトを鼬《イタチ》や猿が狙っているのが見え隠れする。

獣に恵むのが余程気に召さないか、爺さんはトマトをもいでは持たせもいでは持たせ……娘の両手はあっという間に真っ赤なトマトの山だ。

「ありがとうございます」と若干困っておるが、爺さんはボケたフリして「旨いから遠慮せずに食べろ」と急かす。
気の毒に。頑固爺さんに押し付けられたが運のつき。

まあ所詮『旅の者』がどのように扱われようが私には関係無いがね。

ああ私も喉が渇いたよ。貴重な田んぼに向かう途中だったのだ。臭い農薬の溶けた水も、無いよりはマシだろうて。
川天狗ほど神経質にできちゃいないからな、気にもならない。

だが喉を潤すにはどうしてもこの二人の間を抜けねばならぬ。成り行きを待つうちに娘はなんと、トマトを丸齧りしたのだよ。

カプリ…

どうだね、
麦わらから覗く半開きの口元
口元から粗相してポタポタ垂らす完熟の甘い汁

ゴクン

赤く瑞々しい果肉が内側から細い喉を畝らせた。

こいつは…いい……

爺さん手慣れだな。私もオコボレ頂戴しよう。娘の唾液の混じる果実をひとしずく呉れたなら、お返しに私の毒をやろう。白い喉をもっと長ーく突き出してご覧。私のように

「きゃっ!」

怖がらなくて良いんだよ? 歯が当たって少し痺れるだけ。そうすれば案外癖になるのだ。

娘は怯えて飛び退く。帽子が脱げ、真っ赤に熟れたトマトは地に落ちてひしゃげた。

その顔、なかなか良いね。

まさに娘に飛びかからんと舌を震わせ頭をもたげた辺りで意識が希薄になった。
爺さんの鎌が私の身体を真っ二つにぶった切ったのだ。
土に還る赤は、無論トマトではない。

私は喉が渇いただけだ
私を食うでも無いクセに
何故、殺す?

頭を失いヒクヒク痙攣する尻尾は、悔し紛れに爺さんの足首を締め上げたが、それも力尽きてするする引き剥がされた。
最期はクルッとまとめて畑の外にポイ、だ。

川天狗よ、答が見つかった。
「じゃあ君にはあるのかい?」
ああ、見事に無かったよ。私の「生きる価値」なんて。神にも妖怪にもなり損なった時点で、全く。

ミンミン蝉の声が遠くなる。私だって殺めたことくらい有る。捕食なのだ、しかし私自身が殺されるとは、露ほど考えたことが無かった。

一度でいいから花火とやらを拝んでみたかったなあ

その世迷いごとは蛇足も蛇足。
トマトを突つく烏たちの眼差しが、濡れ羽色の奥から私に向かってキラリ光る。

おお、この哀れな頭も食らう気か。

良いだろう、それならどうせ差し出すのだ、ほら生きた脳髄をひと刺しずつ、もっとゆっくり味わって啄みたまえよ。もっと、遠慮せず、ほら、もっと、そう、良いことを教えてやるから。

娘は男の匂いがしたよ?
それもちょっとワケありの類いのがね。

……私なら娘を守ってやっても良かったのだがね。

(若者C)

「ねえ今夜の花火、連れてってくれない?」

メスが擦り寄ってきた。これってピロートークっていうのかな、ねえ拭かなくて平気? ほんとにイッた? 今日は安全な日なんだよね? そう言ってたよね?
そのうちメスの機嫌を損ねず断る良い口上が浮かんだ。

「あの湖はムラが丸ごと一つ沈んでるんだ、祟られる」
「クスッ。祟りなんて迷信よ? 人がたくさん集まるし、オコボレたんまり頂けそ」
「他の誰かに頼んだら」

結果メスはプイッと去ってしまった。
それはそれでホッとしたけど何となく、小さな罪悪感を持て余すハメになった。
でも僕は嘘はついてない。早く手を洗わなきゃいけないんだ。

手を洗うなら、深堀川。『旅の者』の住む方角だ。最近来た『旅の者』は若い娘って、もうムラ中のウワサになってる。

赤い橋に差しかかったあたりで、足が止まった。

ヒュー……

花火始まってしまった。花火なんて嫌いだよ。
湖は奇岩山をたった一つ越えたところにある。湖から打ち上がる花火はすぐそこなのに、山がジャマして見えた試しがない。
大きな音だけ。 山を揺るがす振動は、花火? まさか大砲?

