風琴堂覚書 瑠璃 参


 三日月山城は、久しぶりに静かな夜に包まれている。四か月に渡った隣国、友納氏との戦も、先日、和議が結ばれた。戦の間、松明を欠かすことのなかった城内は、この数日は静謐すぎる気配の中にいる。雪が降っているせいなのか。それとも、戦で失くしてしまったものが多すぎるからなのか。
 城内の持仏堂で小さな如来に手を合わせていた姫は、静けさに耳を澄ませる。頭蓋の奥に染みついた鎧の錏の擦れ合う音、馬のいななき、大勢の声。それは遠くなりはしたが、決して胸の内からは消えることはない。両の手に挟んでいた水晶の数珠を仏の前に添えようとして、姫はふと手を止める。此度の戦で没した父は入道としてこの数珠で日々仏に祈っていた。幼い時に亡くした母は切支丹で、まぐだれな、という変わった名前を伴天連から貰っていた。二人とも信じるものが違うが、あの世で会えたのだろうか。
 堂を出れば、降り始めた雪が薄く階に積もり、足袋を履いていない爪先は直ぐに冷たくなる。奥向きの部屋の一角に薄い光が見え、姫の足はそちらに向かった。
 そっと戸を開ければ、姫の乳母子である笹が、熱心に白絹の襟に熱心に針を通している。白絹は和睦を求めてきた友納から贈られてきた。そう、友納の殿と自分との婚礼の捧げものだ。
「目を悪くする」
 笹の背中に小さく姫が声を掛ければ、驚いたように振り返る。大きな黒い瞳に弱い灯が入り込み、黒曜石のように光っている。
「友納の方々に笑われてはなりませんから。母も一反仕上げました、小袖です、ご覧になりますか」
 笹の言葉に姫は首を横に振る。差し出された円座に片胡坐で座り、膝の上に細い顎をのせ、姫は切れ長の美しい目で笹を見る。
「笹は絹が嬉しいか」
 幼子のような問い。笹は直ぐには答えずに、そっと姫の肩を打掛で覆う。
「お休みになりませぬか、夜も更けております」
「うん、その前に、弥助を呼んでくれ」
 姫は言うと、自分の手の中の父の形見に目を落とした。

「お呼びで」
 暫くすると、廊下から低い声がする。笹が戸を開ければ、袴に藁屑を付けた大男が、うずくまる様に廊下に座ったまま言う。姫はその姿に微笑する。姫の下男でしかなかった弥助は、此度の戦働きが認められ、笹の家、香坂家の婿に入る。姫が笹と弥助が夫婦になれと命じたのだ。それをまだ承服できていない弥助は姿だけは士分となっても、厩の世話に明け暮れている。
「お前はまだ怒っているのか」
 涼やかな声で姫は言う。弥助が答えないでいると、「入れ」と姫は命じる。弥助はのそりと、重い腰を上げ部屋に入った。姫の前に座っても、弥助は俯いたままでいる。頑固な男だ、きっと真っ直ぐすぎて認められないことが沢山あるのだろう。それでも、姫は二人に伝えておかなければならないことがある。
「友納には、乳母も馬も連れてはいけぬ」
 勿論、お前もだ。そう言うように、姫は弥助を見つめる。弥助は膝の上の両の拳を、ぎゅっと握っただけで何も言わない。笹は姫の端正な顔を、ただ見つめる。こんな別れが来るなど、考えたことはなかった。笹は友納家から贈られてきた反物や紅を見回し、自分の視界が滲んでいくことに気付く。弥助は白絹の打掛を見た後、姫を見据える。
「姫には似合わない」
 弥助が呟く。姫は何も答えず、暫くじっと二人を見つめ、
「姫だとか殿だとか、そう呼ばれることが辛いと思ったことがある」
 姫は言うと、目を見張る笹に板戸を開けるように促した。漆黒の空には半月がぽかりとあり、弱い光で積もった雪に影を投げている。
「そう呼ばれる身であるから、この役目は私にしかできない。判ってくれるか」
 ひそりと、姫は呟いた。
 幼い時、姫は笹と姉妹のように育った。弥助のことも兄のようだと思った。それが、自分達の間に、主従というものがあると知った時、姫は最初の断絶を感じた。昨日までとは違うと判った時の、あの寂寥。その気持ちと心の距離は決して埋めることが出来ず、こうして本当の別れを迎えることになってしまった。それが、ただ、哀しい。
「これも貰ってくれ。父上の形見だ」
