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「人生は決断の連続」ではない。『あなたは正しい』を読んで決断について考える。

人生は決断の連続である

この言葉をGoogle検索するとシェイクスピアのものとして紹介されていますが、どうやら正しくないようです。
(英語で"who said life is a series of choices? "と検索してもシェイクスピアのことは一切出てきません。)

それはそれとして「人生は決断の連続」というのは一定の説得力と納得感があるのではないでしょうか。

少なくとも、私はそう思っていました。

ですが先日、社内で話題になっていた『あなたは正しい』を読んで、これは少し違うかもしれないと思ったので、このnoteを書いています。

この本は韓国で活動する精神科医のチョン・ヘシンさんの体験が詰まったものです(逆に言えば、学術的な面から書かれているわけではないです。)

帯に書いてある通りメインメッセージは「ただ共感しなさい」なのですが、
・「共感」と「耳障りのいい言葉」は何が違うのか?
・共感する人に必要な態度とは?
など、共感についてたくさんの事例から伝えてくれている本です。

ここで触れたいのはその内容ではなく、前提にある「あなたは正しい」という態度にあります。

まず、著者は「あなた(の感情)は正しい」ということを繰り返し伝えています。

もしかすると、行動は正しくないことがあるかもしれない。
怒りに任せて誰かを傷つけるのは、場合によっては正しいこととは言えない可能性もありますよね。
「自分は怒っている」という感情自体は正しく、否定されるものではない。

ただ、本質的にはこれ自体も疑おうと思えば疑えます。
「自分は怒っていると思っているが、本当にこれは怒りなのだろうか?」など、自分が感じている感情が本当にその感情か?という問いを持ったことがある方もいるかもしれません。

だから「あなたは正しい」という主張自体は疑いうるわけです。

一方で、ある人が「あなた(の感情)は正しい」というスタンスで生きること自体は、問題なく成立します。

むしろ、そのスタンスで生きることを決めることで「もしかして人は自分の感情にすらあざむかれるのではないか」という疑いや悩みを禁じ手とする。

そうすれば「今感じている感情を否定せず認める。その地点からすべてを始める」という世界に生きることができます。

今、さりげなく「あるスタンスで生きると決めることである世界に生きることができる」と書きました。

実はこのテーマが、今回一番扱いたかったものです。
そして、これが「人生は決断の連続である」というテーマと対立するものです。

この違いをきちんと見ていくために、ここで「決断」と「判断」の辞書的な意味を見てみましょう。

決断:意志をはっきりと決定すること。
判断:物事の真偽・善悪などを見極め、それについて自分の考えを定めること。
(どちらもgoo辞書より)

つまり、決断は意志に関わるものであり、判断は考え(思考)に関わるものです。

ということは「決断の連続」ということはその時々において意志を定めることになりますが、その隠れた前提は「ある場面において定まった意志を持っていないこと」になります。

逆に言えば「根本の部分で意志が定まってしまえば、その後決断を行う必要は無い」ということです。

ここで、先ほどの「あなたは正しい」というスタンスを見てみましょう。

これは、対人関係という場面において(おそらく自分との向き合い方も含めて)そのスタンスを根底で定めるものです。
「あなたは正しい」。すべてをそこから始める。
相手や状況に応じて「この人は正しいだろうか?それとも正しくないだろうか?」と考え、決断する必要がない。

このスタンスの人にとっては、世界におけるあらゆる対人関係が「あなたは正しい」ものになるでしょう。
なぜなら、対人関係における一番根本の部分を「決断した」からです。

そして、おそらくここが1番重要なのですが、この「決断」自体には客観的な正解・不正解がつけられません。
なぜなら、それは意志という主観的な領域の話であり、究極的には「人それぞれ」と言えてしまう話だからです。

ですが、このことは「結局人それぞれだから取るに足りないことだ」という結論を導きません。

むしろ「究極的に人それぞれだからこそ、その人(個々の自分や相手)がどんな決断を正解とするかが重要である」ことが結論であり「その決断が、その人にとっての世界の立ち上がり方を決める」のです。

愛に生きると決めた人の世界に愛が溢れるように、世界は不幸で出来ていると決めた人にはすべてが不幸に見えるでしょう。

これは「すべては主観である」というよりは「すべてはその人の持つ根本的な意志と世界との関係性だ」ということを意味しています。
加えていえば「根本的な意志がない場合は、世界との関係が都度変わりうる」ということも意味しています。

ここまで来ると
「あるスタンスで生きると決めることである世界に生きることができる」

「人生は決断の連続である」
の関連も分かりやすいのではないでしょうか。

つまり、人生における根本の、重要な領域については「一度の決断」で十分なのであり、それが自分自身にとって心の底の底の底から、本当に意味があると信じられるものかどうかが決定的に重要である、ということです。

この意味において「自分を知る」ことは役立ちますし、逆にいえば「一度の決断」につながらないのであれば「自分を知る」ことの効果は薄いといえるでしょう。

しかも厄介なことに、この「一度の決断」自体は生きるのを楽にする、とも限りません。
「あなたは正しい」と決めた人も自分を害する人に出会うでしょうし、愛を大事にする人は愛の欠如にも敏感でしょう。

その苦しさに向き合うなら「普段は判断を保留し、その都度の状況や場面や感情に応じて物事を決める」方が楽かもしれません。
ただ、楽な人生が良いものであるともまた、限りません。

だから、この「一度の決断」は本当に、どれだけその信念を試されても折れないぐらいの自分の奥底から出てくるものである必要があるのです。

ちなみに、冒頭で「人生は決断の連続である」がシェイクスピアの言葉ではなさそう(特に偉人の名言というわけではない)とお伝えしました。

それを調べる中で、カミュのこのような言葉を見つけました。

人生はあなたの選択の総和である

今回の話からすると、こちらの方がより真実に近そうです。

「一度の決断」という、世界の立ち上がり方にも関わりうるような、質量の大きい選択をしたのであれば、その決断が人生に与える影響もまた、大きくなるでしょう。

それは「今日の晩ご飯は何にしようかな」という選択・決断・判断とは人生における重みが桁違いなのです。
(今日がプロポーズする日なら、めっちゃ重たい選択ですけれどね)

さて、今回は「決断」について書きました。
個人的には「生きるスタンスに関わる決断」を通じて自分が生きたい世界に生きたいなと思いますし、そう生きている人が増えたらいいな、と思います。

そういう気持ちでこのnoteも書きましたので、何かのお役に立てたら嬉しいです。
ご覧いただき、有難うございました!

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