ドーンドドーン、パラッパラパラ…

山から山へ不規則に死の宣告がこだまする。
夜までうるさいミンミンゼミさえ黙りこくっちゃって、きっと下される審判に耳を澄ませている。
価値のない奴は誰だ、お前か?

誰も川天狗の問いから逃げられない。
メスは僕じゃなくても、僕なんて居なくても、良かったんだ。僕にはあるの? 「生きる価値」……

僕だって花火じゃなきゃ、デートしても良かった。
深堀川で手をゴシゴシ洗い、グチュグチュ口もゆすぐ。この水、昔は飲めたっけ。
ついでに足を揃えて頭を下げて『旅の者』の裏庭に入った。

お邪魔するよ? みんな覗きに来るらしい。なら僕だってちょっとくらい。
花火の音に紛れて庭の茅をかき分ける。

娘、いるかな。いないかな。
やっぱり花火を見に行った派?

爆音を合図にまた進む。
小さな家の小さな縁側に目を凝らしたら、いるよ、アレか。
アレがウワサの娘。

ドーン、ドーーン、…

山々に大砲が轟く。
藍染の浴衣に、繊細な線が浮かんだ。まだ見たことのない花火の絵柄にそそられて、また前へ。

誰も連れてってくれなかったの?
行く? 一緒に

浴衣の裾のつるりとした素足。これってこれってメスには悪いけど、僕どうしたんだろ、妙に興奮しちゃって

イく? 一緒に

再開した爆音に紛れ、さらに前に詰め寄る。

イくよ?

バンバンドーン……
前へ

バンバララバーンバーーン……
また前へ

ドーンドーーン……
また一歩前へ

ドーンドーーン…
あと少し。娘に触れたら一気に逃げ出そうと辺りを伺えば、いつの間に集まったの、僕だけじゃない!
尋常じゃない数の客が!

ドーンドーーン…
娘を取り囲むケモノの輪も爆音の度に一歩ずつ小さくなる。みんな一様に娘に触ろうと手を伸ばし足を伸ばして近づいてくる。ゾッとした。

僕は彼らとは違うよ! 想像しただけ! 悪いことなんてこれっぽっちも!

焦って茅に足を取られ思いっきりつまずいた。爆音の合間の、緊迫した空気の中で、

ガサドサッ…!

今の音で絶対気づかれた。
娘はピシャッと奥に引っ込んだ。
ケモノの気配も一瞬で消えた。

そして僕の足元には、一匹のヒキガエル。
伝説級に大きな身体で、ヒキガエルは僕に向かって口を開けた。

許してよ、何もしてないよ、見てただけ!
生きる価値がないなんて、言わないで?
ここに神様がいるなんて、本当に気づかなかったんだよっ!

(若者D)

花火大会は終わった。
あれから何事も起こらず、元のなんの変哲も無い朝が巡る。ということは、ハハーン、今年も山の神の怒りを買わなかったってか? 川天狗の取り越し苦労だな。
もしや山の神もとっくに引退したか?
分かんね。想像するだけアホくさ。

「アンタ、カエル取るのだけは上手かったわよね?」

おいおい、年中発情期のメスを宥めるのは、いつからオイラの役回りになったんだ?

「そうだわ、アマガエルの掴み取り、誰よりも無駄にいっぱい取ってた」
「まあ、そういうことじゃね?」

まだ手の中に残していたアマガエルを見た。グッタリして跳ねる気ゼロ、お前、生きることを諦めちまったのか。

つまんねー

スライムを握り潰して花火みたいに打ち上げた。
オイラの趣味だ、無駄に取ったカエルに命乞いをさせてアスファルトめがけ思いっきり叩きつける。
エグいけどな。
他のヤローよりちょっとだけ激しくて、ちょっとだけ数が多くて、ちょっとだけ卒業するのが遅いだけだって。

