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「春を握りしめて」 短編小説 前半

2020.5.6の文学フリマ東京で新刊として販売する予定でしたが、中止になってしまったので、note上で初公開することにしました。


 私は昨日、二十歳になった。彼の家に行ってケーキを食べて、プレゼントにはマフラーをもらった。茶色のラインが入ったマフラー。私はありがとうを言い、彼にキスをした。それから電気を消して抱きしめてもらった。
 この日に彼の前で泣くと思っていたのに、ケーキが美味しくてプレゼントも嬉しくて、あっさり眠ってしまった。私の命は二十歳になるまでに悪魔が食べに来ると思っていたから、彼が「僕は君の悪魔だったんだよ」と言えば私という物語はおしまいになるはずだった。でもそんなことは起こらなかった。翌朝、彼の寝顔を目の前にして目覚めた。涙が止まらなかった。

「予想したようにはいかないね」爪の甘皮を見ながら言った。
 その後「子犬みたい」と言った。彼の寝顔は本当に子犬みたいだった。彼は私よりずっと背が高く、声も低くて大人びているけれど、決定的に子供だった。
「日差しはあるね」
 枕が照らされて、雲が動くと木漏れ日のように揺れた。彼の頬は白く光り、まつ毛が先端で重なっている。

 ベッドを出て顔を洗った。化粧水と乳液を塗り、お湯を沸かしてインスタントコーヒーを入れた。窓を開けると風が吹いてレースはめくれ、壁がかすかに揺れた。外の落ち葉がカラカラと音をたてて転がった。コーヒーを一口飲み、スマホでSNSを一周すると、彼の机に「昨日はありがとう。いっくん大好き」と書き置きして部屋を出た。
 冷たい空気と刺すような日差し。彼のアパートの周りは田んぼと古い家ばかりで、日差しを遮るものがない。私にはいっくんがいる。と思っても紙が風に飛ばされていく映像が浮かぶ。自分のアパートに戻ると、浴槽にお湯を張って二時間くらいじっとしていた。書き置きをしてきた後味の悪さが消えなかった。

「なんでこんな気持ちなんだろ」

 バイトは去年みたいに週五日も入る気になれなくて、大学が春休みになってからは彼と自分の家を行ったり来たりしている。眠ったり、牛乳を飲んだり、お風呂に入ったりする。本も読まないし、やりたいこともない。ぼうっと過ごし、ヘッドフォンのスポンジを外して「へぇ、中はこんな風なんだ」と言ったりする。二月の朝陽は夕焼けみたいにオレンジ色で、東と西がどっちなのか分からなくなる。結局、二十歳になった翌日は十八時からのバイトまで寝ていた。

 目が覚めると十七時で、脳細胞がたくさん死んだ気がした。
「急がないと……」と言いながら着替えた。自転車に乗って走り出すと、冷たい風が顔を包んだ。そろそろ何かを真面目に始めないとまずい気がしたけれど、バイト先に着く頃にはその気持ちは消えていた。ファミリーマートの前を横切る時、店から漏れた蛍光灯が私の頬を照らし、青白さがいっくんを思い出させた。

 こんな私が言う「いらっしゃいませ」という声に、客が何を感じているのかは分からない。彼らの多くは疲れていて、何も考えずに食事と会話をしたいからここへ来るのだろう。店の壁の色と客の顔色が一致していて、誰も無理をしていない状況を私は素敵だと思う。灰皿をクロスで拭きながら「昨日二十歳になったよ」も「いっくん来ないかなぁ」も言わず「今日空いてるね」と、るみちゃんに話しかけた。

「二月だしねー。れい、来週さ、また私んちで飲もうよ」
「いいね、飲みたーい」と話していると、
「玲奈って餅好き?」と店長が急に話しかけてきた。
「名前で呼ばないでって言ってんじゃん。なんで餅?」

 突拍子もない話ばかりしてくる店長に嫌気がさして、随分前に敬語で話すのをやめた。毎日同じネイビーグレーのネクタイ。なんだか幸の薄いオーラ。笑っていても短調なメロディを連想させる影のある顔。もしかしたら、私とるみちゃんが雑談しているのを注意する代わりに変なことを言ったのかもしれない。店長が行ってから「普通に注意すればいいのにね」と、るみちゃんに言うと「どういうこと?」と言いたげな表情をされた。

 バイトが終わり、家に帰っても目が冴えて、いっくんにおやすみのLINEを送ってもなかなか眠れなかった。ウォークマンでアルバム一枚分を聞き終えて無音になると、急に胸の奥がふわっとなって涙が出た。
「つら……」起きていても暗いことしか考えられそうになかったので、るみちゃんにもらった「ほろよい」を常温のまま飲んで眠った。翌朝ここはどちらの家だろうかとあたりを見渡した。ベランダの窓の近くに黄色いエレキベースがあった。スヌーピーの目覚まし時計を見ると十時半だった。

