銃眼


村の遥か北にある高い山脈から吹き下ろしてくる風が、ごうごうと少年の耳元で音を立てる。色あせた軍服の防寒着は、彼の体には大きすぎた。風を避ける為にフードを被れば、すっぽりと顔の半分が隠れてしまう。ずり落ちてくるそれを押し上げながら、自分の背丈に近いほどの銃を手に取ると、少年は城壁の壁に開く銃眼から村を見た。
街道沿いにある古い城は村を見下ろしている。所々に崩れ落ちている城壁から見えるのは、草に覆われた丘と小さな畑。ずっと向こうには草を食む羊や馬の姿が見える。照準のクロスに切り取られていく風景は、とても長閑だ。

先日のことだった。上官は彼を野営地のテントに呼びつけると、近いうちにと、口を開いた。
「旧街道から敵軍の戦車部隊がやってくる」
 上官は少年を見つめた。少年は後ろ手を組んだまま、次の言葉を待つ。
「貴官に任務を与える」
 上官は小さな紙きれを胸ポケットから取り出し、紙面に書いてある言葉をゆっくりと読み上げた。少年はそれを聞き終えると指先までひりりとするような敬礼をし、テントを出て行く。塹壕のあちこちに、部隊の人間が束の間の安息を貪っている。寝転ぶ人達の間を縫うと、少年は自分の荷物を手早くまとめた。荷物といっても背嚢が一つと、部隊に入った時に支給された銃しかない。何人かが彼を見上げたが、声を掛けることはなかった。
 その日の夜、野営地から古いトラックが一台闇の中に滑り出た。ライトもつけず、だ月明かりだけで前に進んでいく。運転席には、大きな体を折りたたんだ壮年の男。助手席に、少年が沈み込むように座っている。男は農民風に変装している自分が気に入っているのか、単調なリズムの曲を何度も何度も繰り返して歌っている。その歌は少年も知っていた。つい数年前まで、この男は彼の生まれ育った里で畑と小さな店をやっていたのだ。彼の父母が作るチーズを買い取っていた。
――草が茂れば家畜が太る、家畜が太れば市に行こう。市に行ったら綺麗な布を買い、愛しいあの子を迎えに行こう。
 少年は身じろぎもせず、闇を見据えている。
「お前がこんなに立派な兵士になってくれて、俺は嬉しいぞ」
 男は言いながら、ハンドルに左手を添えて右手を彼に差し出してくる。少年は自分の背嚢を探ると、配給の煙草を取り出し渡した。兵士には年齢は関係なく、煙草が支給される。彼が煙草を吸わないことを、男は知っているのだ。この煙草をもとに部隊の中で取引をして、パンや酒を手に入れるに違いない。男の軍服のポケットには、甘い菓子が忍び込ませてある時があり、彼も一度は口にした。
「あの地域は敵国の領内だが、大丈夫だ、今度の作戦で奪還する。元は我々の国のものだからな」
弾んだ声で男は言う。歌の続きのような調子を遮るように、少年はすいと闇を指差した。男は全身でブレーキを踏む。トラックは悲鳴をあげ、男の体は前のめりになると、フロントガラスにごつりと額をぶつけた。闇の中、目を星のように光らせ大きな角を王冠のように頂いた鹿が、森の中から飛び出し、また闇に姿を溶け込ませていく。
「まったく目が良いなぁ。お前ほどの狙撃手は何処にもいないぞ。だがな、この俺も前ほどではないんだが、市街戦にでりゃあ一番の働きだったんだ」
  男は再びアクセルを踏み込むと、頭髪が疎らな額をさすりながら呟く。少年はちらりと男の横顔を見たが、何も言わなかった。
夜の縁が仄かに白く染まりだす頃、少年は古城に着いた。山裾を縫うような長い石垣を纏ったその城は、搭屋は傾きかけ無残な姿だ。この城を造ったのは自分達の国の大昔の王なのだと、男は言う。
「建築王と呼ばれる王がいるだろう」
男が言えば、無精髭に覆われたその口元を、少年はじっと見つめた。
「まぁ、政には興味がなくて、建物だのそんなものを作ることが趣味だった奴だな」
少年は崩れ落ちかけた石造りの天蓋を見上げる。これといって何の感慨もない。男は足元に落ちていた、タイルの欠片を拾う。色褪せてはいるが、美しい青の釉薬が残っていた。
「一応、賢帝だ。初等学校でも習うだろう」
少年は男の顔を見上げた。睨み付けるような視線。男は口を開きかけ、すぐに真一文字に結ぶ。生まれてこの方、少年は羊の世話と畑仕事しかしたことがない。自分の名前さえ、どう書くのかも知らない。男はばつが悪そうに、手にしていたタイルの欠片を放り捨てた。それから男はやっちまおうと呟き、トラックの荷台の幌を捲った。
