【岩手県雫石町】岩手を代表する観光地「小岩井農場まきば園」で五感で自然と歴史に触れる
おそらくこの記事をご覧の皆さんの近所のスーパーの乳製品売り場にも、小岩井乳業の商品が並んでいることだろう。
中でもチーズやヨーグルト、そして発酵バターは他の大手メーカーと比較すると少しお値段は張るがその価格分以上に品質も良く自分も大好きだ。
さて、岩手県雫石町にある小岩井農場まきば園は、そんな小岩井乳業の牧場の一部などが見学できる観光農場だ。
驚くべきはその面積、観光エリアであるまきば園だけで40ヘクタール。東京ドームならば8.5個分、大体USJと大体同じ広さである。
更に小岩井農場全体ともなるとその面積は3000ヘクタールにもなる。
東京ならば大体中央区 (1018ヘクタール)と港区 (2034ヘクタール)を合わせたほどの面積。
大阪ならば北区 (1034ヘクタール)と中央区 (887ヘクタール)と西区 (521ヘクタール)と天王寺区 (484ヘクタール)を合わせたほどの面積である。
銀座や日本橋、六本木ヒルズや東京タワーが消滅して全部が農場になっているところを想像して欲しい。それが小岩井農場である。
なおこの手の比較でよく出てくるバチカン市国 (最小の国、40ヘクタール)やモナコ (2番目に小さな国、200ヘクタール)の面積を軽く飛び越え、ナウル (3番目に小さな国、2100ヘクタール)やツバル(4番目に小さな国、2600ヘクタール)よりも大きい。
県としては最大の面積を持つ岩手県らしいスケール感であり、岩手県で盛んな畜産業を代表する地であり、更には岩手県を象徴する名峰である岩手山とも程近い。まさに岩手県を代表する観光地と言えるだろう。
また現在、小岩井農場内にグランピングなどが楽しめる宿泊施設が計画中であり2025年中の完成を目標としているとのことだ。
小岩井農場は面積の広さのみならずその歴史も深く、その始まりは1891年と今から130年以上前にも遡る。当時の最新鋭の技術で作られた明治時代に作られた施設も数多く残っており、ドラマなどのロケ地となった場所はもちろんのこと国指定重要文化財となっている数々の建物も目玉だ。
因みにまきば園は駐車場がある東側と道路を挟んだ向かいにある西側に分かれており、重要文化財は大体西側に集中している。
園内はとにかく広く、最初に目に入るのは広大な芝生だ。動物のとふれあいは勿論のこと、様々なアクティビティを園内では楽しむことができる。
そして勿論ここは小岩井乳業の施設。有名なソフトクリームは勿論のこと、乳製品は勿論のこと小麦粉まで小岩井農場産にこだわったピザや牛乳を使ったまきばのラーメンなどグルメも盛りだくさんだ。
しかしまずはこの小岩井農場の歴史や文化財などについて学びたい。少なくとも自分はそうだ。入り口から入って右手に進むとある施設、小岩井農場重要文化財ギャラリーではこの農場の沿革などが開設されている。
ご存知の方も多いかもしれないが、小岩井の名は地名ではなく創業者である小野義眞と岩崎彌之助、そして井上勝の苗字から1文字ずつとったことに由来している。
発起人となったのは鉄道庁長官であった井上勝。東北線の施設の為にこの地を訪れた彼は、当時は荒野であったこの地を開墾して大規模な農場を建設しようと決めたのだという。
当時は凄まじい速度で近代化が進んでいた時代。井上は鉄道で日本の交通網の発展に尽力した一方でその建設のためにに多くの田畑が失われていることも目の当たりにしており、自身が消し去ってしまった農地を再び取り戻したかったからこそ後の小岩井農場の開墾に尽力したとも言われている。
しかし彼1人ではこの広さの土地を開墾するほどの資金はない。そこで彼は知人であった日本鉄道会社の当時副社長であった小野義眞の協力を扇ぎ、更に彼を通じて三菱の社長であった岩崎彌之助とも知り合って意気投合し、3人が中心となることで小岩井農場の歴史は始まった。
現在こそ緑豊かな小岩井農場周辺であるが、当時この地は吹きさらしの風と酸性の強い火山灰に覆われており、木が生えていないような場所であった。その為、農地以前にまず行われたのは防風林を作るためのスギやマツ類などを植林や土壌の改良であったという。
しかしこの地の開墾に苦労したことに加えて彼らは農業のノウハウを十分に有しているとはいえず、小岩井農場の経営は非常に難航した。更に鉄道の発展目まぐるしいこの時代、発起人であった井上は鉄道庁退官後も汽車の製造に携わるなど日本の鉄道の発展のために尽力しており、この多忙もあって小岩井農場の経営は井上から岩崎家へと託された。
(井上は最期、鉄道の視察の為にロンドンを訪れていた最中に持病の腎臓病が悪化し命を落としたという。人生をかけて日本の鉄道の発展に寄与した彼は後に日本の鉄道の父と称されることとなった)
