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風琴堂覚書 瑠璃 壱

 果師。はてし、若しくは、はたし。骨董、珍品を求め、世の果てまで、行く。そんな、意味があったらしい。

 初夏、樟並木の濃厚な香りが、この古い町を包む頃、久しぶりに一本の電話が入った。御室は暫く黙って相手の声に耳を傾けていたようだが、やがて、
「畏まりました。そうまで仰いますなら一度お伺いいたします」
やんわりと、しかしきっぱりと、まだ電話の向こうで声が聞こえるようだが、そのまま受話器を置く。俺はといえば、昨日の商いで手に入れた幾つかの品を箱から取り出しつつ、耳を欹てている。
「さて、困ったものだね」
御室は言葉とは裏腹に、のんびりとした口調で言い、椅子をくるりと回すと窓の外の景色を見据える。通りに面した窓からは、玻璃が砕けるような光に包まれて、樟並木の新しい緑が弱い風に揺れているのが見える。
「七海、お前の初仕事にしてあげよう」
 俺の方に向き直ると、御室は、些か人の悪い微笑みを浮かべて言った。
「嫌な予感しかしない」
 俺が呟くと、痩せた頬にこれ以上ないというくらいに楽しそうな色を浮かべ、すぐに消す。彼女は左目に濃い色硝子の嵌った不思議な眼鏡を掛けている。真っ直ぐに見据えられると、俺は今でも少し胸がざわつく。
「実を言うとね、一月程前に色んなお品を買い取ってほしいというご依頼があったのさ」
「その品を引き取りに行けってこと?」
「話は最後までお聞き、悪い癖だね」
 パーカーの万年筆で取り出した自分の手帳を軽く叩き、御室は言う。
「こちらのお金が用意できていなかったんだよ」
 さらりと彼女は言うが、俺は思わず眉を寄せてしまった。普段は小商いばかりだから、そんなに金を工面するようなことはない。
「品はいい物ばかりさ。欲しいお客がいそうな物だった」
「なんで風琴堂なのさ、いまどき色んな店があるじゃない」
「私の古い知り合いなんだよ」
御室は古ぼけた地図を机の引き出しから取り出す。何か思い出したのか、立ち上がって帳簿の並ぶ棚まで歩いて行く。珍しい、自分で動くとは。普段は滅多に席を外さない。元々は蔵であった店内には古物が、あちこちに転がり、主である彼女は李朝時代の黒檀の机で、日がな一日、本を読むというのが、お決まりで、余程のことでもないと席を立とうとはしない。
「昔からの上得意さんだよ。ここ数年はお品を買い取ってほしいというご依頼が多いね。最近はいい物がないねぇ。こう、大きな水瓶なんかよくないかい、紫の蓮を咲かせたいね」
 帳簿を引き出し机に戻った御室は両切りの煙草に火をつけ、煙をふいと唇から吐き出し、白髪交じりのパーマの掛かった長髪をかき上げ、ぶつぶつと呟いている。そうしながら帳簿の頁を何度も捲り直している。俺はといえば、昨日持ち込まれた根付を、せっせと布で磨いていた。こちらからの支払が滞っている宅になど、俺は行きたくない。
「で、お前には取りあえずこれだけお金のご用意ができました、と小切手と手土産を持ってお詫びに行っていただきたい、ということ」
「嫌だよ。第一、御室の古い知り合いでしょ、依頼を受けたのは御室でしょ。どうして俺が」
ここまで言いかけた時、御室は帳簿を閉じて、顎の下で手を組むと目を閉じる。
「職務怠慢な従業員だね。さて、お前は私にいくらか借財があるのはお忘れでないよね。せっかく入ってくれた大学も勝手にやめて」
俺は大きく溜息をつくと、彼女の言葉を遮る。それを言われると反論のしようがないのだ。むくれたままの俺に御室は手招きをする。小切手帳を手提げ金庫から取り出すと、さらさらとそこに金額とサインを書いた。
「さ、三百万!」
