見出し画像

横尾忠則展 余白がある幸せ

今日、ネットでチケットを予約して美術館の展覧会に行った。
東京都現代美術館で開催されている横尾忠則の展覧会と、若手作家らによる映像作品の展覧会だった。どちらも素晴らしい展示だった。

画像1


例によって美術館には入場制限が設けられているので、日曜の昼前にも関わらずチケット売り場はもちろん絵画の前にも人だかりがなく、じっくりと観ることができた。

コロナ前の東京の土日の美術館といえば、印象派やダリやフェルメールといった著名な画家の展覧会となるとチケット売り場には行列ができ、30分くらい入口の前で待ったうえに、展示室の中も満員電車のような状態だった、
そんな中、眼前で著名な絵画を観れるのはせいぜい10数秒程度だったが、今日行って来た展覧会ではそれがなかった。

チケットを買った時の予約状況は売り切れ寸前の状態だったので、今日僕が行った時に見た人の量が、展示室に入れる最大人数に近い人数だったのだろう。大体10平方メートルあたりに3名くらいしかいいない感じだった。
少し混んでるコンビニのような人口密度だと思う。



横尾さんの展示の感想だが、
もう圧倒的としか言いようがないと思った。

絵を描く為に生まれてきたというか、使命があるというか、洪水のようなエネルギーをどの作品からも感じた。
展示室の中央に置かれている椅子に座って、壁に掛けられた十数枚の大きな絵を一望すると、妙な幸福感が訪れた。

描かれているモチーフの意味、意図、ストーリーなどは詳しくないのでよく分かっていない。が、ビビッドな色彩、緻密な書き込み、ダイナミックなレイアウト、込められたエネルギーが猛烈であるということは僕でも理解できた。それを一望した時のなんともいえない幸福感があった。

それも、展示室に人が少ないからこそだろう。
少し前だったら、中央の椅子に座ってもそれぞれの絵画の前に人だかりができて、絵画の下部が見えないし、一望とは言い難かった。そういう意味では、入場制限せざるを得ない状況は経営的に苦しいかもしれないが鑑賞する上ではメリットだと思った。

大学生の頃から横尾さんの存在は知っていたし、数年前は横尾さんがよく来る中国料理屋でバイトして、横尾さんが現れないか期待しながら働いていた。(結局僕がいる日に来店されることはなかった。横尾さんがよく頼むメニューは食べた。美味しかった。)

横尾さんが絵画で定期的に繰り返しているモチーフとして、
首つり、城のお堀を泳ぐ女性、滝、Y字路 がある。

これらを定期的に描くことで自分の現在の位置を確かめている、または過去の自分を破壊していくのに用いているように感じた。


首つりは、大きな絵画の中に、首を吊った男性らしき人影が小さく描かれていることが多い。定期的に古い自分を画面の隅でサクッと抹消して、否定し、次に進もうとしているポジティブな印象を僕は受けた。

自分が死ぬ夢が、新しい自分へ成長しようとしている時にみがちな良い夢である。と夢占いのサイトで読んだことがあるが、それに近いのかもしれないと、勝手に思った。
(僕も、社員をやっていた時に仕事が猛烈に嫌で辞めたくて、逆に開き直った時に自分が突然死ぬ夢を見て、翌朝目覚めたこと自体が不思議で妙にスッキリした気分になった日のことを思い出した。)


城のお堀を泳ぐ女性には横尾さんの画家人生が投影されていると感じた。プールでもないどこかの日本の城(多分皇居)のお堀を全力でクロールしているピンク色の肌の女性。筋肉質な体つきだが、目は血走っていて苦しそう。目的や価値が不明な限界に挑んでいる感じがする。それが画家人生そのものであると同時に、それでも俺は描くんだという覚悟を感じる。

そこに、苦しみはあるのに、ドロドロとした淀みがなく、画面構成のまとめかた、描いているモチーフに画家自身が魂を吸収されない距離感が絶妙だと思った。
目は血走っていて少し怖いのだが、グロテスクとは違う、どこかポップで、でもポップ過ぎず、ポスターではなくどちらかというと「絵画」の中の「自画像」として描かれた作品なのかなと思った。

(鴨居玲という洋画家(故人)がいて、本物は観たことがないけれど、あの人の絵からは本人の苦しみがダイレクトに出ていると感じる。モチーフと自分自身が直結していて、絵の出来高で生死が決まるような描き方だと感じる。横尾さんにはそういうヒリヒリ感はあまりない。)


も同様に、横尾さんのインスピレーションの源泉だと思った。
どんだけ描くねんと、思うくらい滝をモチーフにした絵が多かった。絵を描く時に使った滝の写真が何千枚も展示された部屋もあったが、それもすごかった。滝のように、というか自分自身が滝になってる。と絵を見せて思わせる。このおっさんすごいなと思った。
描いているモチーフの中では一番、社会的な野心というか、俺は誰も描いたことのない滝を描いて自分の凄さを証明してやる。というエネルギーを感じた。
滝の描写やその周りにコラージュされた小物たちは少しアカデミックな描き方というか、基本に忠実な感じで、素人が部分的に観ても「この人は絵が上手いんだ」と認めざるを得ないように描いているようにも感じた。
その分、レイアウトとコラージュがキュビズムとポップアートの中間のような感じで、それがバブリーな時代の日本特有のデザインにも思えた。