東の空が明るくなる前に、二人は五本の銃と幾つもの弾薬箱を、黙々と古城の石積みの陰に運び込む。男が腰の痛みを愚痴る頃には、すっかりと世界は明るくなり、虹色の光の中には放たれた羊や馬達が草を食む姿が彼方に見えた。少年は空の色と同じ澄んだ色の瞳で、その景色を見つめる。男は軍服の胸ポケットから煙草を一本取り出し、丁寧にマッチで火を点け肺に染み渡すように深々と吸った。朝の光はきらきらしく余りにも眩しい。
「この任務が終わったら、お前も故郷に帰ることができるだろう。お前の金はちゃんと実家に届けているからな」
 ケチな事をするが、この男はその点だけは真面目だった。少年は小さく頷いただけで何も言わないままだったが、固まっていたような眦の辺りは微かに揺らめいたのだった。

 教会の鐘がなる。銃にしがみ付いていた少年は、はっとして身を剥がした。微睡んでしまったらしく、いつの間にか太陽は、地平の先に沈もうとしている。足元に置いていた水筒を引き寄せ、水を一口含む。途端、胃袋が捻じれるような痛みに、思わずはうと息を吐いた。前の日の朝に薄いスープを口にしただけで、自分が丸一日、何も食べていないことに気付く。明日には、自分達の国に味方してくれる輩が、食糧や水を届けてくれると男は言っていた。
 少年は銃に添えた手を緩めることなく、背嚢を探る。ビスケットの袋を、指先が探り当てた。片手で破り、一枚を口に放り込む。乾いたビスケットを唾液で湿らせ、奥歯の端で少しずつ噛みしめる。呑み込むことは、なかなか苦しい。それでも照準の先の世界を見つめることは怠らない。
 淡く、琥珀色の世界に沈もうとする景色の中で、自分と同じ年頃の、十四、五の少年が、木の枝を振り回し、羊の尻を叩きながら村の道を歩いて行く。寄り添う犬がばらける羊をまとめようと丘を駆け回る。
 少年は屈んでいた背を伸ばす。今日初めて銃から手を放し、空を仰いだ。薄い青色の空の端に、刷毛で履いたような雲が流れていた。小さく息を吐いた後、もう一度、銃眼から村の景色を見た。小さな村は夜の帳に包まれようとしていて、慎ましやかな家々には温かな光が灯っている。まだ作戦は動きそうにない。

 「協力者」が少年の元に来たのは、まだ朝早い時間だった。毛布にくるまり寒さを凌いでいた少年は、ぱきりと小枝を踏む音にその体を固くする。昨日の内に、この古城の周りに、小石や小枝をみっしりと敷き固めていたのだ。何かが近づいたらすぐに判る。倒れた柱の側に身を潜め、そっと顔を上げた少年が見たものは、自分とそれほどに年の変わらない少女の姿だった。足取りは若い女鹿に似ていた。煉瓦や小石を小さな爪先で踏みつけながら、こちらに歩み寄ってくる。少年はその場に蹲ると、声を掛けずに見つめる。
 石の積み上がった広場の辺りに、紙袋を一つ置くと、少女は辺りを見回している。きっと、受け取りに現れる人物の姿を探しているのだろう。早く去ってくれたらいいのに。少年はじりじりと待っているが、なかなか少女はその場を動かない。
「わたし、だれかいう、しない。だからここ、いる」
 少女の唇から零れてきたのは、自分の国の言葉だった。少年は驚いたが、すぐには動かない。用心深く銃を構えたまま、少しずつ、距離を詰めていく。やがて、根負けした彼が、何か小さな生き物のように岩陰から姿を現せば、少女は、あらと呟く。
「もっと、おおきなひとだとおもう」
 少女は言う。少年は何も言わず、紙袋を開けた。チーズが挟んである黒パンが一塊と、林檎が幾つか。喉が渇いていた少年は、林檎に齧りつく。皺が寄ってはいたが、甘い果汁が舌の上に広がる。林檎をむさぼる彼を哀れに思ったのか、少しの間、姿を消していた少女が、重そうにブリキのバケツを抱えてきた。
「した、いど、のめる、もんだいない」
 そんな言葉を自分に掛けて、にこりと笑う少女の顔を、やっと少年はまともに見つめる。紺碧の空と同じ色の少年の瞳を真っ直ぐに受け、少女は花が咲くように微笑する。白い小さな顔には、薄くそばかすが浮かんでいる。
「わたしのいう、おかしい」
