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花闇

 小さな村の外れにある、まるでその地を見守るような桜の木は、身を大きく捩った太い幹をしていた。一度、落雷に引き裂かれたというが、それでも枯れることはなく、二股の大きな木となって、村を見下ろす。枝は薄紅色に染まり始め、あともう少しもすればこぼれんばかりの花を咲かせるに違いない。枝をよく見れば、小さく固い蕾が時を待っていた。
 夕闇の迫る頃、その木の根元で一人の女童が声を押し殺して泣いていた。派手な紅色の小袖を着て、唇と目元に紅をさしているが、まだ愛らしい顔(かんばせ)には、幼さがある。ひーひー、とまるで苦しむ小鳥のような声で、少女は己の肩を両手で抱いていた。その目の前に、ひいらりと、一輪の桜花が舞い落ちてくる。少女は気付かない、するとまた一輪、今度は涙で濡れた手に張り付くように落ちてくる。ほのかに淡い桃色をした花弁に少女が触れた時、少年の声が頭上から降ってくる。
「やれ、せっかく月の出を待っておるのに。薄気味の悪い声で泣かれては風情もなかろう」
 乱暴な物言いに、しかし棘はなく、見上げた少女のその上には、白い水干を纏った者が太い枝の上に寝転がっていた。少女を見下ろすその顔は、しかし、白い布に覆われている。目の辺りだけがくり貫いてあり、その白面には金色の目が四つもあるという、まるで方相氏のようだった。
「童、いかにした」
 声はまだ女のように澄んでいて、草履の両足をぶらぶらとさせながら聞いてくる。少女は涙を小袖で拭うと強気を装い見上げた。
「手を打たれたな」
 少年は笑いながら、少女の手に走る蚯蚓腫れを指差す。もうそう言われると、また涙がこみ上げてくる。
 少女は、田楽を生業にしている。家はなく、猿楽一座と共に、季節ごとに馴染みの村々を回り、春には桜を讃え、夏には田に力を与え、秋には収穫の喜びを歌い、冬には新しい幸いの年を願う。身よりのない少女は鈴ふりの田楽舞いを仕込まれているのだが、もう十二の齢になるのに、少しもうまくはならなかった。
「ここに田楽舞いが来るのは久方ぶりのような気がする」
 少年はそう言って、水干の懐から笹笛を取り出す。面をわずかに持ち上げて唇に当てる。薄く形のよい唇が見えた。ぴーと吹き出された笛の音は、覆い始めた闇を一直線に貫く澄んだ音だった。
「どれ、舞ってみよ」
 いきなりの言葉に、少女はおたおたとして、立ち上がった時に袴の裾を踏みつけてしまう。転げそうになった彼女を抱きとめた少年の体からは、仄かに桜花の香りが漂っているような気がした。
 春の宵を裂き、笛の音が流れていく。少女が足を踏み出し、手を振ろうとする度、少年は笛を止めた。
「笛の音を聞け、慌てずにな。神に捧げるのに、お主が楽しくなくてどうするのだ」
 そんなことを言われるが、生まれてこの方、舞いを楽しいと思ったことはなかった。不貞腐れ、座り込んだ少女を気にした様子もなく、少年は再び唇に笛をあて、それはそれはえもいえぬ、美しい音を溢れさせる。桜の木が、風もないのにわさわさと蠢いたような気がした。そっと目を閉じ、扇を翻す。鈴を回し、澄んだ音をならす。いい音がした。思わず、唇に笑みが張り付いた。やがて短い一曲が終わると、少年は笛を水干の袖に仕舞う。少女は少年に、ふと歩み寄った。だがそれを避けるように、顔を白布で隠した少年は身を引く。
「毎晩来い、稽古をつけてやる。さぁ、戻るがいい。この道をまっすぐだ。振り返るなよ」
 少年の指差す道はほの白く光っており、闇を切り取っていた。少女はその道に踏み出しながら、
「あたし、すずな」
 不器用な己の物言いを恥ずかしく思いながら、少女が訪ねるが、少年は答えず、早く行け、そんな風に手を振った。