ヒグラシの声が林の奥の闇に吸い込まれる。辛気くせーが、ささやかな夏の楽しみも終盤か。

「『旅の者』の家。ここんとこヒキガエルが居座ってるって。ああ見えて家の守り神だってカラスが……あ! ねえってば! 聞いてる?」

うっせ。少し黙ってろ。姿は見えねーが、何かがやって来る気配だ。

……なんだ、娘か。
娘が近づいて来る。しかし隣に男。ワケありの匂いのする此奴は何処の何奴だ、いつの間に?
チッ早いとこ犯っとくんだったな。横取りされた気になってイラつく。
で、オイ無視かよ。

「ねえ、どこ見てるの? あー、娘? アンタもイカレタ?」
「ホザけ」
「だからさ、ヒキガエル生け捕りに行かない?」
「やだね。イボが感染る」
「そんなの迷信よ。神なんかこれっぽっちも信じちゃいないくせに。ヒキガエル生け捕りにできたらさ、いいコトあるかもよ?」
「いいコト?」
「神の面して居座ってるから、誰も『旅の者』の庭に入れないの。あそこは沢の清水を飲みに行く近道だったから、占領されてみんな手を焼いてるわ」

だろうな。
さっきの男が捨てたシケモクを拾って咥えた。

「それでいいコトって何だよ」
「アンタがあそこの神になればいいのよ。抜け道の通行料取ってさ」
「なるほど、いいね」
「生け捕りにしたカエルはアンタの手柄に利用すれば。でも潰すのはやーよ? キモイもん。せめて市中引き廻して縛り付けくらいにしてやってー」

川天狗が居た頃なら、仮にも神と呼ばれるモノにそんな野蛮は許されなかった。
無法地帯になりつつあるのは、神を敬う心まで、ムラから全部持ち逃げしやがったな。

川天狗が、何か言い残してたって?

オイラは事件の加害者に同情するぜ、生きる価値の無い奴は食い扶持を減らすだけ。あのブッ飛んだ青年がヤらかした集団殺傷も、ヤツがヤらなきゃ、……
オイラがヤッたかもしんね。

どいつもこいつもアマガエルなんだ。ブッ潰せばいい。生き物の命なんて、心臓が動いてっかどうかで決まるんだろ?
魂なんて、あったらいいなの戯言だ。
神? それって誰か見たことあんの?

娘がランデブーで留守の裏庭。ズカズカ上がり込み、ヒキガエルだかガマガエルだか知らねーが、メスと手分けしてガサ入れした。ジメジメした庭だぜ全くよ。
こりゃ確かにヒキガエルにとっちゃ天国。
けど、たかがカエルの分際で守り神だ? そんな信仰、オイラには無い。カエル教より通行料のがよっぽど魅力的だ。
人間の真似事なんざチョロいって。

汗ダラダラで隅から隅まで茅を掻き分けたが、上手いこと姿をくらましたみてーだ。ゴーンと山寺の鐘が鳴っても遂にヒキガエルは見つからなかった。

「引き上げようぜ。かわたれ時だ。妖怪が好む頃合いは、もう帰れって言うだろ」

メスはブー垂れた。

「変なとこだけ真面目なのね」

カチンときた。誰に向かって口聞いてんだ。

……でもまあ、今さら戒めを守ってもしゃーねーや。シケモクをブッと吐き捨てそのまま裏庭で、生意気なメスを泣かすことにする。

イったフリとか一番腹立つからな、オラオラモード全開だ。オラオラ

嫌いじゃねーよ? そういうの嫌いじゃねー。でもオイ、誰も居ねーからってそれは流石に声がデケーよ
と思ってたら、隣の家のババアが石を投げつけてきやがった!

「この、盛りのついた化け狸めっ!!」

ビビったー。マジあのババア、オイラたちが見えるのか?

慌ててメスを突き飛ばして逃げ出した。知るか、そんな事よりムカつくのは、後ろで高笑いが聞こえるじゃねーか。

クックックックッ

なめんじゃねー、テメー覚えてろよ、図体だけデカいイボガエルめ!