 少女は言うが、少年は答えず、バケツの水を両手で掬う。言葉使いがおかしいところもあるが、通じないわけではない。
「わたし、ちちおや、あなたのくにのやつです」
 少年が顔を上げると、少女は僅かに口元を震わせたが、次には堰を切ったように話し始めた。

 わたしのおかあさんは、このくにのやつです。おかあさん、かみさまとてもしんじる。かみさま、いうきかないと、てんごくにいけないおもう。わたし、じゅうとななさいのやつです。おとうさん、あなたのくに、なまえしりません、おかあさん、きらい。
 このむら、わたし、うまれるまえに、せんそう、です。おかあさん、おばあちゃん、かくれました。おとこのひとはみんな、へいたいにいない、だれもまもる、ない。おかあさん、かわいいむすめ。てきのへいたいきました。おかあさん、なきました。ゆるして、いう、だれもきいてくれない。それで、わたし、うまれました、わたし、いらないこども。でも、こども、いのちとる、てんごく? いけない。だから、おかあさん、わたし、うむしました。

 少年は身じろぎをすると、食べ終えた林檎の芯を地面に放り捨てた。少女はしゃがみ込んでいる。雲の隙間から覗く弱い陽がその頬を照らせば、少女の肌の色が透き通るほどに白く、長い睫毛に縁どられた瞳が暗い緑色だということも気付いた。
「あなた、なまえ」
 少女は訊ねてくるが、少年は答えない。小さく首を振り、渡すようにと言われていた銀貨を、ズボンのポケットから取り出した。黙って少女に差し出す。すると、今まで輝くように少年を見つめていた少女の瞳が、翳る。滑らかな白い額には細い線が走り、赤みを帯びていた頬が強張っていく。向日葵のように真っ直ぐだった首が、支えを失くしたように俯いた。付きつけるように腕を伸ばしても、少女は項垂れたままだ。少年は苛立ちを押し殺し、少女に銀貨を押し付ける。
「わたし、あなたのくに、いく、だからはなす、いっしょけんめい、おぼえる、おかしい?」
 手の中で銀貨を弄っていた少女は、直ぐにでも背中を向けそうな少年に話しかけてくる。おかしい? もう一度、少女は訊ねてくる。少年は伝える言葉が判らず、小さく首を横に振った。その途端、ぱっと少女の顔に生色が戻ってくる。
「こっきょう」
 少女は城壁にしがみ付き、北側の丘の先を指差した。小さく深い川。彼が首を傾げれば、
「くに、くに、せんのばしょ」
 手近の枝を拾い上げ、少女は○と△を地面に描き、そこにギザギザの線を引く。その線を跨いでみせ、次には銃を構える真似をすると、ばん、と鋭く言う。それから南の街道の先をすいと指差した。
「もうすぐ、ぐんたい、ここくる。あまりたくさんない、でも、えらいある」
 少女は言いながら、今度はがりがりと地面に文字と数字を書いていく。少年はきゅっと唇を噛んだ。彼は、字を読むことができない。だがそれを知られることが嫌で、少女に問いかけることもできないでいる。少女はすべて書き終えると、誇らしげな顔で少年を見た。
「くるま? ここのつ、えらいやついちばん、うしろ。ここ、もとはあなたのくに。わたし、あなたのところいきます、きっとだいじしてくれる」
 少女は言うと晴れやかに笑う。少年は何も言わず、短い間、自分の親指の爪を噛んだ。ひんやりとする風が、古城の上を吹き渡っていく。ここからずっと離れた、高い山稜の中に、彼の生まれた土地はある。山と、沃野と、そこに放たれた家畜で世界はできていたはずなのに。少女の描いた波打つ線を暫く見つめる。ついと視線を逸らした果てには、切れ目のない空と大地が広がっているばかりだ。
 去って行くとき、少女は少年に小さく手を振った。それが何の合図なのか、少年は判らなかった。跳ねるように坂道を下りていく少女の姿を銃眼から見据える。その姿が道を行き、村の中に消えるまで、少年は銃を構え、反らすことはなかった。

古城の辺りの地形は、隈なく調べている。少年は風を避ける為に潜り込んだ、城の塔から延びる砦跡の岩陰の下で、地図を開く。古城を中心に、南北に道を伸ばす街道。敵がやって来る道は、この南からしかないのだ。
彼の視界の遥か先を、羊の群れが行く。追い立てているのは一頭の犬で、その後ろから歩いてくるのは、老人だった。右肩が僅かにあがり、曲がった枝を杖の代わりにして歩く姿は、故郷の父に似ているかもしれない。照準で一時その姿を見つめていた彼は、小さく息を吐くと、ちょっとの間、両手で顔を覆っていた。