 芸を鬻いで生きている一門では、子方も大事な働き手で、綺麗な女童や童には早くからお客が付いた。ある日、すずなは棟梁に言い渡された。このまま芸がうまくならぬのならば、後二年もすれば客を取らせると言われた。元より、一座が拾った女が生んだ子。ただ顔の造りが美しく、座におかれている。すずなはそれを理解していて、何も言うことが出来なかった。冷たい板間で掻巻にくるまっていたすずなは、皆が寝静まった気配にそこから這い出た。一座の夜は早い。遅くまで起きていても腹が減るだけなので、早々に寝てしまうのだ。あの少年との約束を果たす為に、すずなは寺の外に出た。
 細い三日月が高い天にある。闇は深いはずなのに、何故だか行く道ははっきりと判る。そうして桜木は、淡く仄かに光っているのだ。
「怖がって来ぬかと思った」
 みしりと花をつけた枝の下で、すずなが辺りを見回していると、その上から声が降ってくる。見上げると、少年がぶら下がっていた。顔を覆う白い布が捲れて、白磁のように白い美しい顔が見えた。そのあまりに美しい面立ちにすずなが見とれていると、少年はふわりと前に下り立って、彼女のおでこをぺしと叩く。
「時がない、急げ」
 そう言って、再び面布で顔を隠した少年は懐から笛を取り出し、そう言うのだった。
 一時は、本当に短い。けれどもその時間が、すずなは生まれて初めて楽しいと思っていた。すずながうまく舞うことができれば、少年の笛の音も嬉しそうに弾む。そうして時はすぐに立つのだった。
「あげる」
 帰りしな、すずなは土産にと、厨から持ち出した粽を一つ、少年に差し出した。だが少年は手を出すこともせず、小さく首を横に振った。
「俺には必要のないものだ。お主が食え」
 そんな答えを聞き、やはりそうなんだと、すずなは思ったが、少しも怖くはなかった。
「明日も来い」
 少年の言葉にすずなは頷き、粽を頬張りながら道を歩いた。あの子の顔は、死んだ母者に似ていると気づき、振り返りそうになる。だがその気持ちをぐっと堪えた。

「お主は毎夜、何処へ行っているのか」
 何時ものように出かけようとするところを、棟梁に見つかってしまった。耳を掴まれ引きずられても、すずなは頑として口を開かない。
「今宵は出かけることはならぬ。明日、名主様がお前の芸を観たいとお言いだ」
 すずなはその言葉にはっと顔を上げる。名主への目通りは、客を取る為の準備でもある。「嫌だ」その言葉が喉の奥から駆け上がってきそうになるが、否といえば一座から放り出される。この乱世、己は生きていける自信がない。すずなは膝の上で握りしめた、己の小さな拳を見つめる。その上に、ぽたりと涙が一つ零れた。
「外に出てはならぬ」
 棟梁はそう言うと、すずなを部屋に閉じ込めてしまった。それはあの子との約束を違えてしまうことで、おそらく、いや多分、あの子が人の子でないと判っていても、己にとっては、初めての友垣なのだ。
「お嬢、腹は減っていないかい」
 夜も更けた頃、しわがれた声がして、戸板が薄く開く。そこから差し出されたのは、椀に入った粥だった。すずなはその手の先にある、媼の顔を見つめる。何時も可愛がってくれる媼の曲がった背を見つめる。すずなは椀を優しく媼に押し返すと、深く頭を下げた。
「すぐ、戻ってきます。もう勝手はいいません」
 そう言うと、媼の横をすり抜けて、裸足のまま外に飛び出した。
 ほの白く光っていたはずの道は、暗闇にのまれていて、何度も転びそうになりながら、仄かに浮かび上がる桜の元へとすずなは駆けていく。だが、約束の時分はとうに、過ぎていた。名前を知らぬ少年を、なんと呼べばよいのか判らず、すずなはやがて桜の木の元に座り込んだ。いつの間にか、一筋涙がこぼれたが、拭うことはしなかった。