喉が詰まって、変に上ずった声で俺が言う。御室は印鑑を押しながら、薄く苦笑いをする。
「あちらはもう少し高く、と仰るだろうけれど。これ以上はあの品には付けられないね。早くお金を持って来いと、義理の息子さんから言われてね。急いで準備をして行っておくれ」
封筒に小切手を入れ封をすると、御室は言う。着替えなくちゃと部屋を出ていこうとすると、片付けなさい、と作業場を指差された。一つ何かをやると一つ忘れるのは俺の悪い癖。布に包んだまま放り出していた根付の猫を手にすると、ふと気になり御室を見る。
「この品、鼈甲じゃない牛の角だって言われたときの、あのお客の顔、可笑しかったね」
 俺は箱にしまいながらそう言う。色んな理由、色んな目的で、「不用品」として最近は古物が持ち込まれる。そんな中に本当に価値があるものは僅かなのだが。
「辛いことする割には、この品には、まぁまぁのお値段つけたんじゃないの」
香箱座りの猫の値付け。眠り猫で、目が笑っている。御室がちらりと目線を上げると、灰皿に煙草を軽くあて、灰を落とす。
「大事に扱われて時代を生き抜いた品だと思ったからだよ。きっとすぐに気に入った人の手に渡るよ。そうだね、その子はもうすぐ付喪神になれようよ」
 その言葉に、俺は小さく肩を竦める。この店は、他の古物屋と目をつける場所が違う。それを忘れていると、時折やんわりと釘を刺される。布の中に転がる根付の猫は確かに穏やかな顔。俺はその顔を、皮手袋の左手でそっと撫でた。にゃおと鳴くまで後どのくらいの時間だろう。
「お得意先って、遠いの?」
俺は部屋を出ていきかけ、ふと気になって御室に聞く。返事がない。何か気になったのか、帳簿を熱心に読んでいる。
「ねぇってばさ、列車で行ける?」
 俺が問い返すと、御室はやっと顔を上げ、にんまりと笑った。彼女のその仕草に、俺は不安になる。
「まぁ、遠足気分で行ってお出で。途中までは、列車だよ」
 彼女はそう言うと帳簿を閉じる。楠の若葉の光の反射が、店の中の影を明るく照らす。その光を追いかけていた彼女は、ふと小さく笑う。
「そうだね、花見でもしておいで。きっと綺麗に咲くよ」
「もうとっくに葉桜だよ」
「世間はね」
御室は呟き、後は深々と煙草を吸い込み、椅子に体を預けた。ほのかな微笑を消し、眩しそうに外の景色を見つめ、ゆっくりと御室は目を閉じた。

 青い空と、家の群れ、その間には、田植えの終わった水田。バス停で、バスから降りた俺は、景色を見回した後、しゃがみこんだ。
「気持ち悪い」
 俺は、乗り物に弱い。特に、船とバスは鬼門なのだ。ローカル線に揺られて一時間、バスに乗り換えて一時間。店を出てから既に三時間。胃袋がねじれかえって、気分が悪い。鞄の中の水筒は、もう空だ。しゃがみこんだまま、鞄から地図を取り出す。御室、手描きの地図だ。左手にはめている皮手袋がこんな時は煩わしい。その手で汗を拭う。目印となりそうなものは、二つ重なって描いてある山。松尾山、三日月山とある。こんもりとした二つの山は、二瘤駱駝の背中にも見える。頭が一つ飛び出した山は台形で、少し不恰好でもある。真夜中色の万年筆で書きこまれた御室の字は、その台形に「三日月山」とある。
「バス停から三日月山に向って伸びる一本道。なに、田舎だからすぐにわかるよ」
 彼女はそう言っていたが、それは、何年前の話だろう。目の前に広がるのは、似たような小さな家々。今は住宅街ではないか。遠足ならばもう少し楽な場所にしてもらいたかった。腕時計を見ると、約束の時間が近づいている。とにかく、客の処には行かなくてはならない。未練がましく、水筒を振れば、水が一滴。俺は溜息を付くと、腰を上げ、歩き始めた。行きたくないと随分ごねたのだが、「無駄になった学費、耳を揃えて返せ」と詰め寄られた。何かあるとあの台詞を言うのはもう勘弁してほしい。俺に自分の仕事鞄と難題を押し付けて、御室は今頃、呑気に紅茶でも啜っているに違いない。