「ここ、いた」
 急にそう声を掛けられ、少年は思わず振り返りざまに銃を構えていた。笑っていたはずの少女の顔が次第に固まっていく。手にしていた籠から、パンや林檎が転がり落ちて、点々と辺りに散らばる。少年は張りつめている背中を少しの間ぐっと反らすと、銃を下ろした。
 少女の唇や頬の辺りが震えているのが少年にはわかったが、何も言わず、転がった林檎を拾うと、自分のポケットにねじ込む。パンもポケットにねじ込もうとして、ふとこれをどうやって彼女が集めてくるのか不思議に思った。パンの一つを彼女の手に押し付けると、もう戻れというように手を振る。くるりと背を向けて、銃眼に寄り添う。だが、少女は直ぐには去って行かない。
「わたし、きょう、よる、でますこのむら。さくせん。もうすぐ」
絞り出したような彼女の言葉に、少年は頷く。
「わたし、あたらしいなまえ、もらう」
自分の胸の中の言葉を、きちんと伝えられないもどかしさなのか、それとも少年が少しも表情を動かさないせいなのか、少女は一度下唇をきゅうと噛みしめる。眉根の寄った額に掛かる前髪を煩わしげに払い、その震える両の手は何かを乞うように胸の上で組み合わされる。少年はその時、握りしめて白くなった彼女の手の甲に、盛り上がった肉の古い傷を見つけた。家畜に押していた焼印を、少年は思い浮かべた。歪な丸。その視線に彼女は気付いたのか、急いで長すぎるシャツの袖で手の甲を隠してしまう。擦り切れたシャツを摘む彼女の指はまだ細かく震えていた。
「おかあさんはきらい。おいていく。あなた、なまえ?」
地図を折りたたみ立ち上がる少年に、彼女は問いかけてくる。名前を聞かれたのは二度目だ。言葉を待つ少女の顔は、真剣だった。
だが彼の唇から洩れたのは、薄い溜息でしかなく、もう一度、彼は物憂く手を払う。彼女はしばらく、頼りない棒のように立っていたが、少年が銃を肩に担ぎ、銃眼に近寄る姿を見ると、何も言わず古城の階段を駆け下りていく。足音が昨日よりも大きい。
 傾きかけた陽の下で、薄い背を丸めるように少女は歩いて行く。踵を叩きつけるような歩き方だ。新しい土地、新しい名前。それを手に入れる喜びを伝えたかったのかもしれない。少年は小さく首を傾げた。一度下ろした銃の照準をもう一度覗き込む。少女の足は随分と速く、もう村の入り口へと向かおうとしている。少女の脇を、南から走ってきた一台の車が追い越した。少年は僅かに腰を浮かす。車は、軍用車に見えた。
 乗っているのは枯れ草色の軍服を着た二人の青年だった。庇が長く丈の高い軍帽は、彼の国のものではない。少年は照準の先の光景を見つめながら、そろりと銃を抱きなおした。弾はきちんと入っている。
 少女は何を話しかけられたのか、頭を振ると再び歩きはじめる。二人の青年は、身軽に車から飛び降りると、少女の後を追い始めた。駆けはじめた少女は、簡単に二人に追いつかれ、一人が彼女の肩に手を掛ける。少女は振り払う。そんな彼女を、屈強な一人が簡単に抱え上げる。
 少年は見た。照準の中の、少女の引きつれた顔。そうして二人の男は鼠を前にした猫のように、目じりを下げて笑っている。車に担ぎ込まれようとする間に、少女は散々に暴れ、男たちを蹴飛ばし、ののしっているようだった。だが、二人は放さない。少女に手を噛まれた男が、何かを口走りながら彼女を殴りつけ、地面に転がった体を乱暴に引き上げる。シャツがはだけて、白い肌が露わになる。少年の耳に聞こえたのは風だろうか、悲鳴だろうか。少女の顔は間違いなく、こちらを見ている。今にも、少年への助けを叫びそうに、口を開きかけていた。
 白い可愛い子羊。ふと、彼は大事に飼っていた羊の姿を思い出す。大事にかわいがっていた。祝祭の捧げものにと屠られる時、哀しくて泣きじゃくった。自分を見上げた子羊の、あの黒い瞳、濡れた瞳。あの時、小さく鳴く声を聞くだけで、その姿を最期まで見てやれなかった。銃を支えていた腕から力が抜け、少年はぎゅうと目を閉じた。
 甲高い悲鳴が再び、風にのってくる。瞬間、少年はかっと両目を見開き、銃を構え直した。
 タン!
