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蛭川(ひるかわ)団地C号棟



1.101号室(魚男)


配達員のバイトをしている。今日も荷物を運びチャイムを鳴らしたが押しても鳴らない。壊れているようだ。しかたなく玄関のドアをノックした。
コンコン。
すると中から「はいれ」と低い声がする。ドアノブを回すと開いた。玄関で待っているとまた「はいれ」と奥から声がする。
靴を脱いで上がるとそこに頭が魚、身体が人間の着物を着た男が和室に座っていた。
大きなヘッドホンをして何かを一心不乱に書いている。
「荷物をそこに置いてくれ。」と魚男はあごで指示した。
「サインをいただけますかね。」というと、シカトされたので僕は机にペンと用紙を置いた。
「あの、すみませんがここにサインを。」もう一度僕が念を押すと、魚男はものすごく汚い文字で用紙に名前を書き殴った。難しい漢字が三文字並んでいる。「阿僧祇」あそぎ?あそうぎ?何と読むのだろう。
「すまんが頼まれごとをしてくれんか。」魚男はくしゃくしゃになった原稿用紙に、半分身体が埋もれているような状態でペンを走らせながらそう言いだした。
めんどうくさいなと思ったが「なんですか。」と聞いてみる。
魚男はようやくつけていた大きな黒いヘッドホンを頭からはずして机に置いた。置かれたヘッドホンからは大音量でヘビメタっぽいロックがシャカシャカ音を立てていた。
「その箱の中にある新しい電球を古いのとつけかえてほしい。」と魚男はお願いしてきた。
「いやいや、それはご自分でやってくださいよ。」
そう、仕事中の僕も暇ではないのだ。
「そういわずに頼みますよ。」
魚男が死んだ魚のような、うつろな眼をして訴えてくるもんだから、僕はしかたなくひきうけて電球を取り換えようとして
「ちょっと椅子を借りますよ。」と台所に向かった。僕は台所に入ることができなかった。なぜなら大量の青いビニール袋で台所が天井までいっぱいに埋まっていたからだ。しかたなく脚立のかわりになる何かをさがしてベランダに出てみるとそこに生首をみつけてしまった。
「こんなところに首がおちていますが放っておいて大丈夫ですか。」ほんの少し動揺を隠せずにおそるおそる聞いてみると
「大丈夫大丈夫。そいつは前のわたしの首なんだがゴミにだすのもなんだか気がひけるからそのままにしてある。」と魚男は言った。
「青いビニール袋の中身あれはなんですか。」
「あれはビニールを食って死んだマグロだよ。」僕はちょっと居心地がわるくなったのでさっさと電球をつけかえて立ち去ることにした。
電球を回してねじこみ、電気のスイッチをオンにすると、妙なことに先ほどよりも暗い。
「もしかしてワット数を間違えましたか?」
と尋ねると、「見づらいほど暗いほうが助かる。」と魚男は僕に一通の封筒を差し出して、謎めいたことを言い出した。「見ても楽しくないものが多すぎるのでね。」魚男は深いため息を一つ吐いた。そしてこう続けた。
「最近来た手紙なんだが、ものを書いたことのないファンだと、自称する人間ほど、やれ書き方が変わったとか、どこそこがおかしいだとか、つまらんだとか勝手ないちゃもんをつけてくる。」
魚男は話し相手に飢えているのか、積年の間に、溜まりにたまったはけ口のない文句を言いたそうだった。長くなりそうだなと思った僕は
「それでは。」と出ていこうとすると
「助かったよ。ありがとう。」と魚男は一万円を渡そうとするので
「いやいやお気遣いなさらずに。」というと魚男の片ほうの眼球が「ポロっ」と落ちて転がっていった。

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