 風の中に、濃厚な生命の匂いがする。青臭く、息が詰まるほどの匂いだ。畦道を行く俺を、白い軽トラックが追い越していく。
「風琴堂の人かね?」
 追い越した軽トラックが、ちょっと先に止まりバックで戻ってくると、よく日焼けした年の頃、六十程の男性が運転席から身を乗り出してくる。
「はい」
「御室さんは?」
「代理の者です。主も高齢なので」
「金、持って来てくれたんだろうね」
 直接話法に少し腰が引けてしまう。それでもこんな道端で金の話はしたくはない。右手に下げていた松翁軒の紙袋をちょっと持ち上げる。
「まずはお詫びに上がりました」
「あんた商売人なら何が大事か判ってるだろう」
トラックからその人は降りてきて、俺の前に立つ。なんだかな、その言い方。
「失礼ですが、どちら様ですか」
大体の見当はついているが、あえて聞いてみる。案の定、日焼けの首から顔まで真っ赤な血の色が上ってくる。
「香坂だよ、あんた代理ってなんだよ。こっちが欲しいのはカステラなんかじゃないよ、馬鹿にしとるんかね」
「御気に障ったのならば謝罪いたします、しかし、御依頼主は香坂綾子様ですので申し訳ありません」
こういうの、慇懃無礼と言うのだろうなと思いつつ、俺は頭を下げる。香坂氏はえらの張った顎をぎりぎりと蠢かせたが、軽トラックに乗り込むと、物凄い勢いで車を発進させる。やれやれと俺がまた歩きはじめると、俺を轢くんじゃないかという勢いでバックで戻ってくる。
「後ろに乗りなさいよ」
「はい?」
「乗りなさい。家まで歩くと三十分はかかる」
そのお言葉に、俺はありがたく、しかし、荷台を不安に思いつつよじ登る。俺が座るのを確認すると、
「あんたが襲われて金を盗まれたら困る」
香坂氏はそう言った。人っ子一人見えない田園風景を見渡し、俺は苦笑する。車はかなりのスピードで走り出す。最悪の揺れに、脳みそまでかき混ぜられながら、青い空を見上げた。雲一切れさえない、美しい空だった。緩やかな上り坂を上がっていく軽トラックの荷台からは、住宅に浸食されながらもまだ残っている青く瑞々しい稲が見える。風が吹く度に、その稲がさあと揺れ風の通る姿を見せてくれる。小さく白銀色に光っているのは小川だ。痛いほどの青に、俺は目を細め、小さく息を吐いた。
「吐きそう」
  そう言った途端、舌を噛んでしまった。

 氷水を一口口に含むと、少し、気分がよくなった。六畳ほどの板の間の端に腰かけて、俺はほっと息を吐いた。俺の横には白髪を短く切ったふくよかなご婦人。にこやかな笑顔でお盆を持って、俺の顔を覗き込んでいる。香坂氏はいらついた顔で扇風機の前に座り込んでいるが、ご婦人は穏やかな目で俺を見ている。
「ご馳走さまでした」
 一気に氷水を飲み干し、そう言いつつ、硝子グラスを返そうとして、俺は目を見張る。シンプルなグラスだが、足元の水玉のような装飾がとても特徴がある。もしかして、ラリックの硝子グラスだろうか。
 軽トラックの荷台で揺さぶられて、挨拶もできないほどの俺に、香坂家の奥さんは、氷水を出してくれた。なんとも情けない奴だと思われても、しようがない。
「本当に、申し訳ないです」
 俺は、座敷で正座しなおすと、深々と頭を下げた。あ、カステラです、と言葉を添えて紙袋を押し出すと、奥さんは小さく頭を下げた。
「母がこちらのカステラが大好きで。貴方、荷台になんかお乗せするからよ」
 奥さんはそう言いながら、座敷を出て行く。香坂さんは「漬物貰ったんだよ」と呟いて首筋を撫でている。そのグラスよく見せてください、とは、言えず、俺は改めて、頭の禿げかけた、香坂さんと向き合った。
