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ヘルプマークの件を整理しておきたい (3)今後の付き合い方

私の見解をまとめる。

  1. 椎名林檎は"余生モード"に入った気のゆるみから、深く考えず軽率にヘルプマークを模したグッズを作り世に発表してしまう。(本人は関与)

  2. 体の弱い人達に不安を与えておきながらダンマリを決め込み、立場の弱い者に罪(過失)を着せて逃げた。

  3. 公式発表との辻褄を合わせる為、その後のツアーでは予定していた赤十字などの医療イメージを排し、間に合わせの即席モチーフで穴埋めをした。

  4. ツアー中発表した新曲の中に本件への言及を混ぜ込んだ。それは謝罪や懺悔ではなく自己弁護・自己正当化の言葉だった。

詳細はこちら
(1) 本人関与の是非
(2) 私の反応/新曲を読む/失態の原因

これを前提に今後の付き合い方を考えていく。

普通に聴けなくなった曲

騒動後、林檎や事変の曲をかけるとき頭の片隅で自分の反応を観察していた。ながら聴きをしていてもどうしても歌詞に引っ掛かってしまう曲がいくつかあった。ちゃんと言語化してみたい。

僕は透明人間さ きっと透けてしまう 同じひとには判る

あなたが笑ったり飛んだり大きく驚いたとき
透き通る気持ちでちゃんと応えたいのさ

『透明人間』

透明かなぁ。よく見えないんですが。大きく驚いたけど透き通る気持ちでちゃんと応えてもらってない気がするんですが。

手を繋いで居て 喜びで一杯の球体を探り直して
この結び目が世界に溢れたら
ただ同じときに遭えた幸運を繋ぎたいだけ
この結び目で世界を護るのさ

『夢のあと』

繋いだ手、離しましたよね?結び目、解きましたよね?世界ではなく自分を護りましたよね?

僕らが手にしている富は見えないよ

彼らが手にしている富は買えるんだ

もしも彼らが君の何かを盗んだとして
それはくだらないものだよ
返して貰うまでもない筈
何故なら価値は生命に従って付いてる
ほらね君には富が溢れている

『ありあまる富』

この歌の"彼ら"に、あなたあの時なってませんでした?買える、くだらない富に夢中になるあまり、"僕ら"の見えない富を損なおうとしませんでした?

ぺてんのない世の中を直ぐに作んなくちゃ
そう願わくばいっそ老いも若いも多弁であれ

自由という名の富買い叩いて奪い合う尊厳
-樹立しよう 簡素な真人間に救いある新型社会
次世代へただ真っ当に生きろと言い放てる時

『緑酒』

ペテンしてたし、ダンマリでしたからね。多弁であって欲しかったです。
この歌のメインテーマは自由への渇望だが、「尊厳」「真人間」「真っ当に生きろ」などの言葉が引っ掛かる。あなたが使える言葉なんですかと。その新型社会の樹立、阻害してませんでしたか?

身一つ真相を説いて明々朗々と
大丈夫勝敗も相子も何方でも呷って再び甦れ
己次第の命だと

昨日の傷も恥も詳しく見たい
だって審判を下す役は自分自身
さあ今日を明日を世界を僕は誓って諦めない
誰一人残さずに 信じたいもっと尊厳の値打ちを

『原罪と福音』

明々朗々と真相を説明してもらいたかったです。結果はどうあれ誠意を示せば再び甦れたと思いますよ。己の恥を詳しく見て適切な審判を下せたんでしょうか?そのセルフ審判甘すぎませんか?
あなたは世界を諦めない?ようですが、私はあなたの(非を認めて素直に謝る)"真っ当"さに関してはもう諦めましたが。
誰一人残さずに、ですか。置いてけぼりにされた我々ファンの一部は去りましたが。あなたが信じたい"尊厳の値打ち"は親族や同業者など視界に入る範囲だけですか?その"世界"には視界の外の"他者"もいるんでしょうか?

