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諏訪敦展に行ってきた


日曜美術館で知った諏訪敦

諏訪敦さんの本物を見るのは今日が始めてだったが、10年程前に自分が大学生だった頃、日曜美術館で諏訪さんの特集がやっていて、録画したものを何度も見ていた。
その時に諏訪さんのスタイルである「超写実絵画」とはここまですごいのかと、びっくりしたのを覚えている。

特集の内容は事故で若い娘を亡くした両親が、諏訪さんに娘の肖像画を依頼し、その制作過程をテレビが追うというものだった。
描くのは一枚の肖像画なのだが、取材や習作の量が尋常ではなかった。
娘さんを描くにあたって、両親の顔をデッサンしたり、顔の形を知るために両手で両親の顔を触ったりしていた。
また、娘さんの手を模した義手を作成し、それをモデルというかベースに肖像画の手を描いていた。

また、ただ似せるだけでなく、両親にとっての救いや希望となるような表情とは何か。といったことを考えながら制作していたように思う。
写真とは違う、でも限りなく写真に近い緻密な絵画である意味は何か。をかなり悩んでいた。


出来上がったのは素晴らしい肖像画だった。テレビの画面越しにだったが、それははっきりと輝いていた。
笑う少し前の、唇の片側が上がりかけているようなやさしい表情。頬が少しピンク色っぽく緊張しているような恥ずかしいような、あらゆる受け止め方ができる表情だった。

ポーズや表情、服装などはおそらく諏訪さんのオリジナルで、肖像画では娘さんが文字盤のない真っ白な腕時計を両手でこちらに向けて見せている。というポーズだった。これが、僕としては非常に衝撃的で、胸をつかれたような感じがあった。
文字盤のない時計。は死を意味する。しかも時計の周りには白い煙のようなものも描かれている。それを堂々と見せつけるのは残酷なのではないか。という気がして、両親は大丈夫なのか。と思ったりした。

しかし、両親はこの絵に非常に満足していた。というか絵の前で感動して泣いていた。なんか、画家ってこんな誰かの人生の大役を担うことがあるのかと、心底驚いたし、絵画一枚でそこまでできる諏訪さんの力量はすごすぎると思った。


両親としては想像していたよりも明るいタッチの絵だったこと、そして、自分以外の他者が自分の娘のことをこういう存在、こういう明るさを持つ人間だと思って見ている。ということが特に嬉しかったようである。

絵画なしでは両親だけでは到達できなかった、娘さんを見つめ直す視点である。
他人の中にいる自分の娘を絵画を通して観ることで、娘が他人の心の中にもいることが分かる。そういう意味合いがあるような気がした。

絵画の出来というか、完成度に関しては本当に「お見事」としか言いようがない仕事ぶりで、おそらく番組の解説の人も同じようなことを言っていたと思う。
そんな仕事をやる諏訪敦さんの展覧会なので、素晴らしいに決まっているのである。

展覧会の感想

前置きが長大になってしまったが、実物の諏訪敦の絵ももちろん素晴らしかった。とにかく人の「手」を描くのが上手い。上手すぎる。
モデルみたいな健康な女性の手も上手いし、病気の高齢の人の手を描くのも圧倒的に上手い。しみや皺、蒲鉾型にカーブした爪。でもただ写実的に模型を描いているような感じではなく、描きたい絵のためにそういった技術を動員しているに過ぎない感じがある。

彼が描く絵は写実的でリアルな絵だが、伝えようとしている事柄は抽象的な絶望だと感じる。人間が歳とともに積み重ねていく果てしない質量の、過ごしてきた時間、蓄積、歴史、すべてを一枚に閉じ込めようと手を尽くして試みるが、やはりそんなことはできません。それくらい人間は複雑で深淵でわりとどうしようもない生物です。みたいな事柄である気がする。

そうやって逆説的に人間の複雑さ、カオスの巨大さを訴えようとしているように感じる。でも、諏訪さんのカオスは破壊的なものでもなく、もっと淡々としている。
飽くまで諏訪さん自身は冷静というか、扱っているテーマや事象に対してどっぷりつからず魂を削ってはいても吸い取られるような取り組み方はしていないと感じる。
そういう意味で一生書き続ける覚悟というか、腹の決まっている印象を受ける。

少し前に見た、新海誠のすずめの戸締りからも同じような、ずっとアニメ監督やるよ、という覚悟のようなものを感じた。
このような、素晴らしいクリエイターがいる世界に生きられ、しかも実物を観に行けて幸せである。

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