「で、仕事の話をしようじゃない」
 香坂さんはそう言うと、ずいと身を乗り出してくる。
「私の言い方も悪かった。だがね、義母に了承は得てるんだ、だから」
「小切手で三百万、ご用意してまいりました」
氏の言葉にかぶせて俺は一気に言う。香坂氏は俺の顔を暫く見据えた。驚いているような、信じていないような。
「ちょっと待ってよ、ほら、何だっけ、テレビでさ、同じ作者の掛け軸、五百万だったんだよ。おかしいんじゃない?」
俺は困ったような顔をして、内心、苦々しく思っていた。鑑定を売りにする番組が出てきて、最近は仏壇の隅からくすねてきたような物を店に持ち込む人がいる。だから御室は店の看板の横に、「一見さんお断り」の紙を張り付けたのだ。俺は小さく咳払いをすると、自分の鞄から買い取り品の目録と査定書を取り出した。
「えーと、あの品は残念ながら、お弟子さんの作品ということだそうで。後は、あ、楽焼の茶碗、あれも残念ですが……」
香坂氏が力なく手を振った。暫く項垂れていたが、やがて顔を上げる。本当にがっかりしているらしく、顔色が悪く見えるほどだ。俺は思わず、大丈夫ですかと口にしていた。
「ちょっと、ちょっと時間くれるかな、気持ちの整理がつかん」
香坂さんはそう言うと、首筋を叩いた。よっこいしょ、と呟いて立ち上がり、座敷を出る時思い出したように床の間の袋戸を開けると、和綴じの本を取り出し卓に置く。
「他に、何かないか見てくれるかね。倉の鍵、これ」
よたついて廊下を去っていく香坂氏に、俺は一礼すると目録を手にした。
 香坂家は、近在の地主だ。俺が今居る母屋も、築年数、百年らしい。座敷は二十帖程。今の当主は十二代目。四季の花々が透かし彫りしてある欄間から、柔らかくなった光が畳の上に落ちている。その光をぼんやりと見つめながら、目録を捲る。目録には色んな骨董の名前が記してあるが、長い年月で切り売りしてきたのだろう、売却とかそんな文字で、朱書きが帳面を走っていて、ついつい気分が重くなる。引き取られた物が大事にされているか、少し、気になる。
仕事ぶりは見せねばならないと、目録に付箋紙を貼り付けていた俺は、視線に気付いて顔を上げた。先に、障子の影から覗くように、高校生くらいの女の子が立っていた。その覗き方が、臆病な猫のようで、俺は笑いそうになる。
「こんにちは」
 俺が挨拶をすると、その子は肩から真っ直ぐな黒髪を滑らせ、一礼する。
「風琴堂の人ですか?」
 そう、尋ねてくる。俺は頷いた。
「御室さん?」
「一応、はい、御室です」
 俺は言ったが、彼女は上の空で、人の気配を気にしているようだった。
「ちょっと、来てください」
 その子はそう言うと、小さく手招きをした。
 連れて行かれたのは、離れだった。少女は障子に手を掛けると、
「お祖母ちゃん、風琴堂の人、お連れしたよ」
 俺に、瞳子、と名乗った少女は言いながら、障子を開ける。中は八帖の和室、中央には寝台が置いてあり、その上には背凭れに体を預けた、老婦人がいた。御室も痩せているが、それよりもさらに薄く、骨格がプラスチックの風貌で青白い。
「七海(ななみ)さんね」
 綾子さんと思われる老婦人は、白く濁った瞳で俺を見て、懐かしそうに言った。
「立派な青年になって。貴方が、御室さんに引き取られた時、私、お店に会いに行ったの。覚えていらっしゃる?」
 綾子さんはもの柔らかく言うが、俺は、覚えていない。しかし、どうやら、店主にとって、ただの知人ではない、ということは、理解できた。
 彼女の言う通り、俺は七つの時に二親を事故で亡くし、御室の養子になったのだ。御室には「秘密」があり、俺にもあり、父方の大叔母で、独り身でもあった彼女が、俺の養育を担ったのは、巡り合わせだったのかもしれない。