裏面はこうなってるの知ってましたか?

すごい辛辣。思いのほか溜まっていたようだ。過去に書かれたものに今ツッコんでもとは思うが、こういう"道徳ソング・善人ソング"には「お前が言うな」が発動しちゃって、普通に聴けなかった。

弱き者の生命を脅かした罪をまた別の弱き者に着せて逃げた林檎に、倫理道徳や人の尊厳、生命の価値を説く資格はもう無い、と思ってしまって。いい人ぶられても白けるだけだ。

ここで考えておきたいのが"作家と作品は切り離すべき"論についてだ。最近だと小山田圭吾や山下達郎など、作家の反社会性が明るみになったとき必ずと言っていいほど見られる意見だ。

(いーや切り離せないという方は次の項は飛ばしてもらって大丈夫です、長いので)

"作家と作品は切り離すべき"について

この主張には概ね同意で、配信・販売の停止などは過剰な措置だと思う。基本切り離して受け取るよう努めてるが、"べき"と言われても作品鑑賞に向かわせるのは感情、心であり、どうしてもその大義には従えない場合がある。
研究者ならまだしも、いち鑑賞者が嫌悪感を抑え無理をしてまで作品に触れる必要はないだろう。

それは「ジャンルによって関係が異なる」と考えています。(中略)すべての表現の制作者に対して、一律に同じ判断基準を適用するのは乱暴だし非現実的です。純文学の作家に求めるべきことと、ポップミュージシャンに求めるべきことは違っていいし、それはべつにジャンル差別でもなんでもありません。(東浩紀)

【 #ゲンロン友の声|014 】作品と作者の関係をどのように捉えればいいでしょうか?

私はこれと同意見なので、音楽の中でもさらに"歌"に絞って考えてみる。

歌の特殊性

東氏の回答に「非言語系エンタメである音楽は切り離すべき/耳の快楽、目の快楽は道徳や政治ではひっくりかえらない」「言語の魅力は道徳や政治と切り離せない」とあったが、歌は思想が言葉となって入り込む、言語系エンタメと融合した表現形式だ。「音楽=切り離しやすい/言語=切り離しにくい」の相反する性質が混ざっている。

この1年の自分を思い返すと、耳の快楽を求める自分と道徳的に抵抗する自分の葛藤状態が生まれた結果、抵抗(切り離せない)へ傾くことが多かった。
林檎も「皆さん音楽じゃなくて歌を聴いてる。歌が入るとぜんぶ丼ものになっちゃう」と話していたが、多様な音が鳴っていても歌が入るとどうしてもその声と言葉に大部分の意識が持っていかれてしまう。人の出す声は他のどの音より強く心に作用するのだと思う。

とは言っても、歌の中でも切り離せるものもある。それはどんな場合か?いくつかの事例を基に考えてみたら、私の中に2つの判断基準がありそうだった。

1. 作家が演者か否か

上に挙げた曲が提供曲で、他の人の口で歌われたらまだ普通に聴けるかもしれない。しかし作詞者本人が自分の口で情感たっぷりに言葉を発するとなるとあまりに直接的で、歌い手(作家)の人格と完全に切り離して受け取ることは難しい。

二股男が歌う「♪他の人は目に入らないー!永遠にあなただけをー!」、いじめっ子が歌う「♪暴力はやめてー!人に優しくー!」…耳に入った瞬間お前が言うなと脊髄反射してしまう。

おまいう界代表

林檎は(私の中で)これに陥っている。いくら「これはフィクションです、私個人とは関係ないんです、曲に合う言葉を乗せたんです、職人仕事なんです」とエクスキューズされても、本人が歌うなら私には無理だ。言葉が入ってこない。乗れない。

感じているより考えているより からだがはやい

『乗り気』

声で意思を伝える、というのは動物にも見られる原始的な意思伝達手段なので、この拒絶は一種の動物的な本能行動なのかもしれない。

シンガーソングライターの真のハードさはここにあるなと思う。言行不一致は死活問題。少なくとも表に出る情報の上では作品と自分を一致させていないと説得力も求心力も生まれない。

