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地球は青い水槽だっ

一一2年8組。5時間目、数学II。

私たちは予測可能なことに囲まれて、安心しきって生きている。

一一教科担当笠井先生。

曖昧さから子どもを守るために必要なことだって、大人は言う。
でもほんとはどうだか分からない。

「鈴木ヒカリ、黒板の三角関数を前に来て解いて」

一一外は晴れ。

窓の外の真っ青な空を見つめていたせいで瞳孔がすっかり萎んでしまった。
教室は一層暗く、黒板は闇を吸い込むブラックホールだ。

シーンと静まる教室に、チョークの音だけがカツンカツンと響く。
やがて浮き上がる白い数式。…1分経過。

「鈴木は…どうして公式を使わないのか」

無数にある解法は、あれもこれもただ一つの解へと導いていく。
「よって私は私である」という証明に、テンプレを使うわけには…2分経過。

「あ」

力み過ぎてチョークが折れた。3分以内に書き上げたかった。あと少しだったのに…途端に5時間め終業のチャイムが鳴る。席に戻るとこれだ。

「ヒカリ、黒板の字を書き写す身にもなれよ」

中途半端な証明式と、隣の席コウヘイの抗議を教室に残し、カバンを持って飛び出した。

一一現在の時刻14:55。

地面に垂直に立つ私と、日照角度45°が作る影の長さとが等しくなる。

白い太陽を背に、私は私の影に手を振る。

影は照れたように首を傾げて振り返してくれる。

太陽は傾く。1時間にたった15°の猛スピードで。

一瞬意思をちらつかせた影も、わずかだけど少し、また少しずつ丈を伸ばして、ただもう私を忠実に真似るだけの影に還る。

「帰ろ」

駐輪場に向かう。
駐輪場は自転車たちの無法区域。なぜか。答は簡単。遅刻ギリギリの生徒が、あとからあとから無理矢理隙間に押し込むせいだ。

マイチャリを引きずり出すのはホント毎日苦労する。

あ、先生。

数学教官室を見上げる角度、45°。笠井先生に手を振る。
これってささやかな楽しみ。私の日課。


ちょうど1年前のこの時間、予測不可能な現象が起きた。これはもう若さとか経験値とかの問題じゃない。
おそらく笠井先生にだって予測できなかったこと。

突然私は白い太陽に大きく目眩がして地面に倒れてしまって、でも駐輪場の自転車も同じくみんな地面に寝そべる形で倒れてしまった。

突風が吹いた訳じゃない。空は今日みたいにいい天気。世の中に立っているもの全て、理事長の銅像までもが太陽の方角に向かって地面との接点を中心に90°回転したのだ。

代わりに垂直に立ち上がるのは、影という影。そして影、また影。

そびえる黒い影に襲われるのかと思いきや、太陽は変わらず光を注ぐし、影は何食わぬ顔して……顔があればの話だけど、日常を演じている。

まさに主と従の立場が大逆転。
本来なら私が倒れたなら、影も私と共に寝そべるべきでしょう?
なのに私たちオリジナルと影が完ぺきに入れ替わって、立ち上がるのが影だなんて、どんな数式でも予測することは不可能だったのだ。

ねえ、誰か……。平面に貼り付いたせいで首を回すこともままならない。必死になって目玉をキョロキョロ動かすけれども白い校舎は既に真っ黒な影になってしまった。窓もない真っ黒の。
とにかく視界に立ち上がるものは全て黒い。ただ黒いだけの影。

(ねえ、だれかーっ)

あれ、声が出てる気がしない。
それどころか私は影のスレイブとして地面を這いつくばって、影の物真似を強制されてしまった。

今、私の影はマイチャリを引きずり出そうとガチャガチャやっている。私も不本意ながら、地面の上でガチャガチャと。

この子、要領悪いなあ。確かにこんがらがった自転車をどかす手順は数式を紐解くようなもの。
でも自転車はどれも同じ黒い輪郭。よくもまあマイチャリを見つけ出せるものだ。その点だけは感心する。

太陽は1分間に0.25°の猛スピードで西に傾いていく。予想するに私は自然の摂理に従って東にじわじわ身長を伸ばしていることだろう。

ある黒い影が近くに駆け寄ってきた。ご丁寧にも私の顔を、黒くて長い足で踏まないように避けて止まって、そうして傘を開いた。

(ねえ、そこのだれかーっ)

私の声にならない声は、影には届かないみたい。

「傘」
「降水確率0%」

(ねえってばーっ)

雨傘なんてどうでもいいから! と嘆く私。この胸の内を知ってか知らずか、やたら大きなこうもり傘を広げたまんま去ってしまう影に追随し、透き通ったカラー写真が私の真上を掠めて行く。
真っ白なユニフォームのハーフパンツに赤いバッシュ、12番の数字。隣の席のコウヘイだ。コウヘイがこの私の顔の上を……?