 俺は寝台近くの畳に座ると、小さく頭を下げた。
「手を、どうなさったの」
 白く濁ってしまった目に、世界はきちりと見えていないように思えたが、綾子さんは皮手袋に包まれた、俺の左手に、目を向けていた。ふいなことで、俺は答えられず、顔を伏せ、膝の上に置いた両手を見つめてしまう。左手は軽く曲がったままの形で、皮手袋の中。俺が黙ったままでいると、綾子さんは小さく物柔らかな微笑みを浮かべただけで、後は何も言わない。ただその沈黙はひたすらに優しい。俺は一度息を飲みこむと、そっと吐き出す。そんな俺と綾子さんを、瞳子が漆黒の大きな瞳で、見つめていた。
「さて、お仕事の話をしましょうか」
 綾子さんは頭蓋骨の形も判ろうかという風貌に、薄い微笑を浮かべた。
「婿殿はどうも投機に失敗したようでね。お金に難儀しているようなの。家と土地は、瞳子に残してやりたいのだけれど、先日のお品はどのくらいになったのかしら」
 その言葉に、俺は香坂氏には渡さなかった封筒を鞄から取り出す。それを瞳子に渡すと、彼女は封を切り、祖母に渡す。俺が右手でちょっと頭を掻くと、綾子さんは自嘲するように薄く笑い、骨ばって震える手を、胸の上で組み合わせる。
「三百万……。これでは焼け石に水だねぇ。子孫がだらしがないものでね、こうやって食いつぶしていくんだろうね」
綾子さんの呟きに、瞳子は正座した膝の上の、揃えた両手に視線を落とす。俺は預かったばかりの和綴じを二人に見せる。
「他にも何かあったら買い取りをとご依頼を受けましたが、綾子さんはご了承なさってるんですか」
「了承も何も、殆どもう良いものはないから」
ご覧になったでしょうと、薄い微笑で綾子さんは言う。俺は何と答えていいのかわからずに、そうですねと、小さく呟いてしまう。
「あ、そう、離れの床の間に、仁清の壺があるから、よかったら見てくださる」
俺はちょっと目を見張る。仁清の壺、これもまた年代によるんだけれども、旧家ならば少しは期待してもいいのだろうか。写しや偽物も多い品だし。そんなことは言わずに、丁寧に頭を下げる。ちょっと口元がもぞもぞするが、大事なことを言わなければ。
「そちらの金額でよろしければ、小切手をお受け取りいただけますか。銀行渡りにしていますが、裏判も押してあります」
 領収書をもらわなくては俺の仕事は成り立たない。綾子さんは少し躊躇うように小切手を見つめ、
「少し考えるお時間くださる」
 そうおっしゃる。俺は無下には断ることが出来ず、判りました、と答えた。瞳子が小切手を戻してくるので、受け取る。
「まぁ、婿殿の気が済むように倉も見てくださいな」
 綾子さんはそう言い、疲れたわ、そう呟いてベッドに横になる。瞳子はその薄い体をタオルケットで包む。俺は黙って頭を下げた。

「皮手袋、暑くないんですか?」
 部屋から退出すると、瞳子が俺に声を掛けてくる。気になってしようがないのだろう。綾子さんと話している間も、彼女の視線はずっと感じていた。俺は素手の右手で、皮手袋を外して見せた。火傷で引き攣れ、ろくに指も曲がらない左手を、彼女に翳す。答えはなかった。だから俺も何も言わず、また手袋をはめた。
「倉まで案内してもらえます? 他人がうろうろしているとよろしくないでしょう」
 俺が言うと、彼女は頷いた。
黄昏時が近づき、威勢良い緑に包まれていた山々が穏やかに静まってくる。刷毛をはいたような雲が空の端にある。瞳子に連れられて松や石で造られた庭を横切り、屋敷の後ろに並んでいる漆喰造りの蔵に向かう。三つある倉のうち、二つは農機具やよく判らないが古い家具が押し込まれている。
「昔の人って、物が捨てられないみたいで」