 水晶の数珠を差し出し、埋められない距離をせめて縮めようと、姫は明るい声で言うが、弥助も笹も何も答えない。弥助は大きな体を不機嫌に疼めたままでいる。笹の瞳からほろりと涙が零れる。姫はほんの一時、僅かに唇を震えさせると、くるりと二人に背を向け、脇息に凭れ雪に染まる館の内庭を一時見つめる。
「父上と母上はあの世で会えたろうか? 宗旨が違うから心配しておるのだ」
 明るく言うようにしたが、それは旨くいかず、姫の声はひび割れる。笹は姫の手から数珠を受け取り、その手を己の手で包んだ。冷たい自分の手と違い、笹の手はとても暖かい。
「入道様にもお方様にも叱られましょうが、笹は、逝ってしまった人が行く場所は同じだと信じております」
 柔らかな笹の声に、姫は一時目を閉じる。そうして己の右手を辻が花の小袖の左に掛けると、一気に袖を引き千切った。片袖を押し付けるように笹の胸に抱かせる。
「泣くなと育てられた。泣き方を知らぬ。お前たちに託した母上の形見を守ってくれ。そうして、時には私のことを思い出してくれれば嬉しい」
 姫の声は不思議なほどに乾いていた。その小さな美しい顔も、何の色もない。だが二人には言葉にも態度にも出せぬ、姫の気持ちが辛く思った。笹は堪らなくなったのか、にじり寄ると、その背に縋るように抱きつく。弥助は奥歯をぎりりと噛みしめるしかない。
「俺は姫から託されたもの、笹や、あの美しいるりだけではなく、この郷の田畑も、人も守っていけるだろうか」
 弱々しく呟いた弥助に、姫は穏やかな眼差しを投げ、小さく頷いた。
「姫様のことを忘れるものなどおりません」
 笹の声が、小さく転がっていく。姫は身じろぎもしないまま、薄い影を纏っている。

――皆、嘘つきだ。
 暗い深い場所からそんな声が吹き上がってくる。何処に立っているのか、何処にいるのかも判らぬ俺は、深淵の闇を両の腕を出して探ろうとする。この黒い中から抜け出したいのに、ぐいと強く引き寄せられる。振り切ろうとするのだが、恨めしげな低い唸りと、引きずり込むような力が、背中に覆いかぶさってくる。ペタペタとした小さな手が、腕から首へと這い上がってくる。その小さな手が首に食い込もうとした時、小さく金属のような悲鳴があがる。
――あぁ、浅ましい。 
 その声は己を哀しむような、嘲るような色だった。

「おはよう」
 目の前に嶽の顔。無精髭が怖いことになっている。ごくりと喉をならして、彼を避けるように体を起こす。そのまま這うようにすると、鞄を引き寄せる。畳紙に包み入れておいた、あの小袖と数珠を引き出す。もう一度触れたい気分にはならないが、先ほどまでに見ていた光景は目を閉じると浮かび上がるほどに鮮明だ。
「飛ぶときは事前に伝えろ」
 嶽は憎たらしく言いながらも湯呑みに麦茶を注いで渡してくれるが、受け取ろうとした時、なんだかいつもと違う感じを覚える。シャツの右腕を捲ってみる。何もない。左腕を捲ってみる。肘と手首との間、そこにくっきりと赤い五つの痣。人に掴まれたような形にしか見えない。どきりとして首元を探る。シャツの下から引き出したのは、紅い紐に繋がれた小さな木の札。子供のときから、一年が経つと必ず御室が俺にくれるお札。木札に、不動明王の梵字が刻まれているだけなのに。
 嶽を押しのけるようにして立ち上がると、高子さんの姿を母屋に探すが、いない。失礼承知で仏間に行くと、ちょっとだけ手を合わせ、分厚い位牌を引き出す。腕の痣はずきずきと痛んでくる。これはもう、最悪の一歩手前に近い。
「何してるんですか?」
 位牌の中に入っている札を取り出そうとした時、俺の後頭部を瞳子の声が叩く。強張った顔でいる。
「君のご先祖が知りたい」
「あの子は私のご先祖なんですか?」
 子兎のように瞳子が跳ねて寄ってくる。俺は微苦笑を浮かべると、首を横に振る。途端、瞳子の横顔に怯えたものが走る。
「何時から見えていたの」
 俺の問いに、瞳子は直ぐには答えない。かちかちと小さく彼女の歯の音がなっている。前髪を上げた白い額に、うっすらと汗が浮いている。俺の横に座り込んだ瞳子は、黙って仏壇の下から古い木箱に入った巻物を取り出す。
「父が」
 瞳子はそこで言葉を切ると、箱を開ける。「香坂家家系図」と巻物にある。彼女は暫く口を噤み、その巻物をするすると開いていく。その横顔に、笹と呼ばれていた少女の面影を俺は見つける。大きな黒い瞳は、今は不安で濡れている。