痛くはないのだけど、精神的ダメージを受けた。
ああ。でもねえコウヘイ、みんなはどこ? ペシャンコになった私たち影もどきは、日が暮れたらどこへ行くのでしょうか。

地面から見上げる世界は、昼下がりというのに眩しい七色を拡散させず、黒い影と形だけがうごめくよう。

おそらく地表にだけ、影に座を譲った私たちの色が残る。水槽の熱帯魚を真上から見るかのごとく美しい色彩の幻燈が揺れているはずだ。
上空から目にした宇宙飛行士は言うのだろう。

「地球は青い水槽だ」と。

ふてくされて寝そべる間もなく、影に引き摺られてズルズルと自転車を漕ぐ。川沿いの遊歩道、水だけはキラキラと光を反射するけど、草むらも花も景色はみんな黒い影。

熱心にペダルを漕ぐ自転車の影との距離が、夕暮れになるにつれ少しずつ遠く離れてきた。だよね、日照角度60°にもなれば私の身長は√3倍になる。三角関数は距離を机上で測れる便利なツール。

でも公式は解決してくれない。いつしか太陽が山に隠れ、間延びした私の意思だけ置き去りにして、姿形は闇にぼんやり溶かされてしまった。

そもそも影というのは光を遮るからできるのではなかったのか。
今や立場が逆転し、光を遮る影から幻燈が生まれる。幻燈、すなわち私。

私は影のスレイブだから、操り人形のようにオートマチックに手足が動くのだけれど、奇妙なことに思考だけは自律することができた。

とはいえ放課後もこうして影に従いズルズルと這う。階段を一段一段下りるときなんて、なめらかなビロードの一枚布になった気分だ。

駐輪場でまた私の影はマイチャリを取り出すのに手を焼いている。
這いつくばった地面から、数学教官室の窓辺を探してみようか。

だって、3時ジャストは授業を終えた笠井先生が空を眺める時間なのだから。

平面人間は瞳を最大限に端に寄せて窓の在り処を探す。でも哀しいかな窓も壁もみな黒一色に塗りつぶされているんだった。

私の影は難儀な作業に慣れないせいか、無法チャリにガチャガチャ手間取っている。

「傘」

またもやって来ました、コウヘイの影。オリジナルコウヘイの幻燈が私の顔に少し重なった。

(ちょっと、近すぎ!)
(俺のせいじゃねえよ、俺の影に言え)
(だって、聞こえてないもん)
(知らねえし)
(傘、デカすぎるんですけど)

コウヘイの黒い影は大きな傘をさして私の視界を遮ってしまった。

「降水確率10%」

(あはは、また断られやがって)
(そりゃあだって、どう見たって、ほら)

真上にはピカピカの青い空が広がっているんだもの。

(あの様子じゃ、一生無理だな)
(影は天気予報見ないのかしら)
(予報は当てにならないし。てかあっち側を隠したいんじゃないか?)
(笠井先生?)
(まあ、ヤツの気持ちは分からなくもない)

同じ平面上のコウヘイの表情を見ることは叶わないけど、どこか声が弾んでいる気がする。

また次の日も飽きもせず、私の影に傘をさすコウヘイの影。

「傘」
「降水確率20%。いらない」

私の影の言う通りだ。薄い雲が広がってきているけれど、この明るい空のどこから雨が降るのだろう。

コウヘイの黒い影に隷属して、コウヘイの色つきフィルムが私の上をぼんやりと滑っていく。
触られてるわけでもないのに意識してしまう。だって小学生ほど無邪気じゃないし、大人たちほど無神経じゃない。

ちょうど私の上にコウヘイの幻燈が重なってくる。コウヘイの影は足を止めた。

(ちょっ…コウヘイ、顔をどかしてよ!)
(だから俺に言うなって)