「じゃあ、悪魔を探しに行こ」空元気の声で言い、布団をベランダに干して顔を洗った。掃除機をかけ、いつものパーカーとコートを着て外に出た。
 自転車に乗りながら、去年の八月にサークルの人たちと焼鳥屋で食べたハツの食感を思い出した。
「ハツは心臓」
「私の心臓もプリプリしてるかなぁ」それを食べてくれる悪魔を探して自分は何をしたいのだろう。私は二十歳。伊豆の踊子の主人公のように最初から最後まで瑞瑞しく清らかであればいいけれど。

 駐輪場に自転車を停め、大学へ入る大きな坂を登る。昔はこの坂道に雪が積もってスキーをする学生がたくさんいたらしいが、去年の冬からまだ一度も雪が降っていない。もう四月みたいに陽射しが濃い。
「このまま春になるの?」
 坂を登り終える少し手前で、建物の壁面に設置された大学の青いロゴが見えた。芝生広場の向かいにある中華食堂の前を通るとガラス窓の向こうに彼がいた。
「いっくん!」私は店に入った。一人で行動するつもりだったから彼がたまたまいて嬉しくなった。彼は青いダウンにスタン・スミスのスニーカーを履いていた。

「暑くないの?」
「脱ぐのめんどくさいから。れいもあったかそうな服だな。いい匂いする」
「分かった?」
「うん」
「ねぇねぇ、一緒に卒制観ようよ」
「いいよ。俺も今から行こうと思ってたよ」

 と本当かどうかわからないけれど、そう言ってくれたのが嬉しくて「きゃん」みたいな声をあげて彼の肩にぶつかった。
「お腹空いたなぁ。私も天津飯頼もうかな」
「前どうぞ。座れよ」と言い、彼はれんげを持った手で向かいの席を示した。

「わーい。ありがとう」
 天津飯を食べると第二アリーナに行き、いっくんと観て回った。
「そういえば、れいは食べる時、めっちゃ集中してたよな」
「そう?」
「食べ物も喜んでるよ」

 アリーナの中は床も天井も壁も何もかもが白かった。パーティションが迷路のように立てられ、そこに油絵・版画・ボールペン画。建築学科のランドスケープの資料と模型。デザイン学科のウェブサイトのプランや、映像学科の短編映画やアニメ。ありとあらゆる創作物が陳列され、観に来た人間に怯えている。

「みんな頑張ってるね」
「うん」
「いっくんはどれが好き」と聞くと、
「うーん」と言ったきり次のコーナーに行った。くだらない質問だと思った。
「全体的に提出物っぽいね」と私が言うと、
「それなりに教授からテコ入れは入ると思うんだけどな……。ちゃんとしたのは芸術情報センターにあるから、あとでそっち行こうぜ」
「うん」と私が言うと彼は頷いたような余韻を残して先へ進んだ。どれもこれもかろうじで作品になれた程度で、憂鬱な気持ちが透けていた。

「いっくん、もう出よう」彼の腕を掴んで、アリーナの外に連れ出した。芝生広場に出て「あぁ」と言って寝ころんだ。「ぜんぶ微妙」と言いかけてやめた。二月の晴れた空を見て私はなんだと思った。子供がライ麦畑の崖から落ちないように見張っている人間になりたいのか。先輩の作品を馬鹿にする人間になりたいのか……顔を横に向けるといっくんが待っている。寝ころんでいても彼は来てくれない。

「れい、次行くぞ」ちゃんと名前で呼んでくれるのは、バイト先の店長だけ。
「うん……」起き上がっていっくんの前に駆けて行き「芝生はらって」と私は言った。
 学生たちの間で「お城」と呼ばれている芸術情報センターの展示室に行くと、薄暗い照明の中に、大きな作品が間隔をあけて展示されていた。
「雰囲気に負けてないね」
「うん」いっくんは私がよく言うトーンで返事をした。
「本当は、なんの象徴なんだろうね。この、動物たち」

 蛙と兎と鹿がこちらを見つめている大きな油絵があった。これがこの大学の実力だと背負っているような息苦しさを感じた。輪郭が太く、蛙の緑は原色で、兎は雨に濡れたコンクリートみたいな灰色で、でもそれは、ただそれだけの絵にしか見えなかった。いっくんは何も言わず移動して、建築のドローイングとプレゼン資料の展示を見ていた。私はいっくんの横に行った。
「結局、上手くなっただけじゃん。出ようよ」
「俺もそう思った。図書館に行こう」

 展示室を出ると、階段を上がって二階に行った。いっくんは先輩から頼まれている画像の編集がしたいと言って、自習机に行った。いっくんがリュックからMacBookProを取り出し、私が本棚をうろうろしている内になんとなくデートの時間は終わった。半端なものをたくさん見たせいで、甘いものが食べたくなっていた。あと、いっくんが作業を始める前に一回くらいキスして欲しかった。寂しさとむしゃくしゃした気持ちを静めるために私は言った。
「悪魔がいない」
私は一人で三階に行った。春休みの図書館にはほとんど人がおらず、自習机はガラガラだった。二階よりも静かで、人の話す声はなく、蛍光灯のブーンという音と自分の足音しか聞こえない。