鍵を開けてくれながら瞳子が呟く。少し埃っぽい空気に、俺は目を細めると中を覗く。雑然、と色んな物が押し込まれている。
「こっちの倉にまとめてあります」
 瞳子が木戸を開けてくれる。薄暗い、手だけ中に入れると、すぐに電気のスイッチを弄りあてる。ぱちっと点くのは、じりじり呻く裸電球というのはなんとも古風な。失礼しますと、俺が中に入ると、瞳子は一歩下がる。
「入らないんですか?」
 尋ねると、彼女は首を横に振る。まるで後ずさるようにしながら倉から離れていき、
「倉とか、嫌いなんです。私。好きに見てください」
 彼女はそう言うと、一礼し駆け去ってしまった。
やれやれと呟いた後、倉の入り口の階段に腰かけ、目録を捲る。どうご希望に応えたものか。買い手が付きそうにないものを手に入れても、うちの店が手元不如意になっちまう。重い腰を上げて幾つかの気になった箱を棚から下ろした頃には、すっかり日が暮れてしまった。裸電球がちかちかと明滅する中、倉の奥、棚が並んでいる箇所に体を滑り込ませる。行李が幾つかあるけれど、中味は少なくとも七十年前までは日常で使われていたような食器。波佐見焼らしい皿は、恐らくこの家の色んな行事で使われたのだろうが、殆ど価値はない。没落旧家、という言葉を振り払うように首を横に振ると、棚のもう一段上に、長櫃を見つける。ちょっと古風な感じに期待して、足を踏ん張って引きずりおろす。
蓋を開けると、虫除けの香が微かにたつが、随分と開けられていなかったのか、カビっぽい匂い。小さな畳紙に包まれているのは、沢山の古裂だった。わぁ、と呟いてしまう。古裂はきっと、この家の女の人達が仕立てた着物だったりのものかもしれない。まだ肩上げのついた小梅模様の着物。いいなぁ、こういうの。こういう古裂を欲しがる人が見たら踊っちゃうだろうな。肌に触れたものを古物で買うのを嫌う人がいるけれど、俺が見極めたものなら絶対に大丈夫。
そうか、曰物はお取扱いいたしません、って俺の商売文句になるんじゃない。なんて考えて一人でにたにた笑っていると、
「えらい時間になった。もうバスがないよ。今夜は泊まっていって。で、幾ら位になりそうかな」
 香坂氏の忙しげな声に、驚いて飛び上がりそうになった。小さく一礼すると、
「ちょっとよく見てみないと」
とだけ答える。
「そうかぁ、値段は直ぐには出ないんだろうね。ん? 何を引っ張り出したの?」
 香坂さんは倉の床上に並んだ古裂を不思議そうに見つめる。
「すいません、ちょっと珍しかったので」
「お金になるの? ぼろ布」
「いや、そんなには……」
 俺が言葉を濁すと、香坂氏は首筋を叩きながら、「そうだろうねぇ」と呟きながら、汗だくになって倉から出ていく。貰うのもなんだから、幾らかで買い取らせてもらおうかな。右手は未練がましく古裂を弄る。辻が花の小紋らしき物もある、とひそかに心を躍らせて、それに手を掛ける。これ、これ本物だったらすごいことになる! 静かな熱狂が胸にふつふつとたぎり、それを取り出すと、ぽとりと古裂の山の上に小さく光る物が落ちてくる。不思議に思い手を伸ばした時、
「御室さん、ご飯、いいですよ」
 いきなり瞳子の声に背後を襲われ、慌ててその古裂と光る物を掴んだ。途端、ざわっと首筋がそそけ出った。今日はまだ手袋を外していない。背中を駆けのぼってくる寒気。
――どうかお許しください。
低く野太い、しかし哀しげな声が倉の奥、薄い暗闇から流れてくる。床に正座し深く頭を下げたままの白髪頭の大きな男で、やがてしくしくと泣き始める。俺の喉がごくりとなる。これか、このせいか。手の中のものを見下ろしたとき、
「御室さん、どうかしました?」
瞳子の影が差す。俺は持っていた鞄に、手にしていた物を押し込む。振り返ると、顔だけ覗かせて瞳子がいる。俺の目が思わず泳ぐ。あの男の姿はもう、ない。