転換期となったのは岩崎彌之助の甥である岩崎久弥が社長に就任したことだった。農牧に造詣の深かった彼は家畜の育種改良に本格的に着手し、国外から輸入した種牛を元に品種改良を行うと共に優出な血統の牛を日本全国に販売し、小岩井農場のみならず日本の酪農を大きく発展させた。
更に井上らの尽力により発展した日本の交通網は流通も大きく進化させた。久弥が社長になった後に小岩井農場の牛乳の市販が始まり、更に可能技術を確立させてバターやチーズの販売も開始。かくして小岩井農場は日本の酪農をリードする存在となったという。
こういった経緯もあり、小岩井農牧株式会社は現在も三菱グループを構成する企業の1つだ。さらにこの会社は畜産や林業に加えて植栽事業も行っており、三菱関係のビルの植栽は小岩井農牧株式会社が行なっていることが多いらしい。
そんな自社に植栽部門を有する企業の運営する観光牧場ということもあり、牧場内の植栽は実に見事だ。
四季折々の草花が自然な雰囲気を保ちつつも美しく手入れされている様は、まさにこの企業のノウハウのデモンストレーションだ。牧場を訪れた際は是非こちらも注目してほしい。
そして当時ヨーロッパの技術を盛んに取り入れて作られた各種施設の中には、現在も現役のものが数多い。
因みに農学校の教師であった宮沢賢治は幾度となく小岩井農場を訪れており、生前に出版した詩集である『春と修羅』の中にはそのタイトルもずばり『小岩井農場』という詩が収録されている。
余談ながら、更にこの詩は以前音楽ナタリーによる米津玄師氏へのインタビューの際、彼の人生に大きく影響を与えたとも言及されている。
数多くの苦難を乗り越えた先にある小岩井農場。
青空から照り付ける太陽の残暑に思わず汗ばみながらも、秋風が涼しいこの日。遠くから響く子供達の笑い声を聞き、草木の爽やかな香りを吸い込みながら歩いていると「天国や極楽ってこういうところなのかな」と思わず考えてしまった。
さて、ここ小岩井農場では各種ガイドツアーも行っている。中でも夏季期間に行われるファームトラクターライドは、トラクターの牽引する客車に乗りツアー時以外は立ち入り禁止の100年の森エリアを中心にガイドの方の解説を聞きながら観光ができるツアーである。
ツアー自体は別料金ではあるが、小岩井農場を訪れた人は是非参加して欲しいツアーだ。実際に降りて散策できる場所もあるが基本的には車に乗ったままなので、小さな子供や高齢者連れのグループにもおすすめだ。
ツアーを楽しんだ後は、いよいよ重要文化財が立ち並ぶ牧場園の西側、上丸牛舎へと向かう。
牛舎に入ると、まずは何より臭くないことに驚く。
もちろん全く無臭というわけではなく、牛そのものの臭いはするのだが、牛糞の匂いがほとんどしない。少なくとも、明らかに夏の牛舎の中の匂いではない。絶対に肥料を漉き込んでいる最中の植え付けシーズンの畑の方が臭い。
余りにも臭いがしないのでてっきり見学スペースと牛舎の間に分厚いガラスが嵌められているものだと思っていたのだが、立ち入れないように腰のあたりに仕切りがあるだけで牛舎内と見学スペースを遮るものすらなくて驚いた。
当然きちんと掃除が行き届いた環境ということなのだろうが、この建物は100年以上前に建てられた木造建築である。
たまたまこの時だけ綺麗だった、という代物ではなく長きにわたり環境が整えられていたからこその賜物だろう。というかあまりにも今更ながら、普通この時期に牛舎の近くを通ると直接その姿が見えなくても「近くに牛舎があるな」と分かるような臭いがするものだと思っていたのだが、観光牧場ということを抜きにしてもこの辺りはそういった臭いがあまりない。
小岩井の乳製品の美味しさの理由の一端が垣間見えた気がした。
そして入って奥に見えるのは小岩井農場展示資料館。勿論こちらも中を見学できる。
そしてここ上丸地区の奥には宮沢賢治の詩碑がある。
さて、園内の各種ショップでは小岩井農場で作られているお馴染みの様々な商品や木材を利用した土産物、そして岩手県各地の土産物はもちろん様々なグルメも楽しめるのは前述した通りだ。
最後に中でもおすすめのソフトクリームと園内限定で飲むことのできる (販売していないのは勿論のこと土産として持ち帰ることもできない)、上丸牛舎の牛から採れた乳だけを使用した低温殺菌牛乳農場育ちを紹介して締めくくろう。
小岩井農場といえば夏をイメージする方も多いだろうが、冬のシーズンも様々な季節に応じたアクティビティが楽しめる。
四季折々の自然と歴史ある農場を楽しめる小岩井農場。岩手県を訪れる人にはぜひ楽しんでほしいスポットだ。