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島津の退き口

「命、捨てがまるは今ぞ!」
 豊久様の声が響き渡る。茂みに隠れた兵子らの士気も上がる。
 私はその茂みに隠れる1人に過ぎない。
 上様が薩摩に辿り着けば、我々の勝利。
 それでも上様はこう仰られた。

「退くのじゃ! 食い止めなぞいらん! 退いて皆で国へ帰るのじゃ!」

 しかしそれに異を唱え、しんがりを務めたのは豊久様、そして御家老である長寿院盛淳様だった。
「叔父上! お退きあれ! ここはお豊にお任せあれ!」
「殿が1人、薩摩へと戻られたら、おいも兵子も死んだとしても、この戦、島津の勝ちでごわす」
 2人共、上様に1歩も引かずに納得せざる得ない状況を作り出してしまった。
 上様は退く前にこう言った。

「待っておるぞ、皆の衆! 薩摩に必ず戻ってくるのじゃ!」

 私も他の兵子も、皆さぞ喜んだに違いない。これほどまでもありがたい言葉があるだろうか。
 茂みに座禅の様に潜んでいた私は、豊久様の声を聞き逃さなかった。

「よか叔父上を持ったものじゃ。豊久は幸せ者ぞ」

 豊久様にとって、上様は御養父のようなお人。家久様が亡くなられて、育ててくれたのは叔父にあたる上様だ。ここで武士としてひと働きしなければ、家久様に顔向け出来ない。

「ここは武者働きせねばの!」 

 そんな風に思ったのではないだろうか、私はただ茂みに隠れながら、追手の徳川軍を今か今かと待つのみであった。
 直ぐに大軍が押し寄せる、蹄の音が遠くから響き渡ってきた。私は茂みから少し顔を覗かせた。
 あの御旗。赤く染まった旗に井桁紋。
 間違いない。あの赤備え、徳川家臣の井伊の軍だ。
「兵子ども!」
 豊久様の声が響き渡る。
「打ち方構え!」
 私は手にしている種子島を茂みの中で座禅を組みながら構えた。
「よいか! 敵は最強赤備え、徳川井伊軍! 命捨てがまるは今ぞ!」
 おうっ、と響き渡る兵子らの声。
「急くなよ、まだじゃ……」
 馬の蹄の音が徐々に大きくなってくる。直ぐ目の前には赤備えの兵子ども。私の喉が鳴る。
「まだじゃ……まだ打つなよ………」
 豊久様の声はまるで、楽しんでいるかのような、そして勇ましくも聞こえた。
 生唾を飲み込む。私は震えていた。これは恐怖の震えでも何でもない。これから大戦の武者震い。
 堰を切った様に、
「今ぞ、撃て!」
 豊久様が叫んだ。
 私は構えた種子島の引き金を引いた。
 それぞれの茂みから炸裂音が響き渡る。
「第1陣、いけぇ!」
 先頭に隠れていた茂みの中から、兵子らが飛び出し、赤備えの軍に躍りかかった。
 しかし圧倒的な数、圧倒的な兵子らによって次々と討死にしていく。
 構わず私は種子島に玉薬と弾を込める。
「第2陣、突っ込めぇ!」
 豊久様の怒号に似たその合図に、次々と隠れていた兵子らが飛び出していった。
「良か! 兵子らの命、無駄にはせん!」
 散っていく兵子らに向かって、豊久様はそう仰られた。そう言って豊久様も赤備えの軍に単身で向かわれてしまった。
 私は慌てて豊久様の後を追い、茂みに隠れながら様子を伺った。
 薩摩の刀はそう簡単に折れない。豊久様が何人も斬り捨てても、刃毀れなどしない。
「はっ! 他愛なか!」
 豊久様の、吐き捨てる声が聞こえた気がしたその刹那、赤備えの軽装な鎧武者が馬上から現れた。
「おまん、直政か?」
「死兵に教えるはずもない」
「おいは島津中務少輔豊久! 井伊直政とお見受けするが?」
「死兵に教える名などない!」
 あの軽装の鎧武者は、間違いなく『井伊直政』だ。私は慌てて、茂みから馬上の直政に種子島の銃口を向けた。その時には既に引き金を引いていた。
 直政の足に弾が食い込んでいく。そして馬上から落ちていった。
「直政ァ!」
 豊久様がとどめを射すその時に、兵子の1人の横槍が、豊久様の身体を貫いた。
「豊久様!」
 私は隠れていた茂みから飛び出して、豊久様の身体を引きずっていた。兵子らが加勢にやって来る。何とか豊久様を担いでいこうとした時、
「良か……」
 豊久様の声が漏れた。
「おまん、名は?」
 私は名を聞かれて答えた。
「柏木……柏木源藤でごわす………」
「良か働きじゃ………おいをここに置いて、おまんは薩摩へと退け」
「で、出来ませぬ!」
「叔父上に伝えてくれ………」
 私は頭を振ったが、豊久様は許してはくれなかった。
「お豊は幸せもんじゃったと…おいも薩摩へ帰った………そう伝えてくれぃ………」
 そう言って豊久様は動かなくなった。

 私の記憶はそこから先はよく覚えていない。
 しかし薩摩へと戻った際に、上様に豊久様の最後の言葉を伝えると、
「あの阿呆め………」
 そう呟いて、静かに涙した。

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