 乾いた音が一発。髪を振り乱していた少女が、大きく仰け反る。その喉元の肉が弾け飛び、真紅の飛沫が吹き上がる。男たちは顔を真っ赤に染める。二人の足元に放り出された少女は、大きく目を見開き唇を開きかけたままの姿で転がっている。二人は喚くよりも早く、軍人の素早さで、腰の短銃を引き抜こうとした。
 タン! タン!
 小気味良いほどに乾いた音と共に、一人は右胸を、一人は頭を打ち抜かれ、折り重なるように道に倒れた。少年はもう一度、銃眼から村を見つめる。幾人からの大人達が、手を振り上げながら駆けていく姿が見える。折り重なった三つの人影は動かず、地面に黒い池がゆっくりと広がっていく。
村人はどうするだろうか。
村の見取り図を引き寄せ、少年は銃に弾を込める。連絡所はあの村には一か所なのだ。指先をひりつかせ、照準越しに見つめている彼の視界の中で、村の男たちは三つの死体を何処かに運び去ってしまう。軍用車を数人掛かりで押していき、乾草の山に隠した時、思わずとはいえ、少年の唇は半開きになっていた。道に広がっていた黒い色の溜まりには、砂が捲かれる。そうして、村人は子供を呼び寄せ家に戻り、羊達を家畜小屋に導く。
それを見届けると、少年は岩陰に齧りついていた身を起こした。悴んでいた自分の両の手をそっと擦り合わせる。それから緩慢な動作で背嚢を引き寄せる。そこから取り出したのは、渡されていた通信機で、たった一つだけ覚えた電文を打った。「敵、接近」。
その後、通信機を銃床で叩き壊し、古い井戸に放り込んだ。青い空の縁が、ゆっくりと濃い色に変わる時間になっていた。

積み上げている弾薬箱が、かたかたと小さな音をたてはじめた。猫の爪のような月が、空の端に掛かっている。少年は壁に寄りかかっていた身を起こす。闇に蹲ったまま、体を固くする。薬莢同士が触れあい、金属の固い音を立てる。コップが転がり落ちる。風は何時しか止み、全身で気配を感じようとしていた彼の耳に、やがてきゅるきゅると軋んだ音が届き始める。重く、引きずるような音。
戦車だ。
そう思った瞬間、数発、何かを打ち上げる音。少年は反射的に顔を背ける。闇を切り裂くのは照明弾で、ゆっくりと光を放ちながら地面に落ちていく。
ぎらぎらした光の中、街道の南の先、車輛の群れが確かに見えた。少年が銃を抱え上げたその時、眼下の果てにある北の丘に、一輌の戦車が駆けあがってくる。めりめりと生えていた木をなぎ倒し、次には、雷鳴のような音を響かせ、砲弾を発射する。すさまじい音に、古い城の壁が震え、石の塊が彼の上に降ってくる。自軍の戦車だ。思わず、少年の頬が緩むが、すぐに南方向から激しい砲撃が始まる。
照明弾と砲撃に晒される村の上で、村人や家畜が逃げ惑っている。敵軍の歩兵が何かを叫びながら、村人たちを何処かに逃がそうとするのだが、そこに立て続けに砲弾が撃ち込まれる。土砂と共に辺りにまき散らされる人の欠片も、すぐに兵士と戦車に踏み固められてしまう。
少年は切り取られる闇の中で、五本の銃と沢山の弾丸を側に引き寄せ、敵兵の額を射抜き始めた。燃えだした村の建物が夜の底を焼き、両軍の歩兵たちが雄叫びをあげながら衝突する。少年が狙うのは、指揮官だ。照準を覗き、素早く「的」を選び、その額を、胸を撃ち抜いていく。狙撃手の気配に気づいた敵軍が、古城に砲弾を撃ち込んでくる。砲弾は足元を抉り、大量の土砂を巻き上げる。石礫が剥きだしの顔に当たり、細かい傷が幾つも走る。口の中の土塊を吐きだすと、少年は銃眼に身を寄せた。