2. 生者か否か

切り離しにくいジャンルなのに切り離せた事例として文筆家を挙げる。
『社会契約論』で有名なフランスの哲学者ルソーは『エミール』という教育論の本を書いており、現在でも教育界においては必読書とされ、ルソーは"教育学の祖"とまで呼ばれている。

しかし現実のルソーは品行方正とはほど遠く、愛人との間に5人も子供を作っては次々と捨てたり、婦女子の前で尻を出して現れたりする人間だった。「こうすれば彼女たちにお尻を叩いてもらえるかなって…」なんて釈明してる。

変態紳士に見えはじめる

私はこの言行不一致の代表例みたいな話を聞いても、やや失笑しながら"偉人の逸話"だとか"天才故の破天荒な生き様"としてさらっと受け取り「まぁそういう突飛な所のある人じゃないと偉業は成し遂げられないものだよね」とお定まりな納得をするだけで、強い嫌悪感などは持たなかった。

これが同時代に生きる人で【 昨年出した教育本が100万部突破の人気作家ルソー、公然わいせつ罪で逮捕「尻を叩いてほしくて」】【 愛人との子を次々捨てた衝撃の過去発覚 】などと報じられたら「そんな人に教育語る資格ない、そんな人の本を教育現場で使うべきじゃない」と拒否反応を示すだろう。

横山光輝『史記』第2巻より

私は「死んだからって罪は消えない」派の人間で、渦中の人物が亡くなった途端 "死人に口なし" を合言葉に非難の声をピタリと止める風潮には毎度辟易しているが、こうやって自分を観察してみると、私にも死んだ人、の中でもひとかどの人物とされる人のことは大目に見る傾向はあるようだった。

没後の歳月も大きいだろう。反社会性の度合いとその人への愛好度にもよるが、亡くなって5年10年ではまだまだ切り離せない気がする。50年も経てば時代のせいにも出来始める。
私が2073年の若者で50年前のレジェンド・椎名林檎の歌にあるとき魅了され、どんな人か調べるうちに本件を知ったとしても、支障なく聴き続けられただろう。

今更どうしようもない、変化など諦めるしかない対象である死者と違い、細胞が絶えず入れ替わる生者は変わる可能性(希望)を原理的に保持し続ける。椎名林檎は謝れと言われ謝る人ではないと思いながらも、その原理に駆動され、変化を期待するからこそ怒り、捨てられない希望によってモヤモヤを引きずっていた、とも考えられる。

以上2つの判断基準から「椎名林檎は存命のシンガーソングライターなので作品とは切り離せない」と私の心は結論付けたらしかった。
かっこ付けた歌はかっこよく生きていないとかっこ付かない、それを実感する事件でもあった。

仕方のない姉

騒動後のライブの最後の曲は『ありあまる富』だった。いいこと言って〆る、なんて振る舞いがまだ成立すると思っているようだ。その後の新曲は前述のとおり歪な自己愛に満ちていた。

これは前々から薄ら感じていたことではあるが、椎名林檎という人は自身の加害を被害へとねじ曲げ不当な恨みを溜め込みがちな人、自己欺瞞が上手で、被害妄想が強めな人ではないか。怒りや嘆きにまみれた曲がやたらと多いのも納得してしまう。

こんな発言もあった。

話が閉じようとした時、それにしてもと前置いて、彼女がこちらに向かって言った。
「よくそんなにちゃんと覚えていらっしゃいますよね、私が以前インタビューで話したことなんて。私は過去のことなんてもう忘れちゃった。どんどん忘れないと続けられませよ、この稼業は。」
それはけだし名言とこちらが返すと、同業者は皆同じことおっしゃいますよと更に返して、最後に彼女はこう付け加えた。
「自分がやったことは忘れちゃうの。でも人からやられたことは忘れません。」