 次の日、寺の堂には座が設けられ、近在の名主方が集まっていた。すずなは何時もは身に着けることのない、絹の衣裳を身に着けて深く、その方々に頭を垂れる。棟梁には、上手くやればいいことがある、と言われているが、それが何の事なのかすずなは知っている。
「少し幼いが、見目良いではないか」
そんなひそひそ声が聞こえる。心もとない寂しい気持ちで座の裾にふと目をやったすずなは、大きく目を見開いた。総髪に浅黄色の水干姿のあの少年が笛を片手に澄まして座っている。煌めくような白皙で、女子のように美しい。紅く薄い唇はほんのりと笑いに染まっている。
「新しい笛方も、今日はお披露目にございます。お気に召しましたらば、是非に」
 棟梁が言えば、少年は小さく笑い薄い唇に笛を当てた。この謠はすずなは知っている。先の年に亡くなった一座の爺さまがすずなに教えてくれた、「善知鳥(うとう)」だ。すずなは袖を一つ降ると、若者の笛と共に、たんと足を踏み鳴らした。
「なんと」
 すずなの声の通りの良さと立ち姿の美しさに、声が漏れる。棟梁は呆けたように見上げていた。鼓方も叩くことを忘れ、少年の笛の音とともに舞うすずなを見つめていた。

「あの二人を都に昇らせよ」
 見惚れた名主は座が終わると棟梁にそう言った。自分の懇意の大名にすずなの舞いと、少年の笛を聞かせたいというのだ。
「ありがとう」
 寺の階に腰かけて、すずなは言った。自分の運命を変えてくれた少年は、三日月を眺めていた。すずなの膝の上には粽が二つ。やはり、この世の食べ物はこの子には無用なのだ。そう思うと、すずなは少し、悲しくなった。
「似合うておるぞ、その姿」
 少年は水干姿のすずなに目を細めた。すずなは何も言わず、粽にかぷりと食いついた。
「舞も歌も、俺が思うていたより上手いぞ」
 すずなはもう一口、かぷり。その様に、少年は優しく微笑んだ。
「お主、何も聞かぬのだな」
 そう、言う。聞かぬのではなく、聞きたいことが山ほどあり、どう言葉にしてよいのか、今のすずなにはわからないのだ。それが彼にも伝わったのか、やがて寺の甍の向こうに見える、ほんのりと光を纏う、あの桜木を指さした。
「おそらく俺は、あの木の根元で死んだ童なのだと思う」
 少し寂しそうに少年は言う。すずなはその横顔を見つめる。弱い月の光、彼の影はない。
「花の頃であったろうか、俺が儚くなったのは」
 少年はそう呟く。桜の花が己の上に降り積もり、少しずつ闇に沈んでいったのだと、そう言うのだった。
「母者なのだと思う、腹の大きな女が俺の手を引いて、此処で待っておいでと、そう言うたのだ。だが、こない。ずっとこない」
 少年は言いながら、懐を弄る。笛とそうして小さな木の仏。その仏は半身が欠けている。それを見た途端、すずなは思わず立ち上がった。自分の懐から、手の油で黒く光る欠けた仏を取り出す。すずなの手は震えていた。
「死んだ母の形見。これしかないの。これだけは、母は捨てなかったの」
 その途端、少年の両目がくわっと見開き、その赤い唇からにゅうと二本の牙が見える。それを少年は袂で隠すと、
「嗚呼」
 嘆くように呟き、すうと姿を消してしまった。
 母者は私の前に、兄である子を捨てたのか。すずなは泣きながら、媼を探した。媼が言うに、身重の母は道端で倒れているところを棟梁に拾われたのだという。
「ほれ、あの桜の近くの道だよ」
 指差された場所は、初めてあの少年と出会った場所だ。
 夜の道を、すずなは走る。三日月の弱い光りに道は仄かに光っている。丘に立つ一本の桜の下は、薄紅染まっている。はらはらと桜は雪のように降り、すずなは涙を頬に零しながら、桜の足元の草の根をかき分ける。歳月を経た桜の根は絡み、そうしてその中に、すずなは小さな白いものを見つけた。
 小さな、小さなしゃれこうべがそこにあった。朽ちた笛が、白い骨に寄り添うようにあり、苔むした半身の仏が草に埋もれていた。桜の花は散々に降り積もり、すずなは花の闇の中で、ただ何も言えずその場にうずくまると、草に額を押し付けて、泣いた。声も失く、泣いた。涙がしゃこうべの上に落ち、その骨にそっと染み込んでいった。
 桜の花が風に舞い散る頃、一座は幟を立てて里を離れた。陽に焼けぬようにと市女笠を被り、馬の上にいるすずなは、そっと丘を見返る。自分は三人分、生きねばならぬ。すずなは思い、朽ちた笛を懐の中で握る。母者と死んだ小さな兄の分も。また来ることがあるだろうか、この里に。花闇の中で聞いた美しい笛の音を、忘れまいとするように、すずなはそっと目を閉じた。


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