「マンションを建てた時です。十年ほど前になります。普段は穏やかな祖母がものすごく怒って、その件以来、父と祖母は色んなことで衝突しました」
 最初は、そう小さな綻びだったのだろう。計画が予定通りに進めば、倉の中身も処分することはなかったはずだ。
「お金を貸してくれた伯父の銀行は、土地を売ってしまえと。そんなことを言われたのは一度や二度ではないし、私もだんだんと家の中の事が判ってきました。一度借金を作ると、また土地を切り売りして、それの繰り返し。家の地所で、古い祠のある場所があります。大きな木が沢山あって、去年、そこを別荘地用に売るって父が言いだました、そこは私が大好きな場所なんです。私、父と大喧嘩しました。祖母も巻き込んで」
 その晩、瞳子は高熱を出して寝込んだのだという。その枕元に、初めて少女の姿を見たのだと。その後も度々、暗がりや倉の中で見かけ、彼女はそんな場所に近づかなくなったらしい。
「きっと、ご先祖様が怒ってらっしゃるんだと思います」
 至極真面目に瞳子が呟く姿を、俺は笑えない。俺は小さく頷くと、所々染みの浮いた巻物に書かれている沢山の名前を追いかけていく。そうしているうちに、面白いことに気付いた。
「君の家は、女系なんだね」
 俺はそう言うと、四代前までを指差して見せる。
「ほら、女性が婿を取ってる。君のお母さん、お祖母さん、曾祖母もそうだ」
 そうすると、次にこの家を継ぐのはやはり瞳子なんだろう。二人でどんどん香坂家を遡っていく。家系図の最初には、二つの名前が確かにあった。
「木戸庄大庄屋 香坂家家系図」。香坂松右衛門息女笹、その婿として弥助の名。二人の名前を見つめていると、瞳子がふと呟く。不思議そうに。
「あの女の子は、この笹という人ですか?」
 彼女の問いに、俺は首を横に振る。
「違う。この二人が仕えていた、おそらくこの辺りの領主の姫君だ」
「その人の名前は?」
 小さく首を傾げ、瞳子は俺を見つめてくる。俺はまた、首を横に振る。俺の横顔を見つめていた瞳子が、不思議そうに首を傾げる。俺は少し、身構えた。
「どうして、七海さんはそんなことを知っているの」
 童女のようなその問いに、俺はすぐに答えることが出来ない。ただ軽く曲がったままの左手を見つめ、俯くことしかできなかった。彼女にどう伝えよう。俺と、そうして恐らく瞳子は、何かの誰かの意思の中に取り込まれて流されている。降りることは簡単だ、この地を離れて忘れてしまえばいい。
 けれど。
 冷たい顔で佇み続ける少女の姿と、倉の暗がりの中で見た男の姿。あのひそりとする空気の中で、一人、背が曲がりかけた白髪頭の大男が童のように泣いていた。
――お許しください。これも家を、この地を守るためです。
 何度も、そう呟いていた。その思いを、瞳子にどう伝えればいいのか、俺には言葉がないのだ。

 その晩、嶽に思い切り蹴られて目が覚めた。文句を言うより先に飛び込んできたのは、辺りを真っ赤に染めている色だった。客間の襖を開け放つと、蔵の一つから火が噴きだしている。香坂氏が倉の鍵を開けようとしていた。
「おっさん、駄目だ、開けたら火が回る!」
 裸足のまま嶽は駆け出し、香坂氏の元に駆け寄ろうとするが、その瞬間、ばんと扉が開き、火柱が竜のように巻き上がる。香坂氏は間一髪、嶽に弾かれて火に巻き込まれなかった。消防団のサイレンが鳴り響き、夜の底を焦がすように燃え上がった火は、近くの木と、もう一つの倉の屋根にも落ちていく。
「ああ、燃える、燃える」
 へたり込む香坂氏をパジャマ姿の瞳子が引きずろうとしている。ちょっと油断すると火の中に飛び込みかねない勢いなのだ。
「火を消せ、火を」
 強く言いたいらしいが失敗し、香坂氏は瞳子に抑え込まれる。二つ目の倉から爆発音がし、屋根が吹き飛ぶ。熱さと舞い飛んでくる火の粉の下で、呆然としている香坂氏と瞳子の上に、俺は濡らしたバスタオルを被せる。嶽は瞳子を香坂さんから引きはがすと、自分の両脇に二人を抱えた。消防車の放水も空しく、屋根を突き抜けて吹き上がる火柱を、俺と嶽、香坂家の三人は見上げるばかりで、声を出すこともできなかった。