 本棚の側面の板には、絵が飾られていた。それは絵本のような柔らかいタッチで、服を着たくまが部屋の中央に寝ころんでテレビを見ている様子が描かれていた。タイトルは「休日」とあった。部屋の窓の外にはありふれた道があり、そこに車が走っている様子が描かれている――。
 私はこれだと思った。くまは部屋の真ん中で誰にも邪魔されず、ただゴロゴロしていた。向かいの本棚の側面にも絵が飾られていた。作者は同じで、スーツを着たくまが満員電車でつり革を握っている絵だった。タイトルは「企業戦士」。たった二枚で絵の中の世界だけでなく、私の生きている世界も表していると思った。いっくんがここにいれば感動を伝えられたのに彼は二階で作業している。もどかしさが増したけれど、この絵と出会えた嬉しさのほうが大きいかもしれない。

「かわいいなぁ」私は呟いて唾を飲んだ。二つの本棚に挟まれた私が休日でも企業戦士でもない自分のことかもしれないと思った。いい仮説だと思えた。すると、急に寂しさが込み上げ、どうしようもなくいっくんに抱きしめられたくなった。

「いっくん、好き……だから、助けて」

いっくんに本当に思っていることを言葉にして甘える勇気はない。他のカップルはこういう時どうするのだろう? 私は物ごころ付いてから人前で泣いたことがない。

 彼ははじめから図書館で作業をしたかったのか、本当に卒制を見たかったのかも分からない。きっと聞いても教えてくれないだろう。きっと彼には私みたいに感情に過程がなくて、目の前にあるものから順番に処理しているだけなのだろう。そういう悩みの無さは境地というより、男の子っぽい単純さによって成り立っていると思う。もっと悩めばいいのに。

 絵が飾ってあった本棚には大江健三郎の全集が並んでいた。明朝体で書かれた背表紙を見て手に取った。目次にあった無機質な「飼育」というタイトルに惹かれて私は読み始めた。描写が細かいうえに一文が長くて読みづらかったけれど、戦時中の貧しい集落に住む少年が見ているものを私は想像することができた。二ページ目で突然兎唇という言葉が出てきた。
「兎唇が子犬を抱えて待っていた。」という一節から兎唇が人であることは分かったが、言葉の意味が分からなかったので一度本を閉じてスマホで調べた。すると、人間の唇が兎の口のように裂けて生まれてきた人のことだと分かった。小説では兎唇がその少年の名前であるかのように語られていた。兎唇は「としん」と読むらしい。

「敵が来た。敵の飛行機だ」という兎唇の言葉は動物が話しているような響きで、彼の言葉に私は鳥肌が立っていた。半分ほど読み進めると自習机に移動して、最後まで読んだ。捕虜になった黒人兵を集落で飼育することになり、それによって兎唇はこれまで生きていた集落という世界が広がっていく気配を、誰よりも喜びに満ちた思いで感じていた。素敵な感度だと思った。
 夜眠る前に「作業終わった?」と返事が返ってこないのを分かっていてLINEを送った。二時間くらいして既読がついたけれど返事はなかった。それでもショックはなかった。彼が純粋で単純である証拠だと思った。純粋であることに何も言わないから、私が抱きしめられたいと思う気持ちに気付くべきだと思った。

 三月になっていた。果てしない春休みの只中で、私は一生分休んだような気がしていた。都会に出て観覧車に乗るデートを計画したが結局実現せず、るみちゃんのアパートでだらだらとお酒を飲む会を週一回くらいのペースで繰り返していた。二人で近くのスーパーマーケットに行って唐揚げや巻き寿司、ポテトチップス・チョコレート・ビール・ほろよいを買い込んで、小さなこたつに入って話をした。十八時くらいから飲み始めたけれど、気がつくと十九時半になっていて、一度トイレに行って少し話すと二十時半になっていた。
 おそらく、るみちゃんは私のことが好きであると同時に嫉妬しているのだと思う。化粧の仕方もよく分かっていないのに、クールで背の高い彼氏がいることで私みたいなタイプが上手くいくことに納得していないのを言葉の節々から感じる。

「だからね、るみちゃんさぁ、あの人、話すと適当なんだよ。会話続かないし。すぐどっか行くんだよ」
「彼氏いる人はみんなそう言うもんね」と言い、るみちゃんはほろよいの缶に向かってあくびをした。るみちゃんは彼氏がいるのに憂鬱そうな私の気配を感じていて、その気配の濃淡を自分自身と比べているのだと思う。

 いっくんは友達が多いというより、周りから能力を買われて周囲に「使われている」感がある。それでも、私もいっくんもそういう状況について深く考えたりはしない。るみちゃんと家で飲んで話を聞いて「比べるのってやだなぁ」と思うだけである。途中で帰る雰囲気にならず、結局朝の三時くらいまでこたつでだらだらしていた。翌朝、一緒にコンビニで朝食を買って別れた後、やっと一人になれると思った。

小説を書きまくってます。応援してくれると嬉しいです。