SWITCH Vol.32 No.11 椎名林檎[音楽家の逆襲]2014.10

"自分がやったことは忘れるが人からやられたことは覚えてる" 誰にでも大なり小なりある性質だが、文脈から微妙にズレるのにわざわざこんな言葉を付け加えるのは、人一倍その傾向が強いと自覚し、尚且つそこに反省がないからだろう。
ねじ曲げるだけでなく、加害を自覚したとしてもさっさと忘れてしまう人でもありそうだ。

前回林檎を姉に例えたが、本件を経て、"かっこいい姉"であった林檎はちょっと残念なところのある"仕方のない姉"に変わってしまった。

被害妄想強めで自身の加害は忘れっぽい林檎姉さんは、自分が仕出かしたことも正しく認知しないまま、またはさっさと忘れて、上記の"いい歌"を平然と歌い続けるだろうし、インタビューで愛や優しさについて能弁に語るだろう。

Wedge 2023.1 椎名林檎インタビュー

そんな場面に立ち会うことがあれば、腐れ縁の仕方のない姉を生暖かく見守るように「ああまた性懲りもなく、自分のことを棚に上げて気持ち良く酔っぱらってんなぁ、やれやれ」といった具合にその時間を適当にやり過ごそうと思う。

先日の棚上げタイムの様子

かくいう私も至らない所の多い人間なので「やれやれ」でやり過ごしていただいた事は何度もあったと思う。だから、家族ほどに親しみのある相手なのであれば「やれやれ」で出来る限り許容していきたい気持ちはある。

引っ掛かる曲とどう付き合うか

林檎姉さんの仕方のなさを許容することに決めたら、あとは引っ掛かる曲とどう付き合っていくかだ。

幸いにも私は上記の道徳系ソングはサウンド的にも元々そんなに好きではなかった。リストから外すことにためらいは無い。アルバムを通して聴く椎名林檎ならではの豊かさを失うのは惜しいが、今は基本シャッフルなので私個人のリスナー生活にそこまで支障はない。

もしライブに行くことがあればそれらの曲は休憩時間にすればよい。感受性をOFFにしスッと席に座りレーザー光に照らされるスモークでもぼんやり眺めて過ごす。

みんな大好き『ありあまる富』

少々やっかいなのが、それらの曲を好きなファンが多いことだ。本人も気に入ってたりするし、代表曲扱いにもなってるそれらを避けてファン活動を続けるのはなかなか困難ではある。

ファンが集うとあるバーで、その場にいた過半数が1番好きな曲に『ありあまる富』を挙げ驚いたことがあった。え林檎の1番がソレなの??その成分は他の人からいくらでも摂取できない??と腹の底からクエスチョンが浮かんだ。怖い不良が捨て猫ひろう姿にグッときた的な一種のギャップ萌えか…?

判然としないが、それらの曲はライブでも"待ってました"のテンションになるし、ファン仲間とカラオケに行けば誰かが必ずエモく歌い、下手すりゃ大合唱。(みんないい子ね…)

外と接触した際のこのギャップに今後一層戸惑いそうではあるが、障害物リレーほどの過酷さは感じてない。
詞には引っ掛かっても声とサウンドが好みであることに変わりはないし、そもそも林檎の詞は分かりにくい。熟語を多用したリズム重視の譜割りで情報密度も高いので、言葉の意味がスッと入ってこない歌が多い。(『緑酒』が顕著だ)

なのであまり詞は意識せず「あーなんかこれ好きかも―♪」的軽やかさで言葉の分からない国の音楽を聴くように曖昧に身を委ねれば周りに合わせて乗ることは難しくない。感動はしないが楽しくは過ごせる。(なのでカラオケでも遠慮なく歌ってくださいね)
ああ、歌が言葉だけで出来ていなくて良かった。

5月にTVでもコレを。紅白もコレ説が我が家では濃厚。今こそ『罪と罰』では?