(川天狗と八条殿の姫)

気掛かりを思い出し、ふらりバサバサ舞い戻って来た。
いつか奇岩山の岩窟で道志法師と「生きる価値」について語らいサシで交わした盃、あの盃は、何処に仕舞っておったか。

おぬしの妻の八条殿の姫は、名は変わったが言いつけ通りムラで潔く生きておるよ。
久しぶりのムラは真白な雪に覆われて一際美しい。木々も屋敷も絹糸を紡ぐ大小の繭のごとし。
そして美しい風景ほどその下に、朽ちた残酷の切れ端が見え隠れするのだ。

このまま雪が溶けねば良いのにと自然の摂理が恨めしい。
そら、雪を退かすと彼方此方に全身イボで浮腫んだ鳥獣が倒れておる。

愚かな。

さてはどいつもこいつも身の程を知らず神に手を出したのだな。
神が寝ぐらとした『旅の者』の小さな屋敷をバサバサ一直線に目指す。
確か人間の娘と幼子が二人で暮らしておると

……こ、これは!

庭の鬼門に大きなヒキガエルの死体が串刺しで突っ立っておる、なんと!
酷いもので、烏にでも啄ばまれたのであろう、千切れた臓物を僅かにブラ下げる肋骨が、最早剥き出しではないか!

惨い。なんたる冒涜よ。
そして呑気に眺めておる場合では。某の出る幕では無い、去らねば。

隣の婆の屋敷の窓だけ慌ただしく叩き、先ずはバサバサ真上に留まった。
婆が出て来るのを待つ。早く出て来い、某《それがし》も急ぐのだ、もう先程から気づいておるのだろう?

飛び出して来た婆は早速、娘に大声で叫んでいる。

こんな世において清廉であり続けるのは真白な雪より何よりそなただけだ。後を頼んだぞ。

「アンタ、早く子どもと隠れな、鬼が来る!」
「鬼?」
「バカがやらかした所為で鬼を呼んだのさ。アンタ誰が訪ねて来ても夜が明けるまでは絶対に繭になるんじゃ! 子に白い布団を繭に似せて被せたら、顔も出しちゃいかん! わかったね!」

未練は残るが、お互い生き永らえてこそだ。さらば。

バサバサ高く舞った。

川の向こうで狸が瀕死だ。

「オメーが、唆すから、ヒキ、ガエル、を…」
「それで死体を串刺し? そりゃ祟られるわよ! キモッ!」
「神は、……居る、……オメーの……せい……、」
「触んないで! 感染ったらどうすんのよ、汚らわしい! だいたい殺せなんて言ってないしー! マジこんな妖怪のムラなんて出てく…って、……何?……アタイの手……
へ? これ…って……イボ?」

因果応報、せいぜい罵り合って苦しむが良い。
バサバサさらに高く舞うとイボ狸どもは黒ゴマになり、視界が広がって、

もう鬼が来ておる。

何にせよ我らと力が違い過ぎるのだ。神の加護無きムラに蔓延る妖怪たちも、鬼にとっては塵よ。
某の神力をもってしても、……

なんと!
娘は男の声を過信した。顔を覗かせておる場合か、その男は既に鬼に心を売ったのだぞ、『旅の者』よ、婆の忠告を忘れたか!

するや否や鬼門から鬼の邪気が流れ込む。
邪気は凄まじく、轟音と共に屋敷も娘も林もムラも丸ごと歴史を塗り替えんと渦に巻く。

せめて子どもは頭のてっぺんから足の先まで繭の中に隠しておくべきだったのだ。

かつて岩窟から道志法師の息子が攫われた日に得た戒めよ。
そんな風に我が子を胸に抱いてはならぬ
慈しむ姿を鬼の気に晒してしまえば、間違い無く、

男の背後には怨みに満ちた大きな鬼が控えておる。

我が子を檻に葬れとは言っておらぬよ。ほんの少しの間、繭の中に押し込むだけで良かったのだ、血を分けた子との絆を守る為に。

鬼の両手が伸びる。
それは無言で
子どもに向かってズーンと伸びてゆく。

その顛末までつぶさに見届けるのは余りに残酷でしのびなく、

せめて己の命を粗末にするでないぞと唱えると、バサバサ天高く舞い上がって湖を越え、遥か西の空を目指した。


-続く -




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