 鎮火したのは、夜が明ける頃になり、昇ってくる白々とした光の下に、焼け落ちてしまった倉の焦げた柱が、晒されている。倉に入っていたトラクターのガソリンに引火したせいで、火の手が激しくなったらしく、消防と警察が調べている。
「高子、すまん」
 煤だらけの香坂氏は高子さんに謝るばかりで、高子さんは真っ白い顔で玄関先に座り込んだままでいる。瞳子は焼け落ちてしまった倉の近くに、ぼんやりと突っ立ったままだ。嶽はその辺りに転がっている焼け焦げた箱や古い箪笥を、手にした棒でつついている。時折、古い陶器や磁器の皿が出てくるが、高温にさらされたせいか全部割れていく。
「火災保険が何ぼおりるかな」
 集まっていた野次馬の中から、そんな声を俺の耳が拾う。顔を上げれば、五十ほどの男性に瞳子が突き進んでいくのが見えた。その首根っこを押さえるように嶽。俺はできるだけひんやりとした目つきで集まっている人達を見回すと、後はもう視界から切り離した。
「先輩、僕は確かに捜査一課ですけど、火事は担当じゃないんですよ」
 瞳子を母屋に押し込めようとする嶽の後を、やせ気味の背の高い青年がついて行く。知り合いらしい。嶽はとにかく顔が利く、じゃない、顔が広い。二人は何かひそひそ話した後、青年は警官の群れの中に戻っていく。
「後輩だ。まぁ、なんだな、鑑識さんがいうには、漏電かもしれんということだ」
 極めて現実的な嶽の言葉。玄関扉の隙間から外を覗いている瞳子が、不安そうに呟く。
「うち、どうなっちゃうんだろう」
 それを決めるのは彼女の仕事のような気がしたので、俺も嶽も何も言わない。そんな時、後片付けをしていた消防団の人達から驚きの声のようなどよめきが上がる。
「香坂さーん、なんか、穴が出てきました!」
 若い団員が、長靴を鳴らしながら香坂氏に駆け寄っていく。瞳子と高子さんも出てきて、団員が指差す先を見る。皆が作業を止めて、その場に集まり始める。蔵の底には洞のような窪みが、木の扉でもあったらしいが、燃え落ちて、蝶番だけが残っている。そこにぽかりと人が一人程度入れそうな穴が空いている。
「入らないでください、危険です」
 消防隊の一人が声を上げる。埋蔵金でも埋まってるんじゃないか、野次馬の興奮の声を、警察と消防が追い払う。出火原因が判るまで出入り禁止ということで、黄色いロープが焼け跡には張られてしまった。
「こう災難続きじゃ、お前の疫病神の威力は物凄いぞ、七海。一旦、お暇するか」
 半ば本気で嶽の提案。言い返す言葉もないが、俺の左腕にしっかりと刻まれた指の後は消えるどころか、青黒くなっていく。そう、俺は憑かれたんだ。あの姫君に。彼女と、今やその記憶を結ぶ何かを忘れた香坂の人達を、一つの場所に結び付けなければならないに違いない。
「偶然が幾つか重なると、それはもう必然としか思えないんだよね」
「なんだって?」
「俺は、呼ばれたんだと思う、此処に」
「呼ばれてきたんだろうが」
「違う、あの姫に呼ばれたんだ」
 俺は言うと、目の前、焼け落ちた松の根元を指差した。三日月山を背後にして小袖袴の少女が佇んでいる。左袖のもげた辻が花の小袖。その姿は瞳子にも見えたのか、だが彼女は悲鳴を上げず、その姿を凝視している。
「俺には見えん」
 悔しそうな嶽の呟き。少女の姿は、幻燈のようにゆらゆらと儚い。
嶽、見えなくていいんだ。あんたは俺よりもっと真面な目を持っていて、生きていく中で何が大切かちゃんとその目で見てるじゃないか。俺はほろ苦く笑うと、彼を見上げる。
「もしさ、俺に何かあったら、御室をよろしく」
 俺が言えば、笑い飛ばそうとした嶽が怖い顔をして口を噤む。
「寝言は寝て言え、馬鹿野郎」
そんな彼の側を離れると、立ち尽くしている瞳子の背にそっと手を置いた。
「何か心残りがあるんだ。だからずっと、彷徨っている」
「ずっと、一人で」
「そう、思いを残した人は独りで彷徨う」
 瞳子が、一歩、その少女へ近寄る。名前さえも忘れられた姫は、ただ能面のような白皙に、何の色も浮かべないまま佇んでいる。貴女の名前は? 瞳子の小さな問に、その姿はゆっくりと消えてしまうのだった。


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