Y字路は僕が一番好きなモチーフだった。横尾さんが実際にどこかで発見したであろうY字路の絵である。
横尾さんの絵の中ではわりと写実的で、淡々としたリアリズムなようで、分かれ道の奥に死や過ちが潜んでいる気がした。
道の向こう側は両方とも大抵暗く塗られており、どちらを選んでもそれほどポジティブな結果は得られない。という印象を受ける。両者の違いは坂道の先は暗いが、片方は道の勾配が少し上がっていて、もう片方は道の向こうに工場の煙突があったりして、おそらく意味が異なる。

そういう現実的な表現が男性的というか、どちらを選んでもそれほど大きく幸せにはならない。と理解した上での分かれ道(Y字路)である。という思考のもと描いている気がした。道はありふれた地方都市のアスファルトだが、「止まれ」の文字などは鋭くデフォルメされていて、観ていて身の引き締まる思いがある。



総じて、この人は基礎力が圧倒的で、制作ペースも尋常でなく、定期的に描くモチーフも軽いもの(多分、お堀)からシリアスなもの(多分、Y字路)まで幅広く持ってるから描くものがなくなることがない。
芸術家でありながら、ポスターデザインの仕事もあるし、無限に描いて、おそらく稼げる状態になっている。盤石な企業の四季報のデータを見ているような気分になった。


展示の最後に、2018年に描かれた大きな自画像があった。
これが最高だった。本当に最高だった。
絵は思ってたよりも大きくて、真っすぐな眼差しと顎に当てられた聡明な右手(多分絵筆を持つ利き手)が最高だった。ゴッホを真似たタッチなのかもしれないが、完全に横尾さんのものになっていた。元気が出た。
自画像ってなんで描くのだろうと正直思ってたけど、こういうことかと思った。今の俺の考え方はこうだぜ。という表明だったのだ。
それが、今回の自画像では横尾さんの確信に満ち溢れていた。
「アイアム・絵描き」な感じ。最高だった。

画像2


その後、別の階でやっていた映像作品の展示を観た。
そちらはさらに空いていて、貸し切りに近いような感じだった。
展示室は広く、薄暗く、映画館のようで、場当たり的に配置されたスクリーンは横に長く、波打ち際の映像が延々と流れていた。
特に印象的だったのは「波の収穫」という映像作品で、ダンボール箱を持った男が砂浜の波打ち際に行って、ダンボールに波を入れようと試みる映像だった。
勿論、波をダンボールに入れて保存することなど不可能である。男は押し寄せる波をなんとかダンボールに入れようとするが波の力に押されて倒れ、段ボールが流されてしまう。それを何度も繰り返している内にダンボールは海水が染み込んでヘロヘロになり、バラバラになり、流されていく。
男はその破片を集めて引き上げる。という映像がループしていた。

作品に対する説明や意図も殆どなく、ただただ男が失敗していく映像を鑑賞する作品だった。だから何?ということもできれば、人間の欲望を体現した作品ともいえると思う。作家からの説明はない。
そういう鑑賞行為に能動性を無言で求めてくるスタンスが令和において堂々と行われていることが僕は嬉しかった。

その後、別の作家の映像作品があった。
そちらはショートムービーみたいな感じで、海の作品と同じように、間や沈黙が長く、気の短い鑑賞者なら途中でスマホを開くか退席したくなるようなテンポの作品だと思った。でも、それは作者は100%承知した上でそれを作ってると僕は思った。試されている。試しています。という関係。

ショートムービーは1カットが長く、日常の光景を長回しで映すので、一般的な商業映画とはテンポが明らかにゆっくりになる。普段そういうテンポには慣れていないので、どうやってその時間を過ごせばいいのか分からずに困惑してしまう、というか退屈に感じてしまう。その時に僕は作者から「お前はこれを見続ける意味を探せるか?」と試されている気がした。

どう考えてもわざとやってる演出で、そういう映画を観てすぐに退席するのは、辛く作った料理に辛いっすよとクレームをつけるのと同じだと思うのだ。
映像作品なのに映像が日常と同じテンポ感でしか進まない時、もどかしく感じてしまう。その時に自分が日々感じている心地よいサイクルというものがどんどん早く、せわしなくなっていることに気付かされる。
美術館にいる時くらい、時間をゆっくりと使って鑑賞する。そしてその時に、対象と向き合えるような心に余白を持ちたいと思った。
僕も正直、我慢しながら映像が終わるのを待つような気持ちもありつつ観たけれど、それでも話としては結末もあったし、ゆっくりと進む映像を見ることでしか得られない思考もあると感じた。

こうしてnoteの記事を読む時の思考速度と明らかに違う。薄暗い、人気の殆どない広々とした地下の展示室で、よく分からない映画を見せられる。
自分ってなんなのだろうと考えながら観る。観終わった後、意外と時計の針は進んでいなくて一日が長く感じたし、頭が少し柔らかく、すっきりとしたような気持になった。

小説を書きまくってます。応援してくれると嬉しいです。