【青森県田舎館村】元祖田んぼアートと東北の弥生文化の意外な関係
水田に色の違う複数品種の稲を植えて絵を作り出す田んぼアート。
今でこそ全国各地どころか海外でも行われている田んぼアートだが、その発祥は青森県にある田舎館村とされている。
田舎館村は津軽平野の南部に位置し、弘前市に隣接する小さな村だ。
1993年に村おこしの一環として、村役場の裏の田んぼに3種類の稲を用いて文字やイラストを作ったのが始まりだという。
6月に植えられた稲は10月に収穫されるまで、水田を巨大なキャンパスとしての巨大な絵画を作り出す。
今回は昨年2023年度の公開終わり際に田舎館村に行き、実際に田んぼアートを見てきた時の記録だ。
田んぼアートは例年、当初から行われている田舎館村役場の裏手にある第1会場と、道の駅いなかだて弥生の里近くの第2会場という2つの会場で行われる。
まず向かったのは第1会場。
しかし現地に行ってみると、そこにあるのは一見したところ集落の中にある小さめな田んぼにしか見えない。
とてもこれが絵になっているとは思えないのだが、本当にこれが田んぼアートなのだろうか。
田んぼアートの見頃は一般的には7月ごろとされている。もしや、稲が成熟しもう絵としては崩壊しているのではないだろうか。或いは場所を間違えたのだろうか。
不安を覚えるが、すぐ後ろには確かに田舎館村役場がある。とりあえずここに登ってみよう。
エレベーターを使って眼下に広がっていた景色は……
おおおお!
これはまさしく田んぼアートだ!
展望台を降りた後は、過去の田んぼアート作品や制作過程についての展示も見られる。
以上が役場近くにある第1会場。
続けて向かう先は田舎館村の郊外にある弥生の里だ。
弥生の里には、田んぼアートの第2会場のほか、道の駅いなかだて弥生の里やレストランジャイゴ、JRAウィンズ津軽などが併設されている。
そして何より青森県第3の都市弘前市と上北地方の中心都市である十和田市を結ぶバイパスである国道103号線沿いにある。津軽地方と南部地方を重要な道路沿いというのもあってか、田んぼアートの季節以外も多くの車で賑わっている場所だ。
また、すぐ近くには弘南鉄道の田んぼアート駅もあり、自家用車無しでも比較的アクセスしやすいのが嬉しい。
エレベーターを使って登ってみるとそこには、第1会場よりも更に巨大な田んぼアートがあった。
ところでなぜ田んぼアートがここ青森県の田舎館村でスタートしたのだろうか。実は最初のきっかけは、この第2会場のすぐ近くにある。
契機となったのは垂柳遺跡という2100年ほど前のものとされている遺跡だ。1981年、国道103号拡張工事の際にこの遺跡が見つかったことから田んぼアートの歴史は始まった。
発掘された出土品の数々は、道の駅のすぐ裏手にある田舎館村埋蔵文化センター内で保管・展示がされている。
田舎館村埋蔵文化センターは、田舎館村博物館に併設している展示施設だ。
入ってすぐに目に入るのは、ガラス板の下に展示された弥生時代の田んぼと当時の人々の足跡だ。
この発見は当時の東北地方の日本史を大きく揺るがすものとなった。
現代でこそ、米は北東北でも当たり前に栽培されている。
秋田県は言わずと知れた米所であるし、青森県から岩手県にかけて伝わるえんぶりは稲作と非常に関わりが深い文化だ。
しかし稲は中国の南部からラオス、ビルマあたりの熱帯地域が原産と言われている、本来は暖かい気候を好む作物だ。寒冷な東北地方で稲作は行えなかったとされ、東北地方は他の地域と異なり長い期間狩猟採集生活に頼り続けていて弥生時代が存在しなかったとさえ言われていたという。
後の1992年に青森市で見つかった三内丸山遺跡の調査により、そもそも農業やそれに近しいことは縄文時代から少なくとも東北地方には存在していたことが現代でこそわかっている。
しかしこの垂柳遺跡の発見はこれまでにあった「大陸の文化を早くから受け入れ発展した西日本に対して、スタート地点から文化的に大きく遅れていた東北地方」という観点を、大きく覆すきっかけとなったという。
もちろん「早くから稲作や農業が行われていたから文化的に優れている」だとかそもそもの「優れた文化」という考え方自体が現代の我々の感覚からすると非常にナンセンスに感じるが、1988年に当時のサントリー社長が起こした東北熊襲発言問題とその反応などを見るに、そういった感覚が当時の人々に根強かったことが垣間見える。このような当時の背景や感覚も、1970年代から1980年代にかけて巻き起こった東日流外三郡誌騒動の遠因にもなったのだろう。
(東日流外三郡誌についての記事もそのうち書きたいと思っているが、現在自分が調べている範囲だと下記ルポタージュの紹介と引用だけで終わってしまいそうなので、書籍の紹介にとどめておく)
しかし気になるのは、なぜこれほどまでに立派な畑が形を保ったまま放棄されてしまったのかだ。
学芸員の方曰く、上の方にあった層からして河川の氾濫により田んぼが埋まってしまった可能性が高いという。
津軽平野を流れる岩木川は、昭和から平成にかけての近年でも幾度となく氾濫を繰り返してきた。最近でも岩木川の氾濫にまでは至らなかったものの、2022年の豪雨では津軽平野は甚大な被害を受けた。
的確な避難指示と住民の迅速な避難により、幸いにも津軽地方では死傷者を1人として出すことはなかったものの、その爪痕は実に大きかった。
肥料をはじめとした農業技術など未発展だった時代における氾濫は、それが肥沃な土をもたらすという側面もあった。しかし土木技術や天気の正確な予報といった様々な科学発展した現在ですら、水害が起これば容易く住居や農地は破壊され、時には人命さえも奪われてしまう。
この足跡を残した人々は、氾濫の後どうなったのだろうか。無事に命を繋いだと思いたい。生活していた場所からして、なんなら今の自分や知り合いの誰か先祖の1人になった可能性もあるのだから。
さて、話が大幅に逸れてしまったが田んぼアートの話に戻ろう。
田んぼアートはこの垂柳遺跡をきっかけに、弥生時代から続く稲作の地として田舎館村を盛り上げようとしていく過程で集まった色とりどりの古代米を使った町おこしという目的で生まれたものなのだという。
当初こそほとんど注目されていなかった田んぼアートだが、継続していくうちに技術も洗練されていき徐々に注目を集めるようになり、ついには日本各地のみならず海外でまで行われるようになっていった。
近年はコロナ禍もあり一時ほどの人入りはないとのことだが、それでも津軽平野を彩る田んぼアートは、青森の夏の風物詩としての地位を確固たるものにしている。
2024年の田んぼアートのテーマは、第1会場が「神奈川沖浪裏と北里柴三郎」。第2会場は今年4月7日から放送中の青森県弘前市と青森県平川市を舞台にしたTVアニメ「じいさんばあさん若返る」だ。
観覧期間は第1会場は来週の6月3日 (月)から、第2会場は6月15日 (土)からで、共に10月14日 (月祝)までを予定している。
ただし、見頃となるのは例年7月の半ばから8月の半ばともう少しだけ先だ。
是非一度は田舎館村を訪れて、2千年以上もの間津軽平野に生き続けている稲作文化の最新の姿と弥生時代の姿、その両方を目と心に焼き付けてほしい。
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