一歩もその場を離れず、少年は引き金を引き続ける。やがて歓声と悲鳴が同時に聞こえ、自軍の戦車の一輌が轟音と共に爆発した。自軍の戦線が怯んだように僅かに下がった。歩兵どもが後退する。長い影が幾重も炎に照らしだされ、ゆらゆらと地面を舐める。
奥歯の間で何度も叫び声をかみ殺し、少年は「的」を射抜き続ける。新たな地響きがして、燃え盛る村を踏み潰すように、自軍の戦車が一輌、炎の中から姿を見せた。轟音と共に、土砂が舞い上がる。遅ればせに駆け付けた戦車は、めりめりと建物も人間も踏み潰し、突き進んでくる。
少年の唇から、ひゅうと細い息が漏れる。もう、指が動かない。弾丸も尽きそうだ。震える手から銃身が曲がった銃を引きはがし、最後の一挺を手にする。再び、銃眼から覗く落ち窪んだ少年の瞳に、敵軍の戦車から身を乗り出している大男の姿が見えた。少年は戦車の数を瞬時に数える、少女は何と言った?
くるまここのつ。えらいやつ、いちばんうしろ。
偉い奴、そう、軍隊に入ったばかりの頃、教えられた。金の線と大きな星が沢山ついた帽子をかぶっている奴は、特別なんだと。そうして、上官から告げられた任務。
「敵将軍を、狙撃せよ」
少年の両目が大きく見開かれる。今までの何よりも、一番、大きな獲物。ひび割れた指で薬莢を銃身に押し込んだ。カシャーンと乾いた音が響く。少年は、引き金を引いた。闇も切り取る、照準のクロスの中で、その派手な帽子が飛んで、脳みそが吹き飛ぶ姿を見たとき、少年の口元に、僅かな微笑が浮かんだ。

昇った太陽が、下界を照らす。焼け焦げた建物、死んだ家畜、奇妙にねじれた格好で積み重なる人。横転し、破壊された敵軍の戦車に、つい数日前に少年をこの村に置いていった男が歩み寄る。上半身だけ残して焼け残っている敵将の、その蟀谷は見事に打ち抜かれていた。それを認めて、男が駆け寄る先には、軍用車に乗った上官がいた。
油と血の匂いに満ちた場所で、上官は身綺麗に整っている。男の報告を聞き終わると、上官は満足げに頷く。
「約束通り、もう故郷に帰らせてやってください」
 男は言うが、上官は整えた髭先を弄った後、考えておこうと短く言った。
「では、我らの英雄を迎えに行こう」
 上官は陽気に言った。
 古城の銃眼に、少年はまだ寄り添っていた。空の薬莢が辺りに沢山散らばり、迎えに来た大人達の足元でぶつかり合って、きんきんと小さな音を立てた。
「おい、もういいぞ、こっちへ来い」
 男が声を掛けるが、少年は動かない。上官が連れて来いと顎を向ける。歩み寄った男は、少年の肩に手を掛けようとして、動きを止めた。肩を掴むはずだった手は、そのまま自分の軍帽を毟り取り、禿げかけた額を撫でた。大きな手が、微かに震えていた。
細った指を引き金にかけたまま、少年は息絶えていた。その胸は弾けて、赤黒い血が固まっていた。開き乾いた青い瞳は、それでもまだ、銃眼から、「敵」を見ていた。



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