「すぐ行きます」
そう答えると、彼女は小さく頷いて母屋に戻っていく。その姿を見終えると、他の古裂を長櫃に仕舞い、倉を出た。預かっていた鍵は固く、両手が自由に使えない身で難儀して戸締りを済ませ、外に出る。夕方の山の風が、汗に濡れた体を撫でていき、少し身震いをする。
 黒い獣のように蹲る山々の上に、上りかけの天の川が見えた。街から離れるとこんなに星が見えるんだ。階段に座り込み、その光景を眺める。さわさわと草が揺れる音が微かに聞こえ、小さく明滅する光がふわりと目の前を横切っていく。思わず右手を伸ばし、そっと抱きとめたのは蛍だ。命の色を灯す小さな虫は、開いた指の隙間からするりと逃げ、後は星に紛れてしまう。
 その晩、香坂氏はお酒が進み過ぎたらしく、その席の間中、「たしかにね、あたしはできのわるい、むこですよ」と何度も愚痴っては涙目で俺に「どうしてさんびゃくまんなの、おしえて」と迫る。これ以上相手をしていては酔いつぶれてしまうので、急いで夕飯を済ませると、仕事が残ってますからと、退散した。
離れの客間で、仄かな酔いからくる眠気に抗いながら、鞄に押し込んでいた物を取り出す。卓の上に広げたそれは、どうやら着物の片袖だ。摘み上げるようにして光っていた物をその上に置く。どう見ても、数珠にしかみえない。辻が花というものは戦国末期から江戸初期に流行った染物、というか刺繍ものの絵柄で、衣服として現存しているものは数が少ない。現在の辻が花とは少し違う、ということぐらいしか知らない。
しかしこれ、持ってきちゃったよ、俺。「窃盗」の単語が浮かぶ。今更に倉に返しにも行けない。査定でちょっとお借りしてましたって、言えばいいかなぁ。ごろんと布団に横になり、先刻の幻を思い返す。この布から伝わった、何時感じても体調を崩したくなるあの悪寒。誰に許しを乞うていたんだろう。

雪が降り積もっている。しかし踏みつけている裸足には、何も感じない。夢? 見覚えのある、不恰好な台形の山も純白の衣を纏いその頂は雲に覆われ、竹林にも田にも雪は降り積んで、墨絵のような景色になっている。陽は薄く、弱い太陽は田の果て、ずっと向こうの海に沈もうとしている。景色の中に、やがて小さな輿が現れる。篝火を持つ先駆け、幾人かの武者、そうして輿の周りには女達。
俺は何処に迷い込んだのか。女達は市女笠を手にし、俯き加減で歩いている。輿の廉の簸れは淡い鴇色で、墨色の景色の中で生色になる。その輿がゆっくりと停まり、暫く後に廉がしずしずと上がる。白い着物の裾が僅かに見える。膝の上に並んでおいてある両の手は、小さい。ほんの少し、廉が持ち上がり、中の人の顔が見えそうになる。だがその時、冷たい風が吹いてきて、ふっと漆黒に塗り込められた。
――せめて花咲く春に嫁ぎたかった。
少女の声が、すうと聞こえ消えた。

寒気に目を覚ました。山からの風が部屋を冷やしたのだろうか。それにしても、夢の名残にしてははっきりとした光景に、暫く天井を見つめる。貴人らしきあの人は、誰だろう。鞄の中に入れていたあの片袖がふと過る。まさかねと呟き、顔を洗おうと廊下に出た。家中寝静まっていて、足元灯がぼんやりと光っている。母屋は、二階の一部屋にだけ灯が点いている。瞳子の部屋かもしれない。手洗いはすぐ隣だった。その引き戸に手を掛けた時、視界の隅に人影がよぎる。瞳子なのかと目を細めてみる。長い髪と、細い背中。袴のようなものを身に着けているような気がしたが、瞬きの間に消えてしまった。
「……まぁ、古い家には付き物だね」
 両手で肩を抱くと、自分を励ますように呟いた。

弐へ続く


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