厚さの無い平面と平面のフィルム同士が重なっただけなのに、どうにもむず痒くて困ってしまう。

幻燈としての生活に馴染んできた。そうするしか選択肢がないのだけど、どうせなら面白いことを探す方がいい。

ある日は影が壁に寄りかかって本を開いた。
窓からの日差しのおかげで、幻燈の私は壁に張り付くことができた。
忍法立体起き上がりの術。
せっかく影の背中越しに本を覗きこもうとしたのに。
影は私に見向きもせず本を閉じ、立ち上がる。
壁からズルズルと床へ引きずり下ろされ、そしてまたあのやり取りが始まる現場に付き合わされた。

「傘」
「確率30%」

毎日付き合わされるのが、なんと言いますか、

「傘」
「確率40%」

もはや日課なのだ。

「傘」
「確率50%」

それにこの二つの影だけの問題ではなく、

「傘」
「確率60%」

二つの影と離れることができないコウヘイと私にとっても。

(60%って、たいてい雨降るよね?)
(降る気満々だよな)

コウヘイは、日ごとに輪郭が頼りなくなってきた。
くっきりしたフィルム映像に見えてたのは、日差しのおかげだったわけだ。
光が弱いと私たちの姿は曖昧になっていく。
コウヘイの顔で自分の存在を確かめていたのに、これでは青い水槽の魚たちは雨雲のせいで、絶滅危惧種だ。

(ねえコウヘイ)
(ん?)
(コウヘイはこの現象をどう思う?)
(俺?)
(うん。ついに地軸が90°ズレたとか)
(いやそれはない。季節は変わってない。たぶん空間座標が思いっきりブレたんだ。)
(……どうやって)
(複数の電磁波からの重力に引っ張られて、光が極端に屈折してる。よくあることだろ?)
(よくあるの?)
(水槽の中でも屈折するじゃん。割り箸突っ込むと折れて見える。屈折率の違いなだけで、ヒカリはいつでも屈折してる)
(いつでも?)
(いや時々かな。自分で気づかなかった?)

「傘」
「確率70%」

(気づかなかった。ねえ雨、一滴落ちた)

ぽつんと。影になり損なった水玉が、言うや否や顔に目がけてぽたん、ぽたん、と垂直に続く。

(ヒカリめ。もったいぶるな。いい加減、傘を受け入れろ)
(私に言わないで、影に言って)

「傘」
「確率80%」

無駄に広げた傘をさす男から、無駄に断り雨に降られる女へ、私たちの不憫な眼差しはいつのまにかシフトしていた。

(降ってる最中に予報の情報いらねーだろ)
(意地張らずに相合い傘すればいいのにね)
(そうだそうだ! 入れ!)
(入って!)

雨は本降りだ。いい加減まどろっこしい。自転車なんて置いて帰ればってノイズめいた雨に紛れてやんややんやと野次を飛ばす私とコウヘイ。

「傘」
「確率90%」

「傘」
「確率……100%」
「一緒に帰ろう?」
「うん」

(あーやっとよ? 降水確率にしては、やけに意地張ってたけど、でもこれで影は相合傘だね)
(ヒカリと俺もな)
(やだ、離れてよ)
(だから、俺に言うなって)
(私、変に仲いいって勘違いされたくないもの)
(知ってる。笠井だろ? どうせ今の俺たちは誰にも見えないよ)

言われてみればすっかり雨雲は太陽の光を遮っている。私は平面上で浮遊する意識でしかない。それに笠井先生のこと、すっかり忘れていた。

それより何よりついに私の影が自転車を諦め傘に入ろうとしている。
ザーザー降りだもの、さあ、どうぞ仲良く帰ってちょうだいな。

「コウヘイ! 見つけたぞ! お前また練習サボってんな? 罰走だ!」

だいたい上手く行きそうな時には邪魔が入るのが定石。
100%上手くいったと思ったのにな。
キャプテンらしき黒い影の呼びかけに、相合傘は叶わなかった。

私は一人で傘をさす影に、寄り添って家路に向かう。
この大雨は街ごと水槽にする勢いになった。

翌日から臨時休校となり、私たちの存在は雨雲が晴れるまで潜めなきゃいけない。
だから雨の日はあちこちで、形のない憂鬱な感情がジトジト浮遊するんだろうか。
私の影は頬杖をついて、窓の外をいつまでも眺めていた。


