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西洋の天才たち

今日、初めて上野公園の中にある国立西洋美術館(The National Museum of Western Art)に行ってきた。

本館は世界文化遺産に登録されており、日本で唯一のル・コルビジェの建築である。

上野公園内の人出はコロナ前よりも多いと思うくらいだった。
ウォーリーを探せの絵本の中に迷い込んだような感じ。ここに一人くらいドッペルゲンガーがいても絶対に気付かないだろうなと思った。
動物園も近くにあるせいか家族連れやカップルが多く、親の横で泣きわめいている子供や、妙に冷静な眼差しで自分と目が合うベビーカーに乗る赤ん坊など、さまざまだった。


美術館の中も老若男女でごった返していて、ネットで当日券を予約できるのに、窓口で当日券を買いに並ぶ行列ができていた。
アナログ派は結構まだまだいるのだなぁと、新幹線の切符の窓口を見ても思う。
(自分はペイペイこそ使っていないが、2020年に初めてスマホを買い、最近ようやく新幹線、美術館、映画館、ホテルの予約ができるようになった。)



展示はベルリン生まれのユダヤ人(Heinz Berggrün ハインツ・ベルクグリューン)の個人コレクション。
主にピカソとパウル・クレーとマティスだった。

僕はパウル・クレーが全ての画家で最も好きである。
芸術の中の芸術というか、同じ人間がこんなにも異次元のような世界を構築できるのかと驚嘆してしまう。それでいて意味不明ではない余裕があり、何かストーリーを想像させる。
ロジカルな思考から芸術的な無意識の世界への飛躍し、その間を自由に行き来して調整して描く能力がある。最も偉大な芸術家だと思う。

特にクレーは自分のイメージをスパークさせるのではなく、見る側に理解できるようにレベルを合わせてくれているよう気がして、それが彼の優しさのように感じる。小さい絵が多く、モチーフをコンパクトに描いて心象風景みたいな絵が多いところも好きな点である。

Radioheadのアルバムで例えると「Hail To The Thief」のようなもっとマニアックな音作りだって出来るのに敢えてキャッチ―さを維持してくれる感じである。
ウイスキーで例えると「グレンリベット12年」の複雑だが癖のない、かといって全然つまらなくない、甘みと温かさが優しく広がる感じが似ている気がする。



今回の展示は見た事のない絵ばかりだったが、保存状態もよく、会場のレイアウトやライティングも素晴らしかった。
クレーには日本の鴨居玲や岸田劉生みたいに苦しんで描いている感じがあまりなく、こんこんと湧き出るイメージをトレースしているような余裕を感じた。

クレーは松本峻介に近い感じがある。松本峻介は日本の画家で一番好きかもしれない。
佐伯祐三も好きだが、ちょっと詩人みたいな儚い感じが強い。
松本峻介も詩を書くが詩人的ではない。ロジカルな構図とデッサンをベースに急にデフォルメされた人間のラインを描ける芸術の世界の住人だと思う。

日本の特に昭和時代の画家や文豪たちは、自分を追いつめて苦しみ過ぎているような気が、最近はしている。
今日見た、クレーもピカソもマティスもおよそ100年前の絵とは思えない昨日描いたようなみずみずしさがある。そこに苦しみもあっただろうが、苦しむことを目的にしていない感じがある。

岸田劉生の自画像の連作を見たことがあるが、明らかに煮詰まって描くものがなくて自分の顔でも描くか。みたいな感じでしがみついている印象を受けた。なんか、サラリーマンっぽいというか、伊藤忠商事の本社ビルの外壁みたいな堅苦しい茶色を多用している感じがあまり好きではない。
クレーの方が人間をいともたやすく辞めて、芸術の住人になっている。そこが日本と西洋の違いである気がした。

ピカソもマティスも「ザ・天才」みたいなイメージを持つ人は多いのでないだろうか。
ゴッホは生前一枚しか売れなくて短命で、どこか日本の文豪っぽい生き方をしている。

自分がどうなりたいかはよく分からないけど、誰かの作品や生き方、歴史を学ぶことは有意義で、楽しい時間だった。

小説を書きまくってます。応援してくれると嬉しいです。