歌のテーマを括弧に入れる

そうは言っても毎度毎度感受性と言語能力を無理に抑制してたら神経症になりそうだ。何かブレイクスルーは…と考えていたら前述の"棚上げタイム"にピンときた。

林檎の"煩悩"系の曲(つまり大体の曲)は今でも普通に聴けていた。醜態晒して終わった人が醜態を表現するのは何の矛盾もない。
『人生は夢だらけ』や『うるうるうるう』もいいこと言ってる風で道徳系と同じ響きはするが、よくよく聞けば林檎個人の明け透けな欲望や衝動をストレートに叫んでるだけの我欲ソングだ。こういう等身大の率直な歌なら聴けた。
なので、キレイぶった仰々しい歌も、卑近な煩悩の歌へと変換してしまえばいい。"いい歌"を"いいこと言いたい人の歌"へと。

『透明人間』…
あれこれ隠して説明責任から逃げながらも「私って不器用だから隠し事とかできないんだよね。あなたが驚いた時は透き通る気持ちでちゃんと応えるよ。私は清らかな心を持った真摯な人間なの」と思いたがる煩悩の歌

『ありあまる富』…
GUCCIを買い漁り毎日違う服を愉しむ生活を送り、生命を脅かした罪から逃げ、ファンを幻滅させ(人の好きなものを奪い)ながらも「物質的豊かさなんてくだらない。そんなものに大した価値はないの。あなたにはその命と、好きなものがあるじゃない。それこそが価値ある富なの。あなたは何も失っていないよ」とお説教してみたくなる煩悩の歌

というように括弧に入れ、すべて煩悩化する。「いいこと歌って(お経を読んで)世を浄化したい、人を救いたい」というのも一種の傲慢といえば傲慢で、自分を棚上げして熱唱するなんて煩悩でしかない。"道徳ソング"は"棚上げ煩悩ソング"へ変換していく。

若干アクロバティックな解決法ではあるが、こうやってメタ化して受け取れば、これまでとは違ったビターな味わいの曲として嗜むことはできそうだ。ライブでも、人の愚かさを直接テーマとした曲よりよほど生々しく、今そこで荒ぶる煩悩を感じられるはずだ。活きのいい煩悩の踊り食いを楽しもう。

アルバムを通して聴くこともなんとか出来そうだ。機能抑制とテーマ変換の2つの対処法で上手にやりくりしていきたい。

決着

林檎もハマったドラマの台詞が沁みる。

絶対なんてないんです。人生ってまさかなことが起きるし、起きたことはもう元に戻らないんです。レモンかけちゃった唐揚げみたいに。

TBSドラマ『カルテット』

蓋を開けて向き合ってはみたが、騒動前のように普通に嗜めるようにはなれそうになかった。しかし、何か心身を蝕むものが滞留している感覚はもう無い。濃厚な怨念がライトな毒づきとポップな茶化し程度に薄まった感じ。
毒は薄めれば薬にもなる。これを書くようになってから不思議と聴くことも増えた。

今後の林檎の出方で変わるかもしれないが、私が林檎に求めるのはとりあえず"三毒"だけになる。"煩悩に振り回され続ける、業の深い人、椎名林檎" このイメージだけあればいい。
清らかな水は山の仙人・宇多田ヒカルから摂取するので、林檎は俗世の三毒作家として過酷な社会や人間のみっともなさを活写してくれたらいいです。その筆致には変わらず魅了され続けると思います。

いろんな意味でこれが到達点(最終回答)だったらしい

前回私はFanaticではないと書いたが、今振り返ってみると端から見れば信者にしか見えないほど熱心だったなと思う。全肯定はしないがゼロ距離ではあった。
これまでは林檎の人柄やキャラクターも含めた愛好家だったが、今後は作品愛好家として付かず離れずのヘルシーな距離感で付き合って行けそうな気がする。「ああそういえば」も今は「適度」と思える。
まぁ、すこし寂しさはあるが。

悲しみも携えて生きていこう

『21世紀宇宙の子』

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