・゜・。。・゜・・゜・。。・゜・・


一一3年8組。5時間目、数学III。

「コウヘイ?」
「あ?」
「一年前の現象、覚えてる?」
「鈴木。駄目だぞ、私語は」

私たちは予測可能なことに囲まれて、安心しきって生きている。

一一教科担当笠井先生。

大人たちは、それが子どもを守るためだと言う。
不可思議なことは忘れなさい。
でも本音がどうだか分からない。

一一外は晴れ。

「俺まで怒られたじゃねえか」

中途半端な証明式と、隣の席のコウヘイの声を教室に残し、カバンを持って飛び出した。

一一ただいま14:55。

先生? 私はあの現象を忘れられないよ。
ふと踵を返して教室に戻った。そして部活用のエナメルバッグを肩にかけたコウヘイを引きずり、外に出た。

「ちょ、どうした、大胆な」
「コウヘイ、傘持ってる?」
「んなめんどくさいのを持ってくると思うか」
「あ、これ借りよう」

生徒玄関に置きっ放しの傘を一本拝借。
間に合うかな。
地面に垂直に立つ私たちと、日照角度45°が作る影の長さとが等しくなる時刻がやってくる。

「コウヘイ、傘さして?」
「こんな晴れた日に?」
「晴れてるうちに」
「うわ、これ傘の骨が錆びてる」
「いいからいいから」

白い太陽を背に、私は私たちの影に手を振った。
コウヘイの影が照れたように頭をかいている。
夕暮れまで太陽は刻々と1秒間にたった0.0041666°の猛スピードでtanθを減じ続ける。

「コウヘイは背が高いからも少し下がってよ」
「なぜ俺を嫌う」
「そうじゃなくって、影の身長を合わせたいの」
「めんどー」
「時間がないから急いで! あ、傘はも少し前に突き出して、そうそう、いや違う!  だから私に直接くっつかないで」

身長差のある影二人をバランス良く並べるために、コウヘイには後ろに下がってもらった。

「あ、いい感じ。ストップ」
「へいへい」

すると意思をちらつかせてコウヘイの影は、私の影にほんのりと接近中。

「見て見て! コウヘイ! 影の二人がついに相合傘」

影には主から独立した意思がある。わずかだけど少し、また少しずつ丈を伸ばして、ただ私たちを真似るだけの影に還る前に。
私は彼らに、叶わなかった現象を一年越しに叶えてあげたかった。

明日からの予報は雨の確率100%。
姿を隠した影たちの本意は、ここかしこで浮遊することだろう。間に合ってよかった。

「帰ろ」

気が済んだし、自転車も引っ張り出さないとね。
あ、先生。
校舎を見上げて数学教官室の笠井先生に手を振ろうとして、傘をさしたコウヘイが遮った。

「コウヘイごめん。その傘、玄関に返しといてくれる?」

雨が降ると姿が消えるから、影たちって相合傘できないんだよね。
よかったよかった。

生身のコウヘイは私に向けて傘を傾げた。

「なあに? 今日は雨、降らないよ? 確か10%くらい」
「いや、100%降る」

ずいぶんと自信のある言い方だ。
すると嘘みたいに影絵の世界で見た、影になり損ねて透き通ったあのガラス玉が落ちてくる。
小粒のシャワーは園芸部員のホースで水撒きボランティアだ。

「わざわざこっち目がけて、何やってくれちゃってんのよ」

コウヘイは私が濡れないように傘を傾げた。
そうしてなぜかそっぽを向いたので、私は二つの影に視線を落とす。

相合傘の気分はいかが?

目の前のコウヘイの影は、私の影に鼻の頭を寄せている。
でもどことなく笑いをこらえて肩を揺すっているようにも見える。

「とにかく影が楽しそうでよかったわ。コウヘイは一年前の現象を光の屈折って言ったけど」
「いや? 屈折したヒカリの精神を言ったつもり」
「本音は? 本音じゃどう思う?」
「あの日新型中性子爆弾が落ちたって、ネットで密かに噂になってるよ」
「言うなあ。だったら今の私たちは? ちゃんと生きてる?」
「さあ? 今度本当の雨が降ったら、俺たちも相合傘してみっか」
「ねえ、コウヘイ」
「何」
「実は私のこと、好きなの?」
「うっせ 」

コウヘイは傘を置いて体育館へ逃げて行った。
なあんだ、騙された。日照角度45°は今からが本番じゃないか。

コウヘイの後を追う背の高い影がたった今スレイブを返上して、私と私の影に大きく手を振ってくれてる。




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