見出し画像

障害グレーゾーンの一般就労が搾取に近づくとき

ときに障害グレーゾーンの人の一般就労に「やりがい搾取」に似た構造を感じることがある。

雇われる側の個人的課題である「就労していない状態から脱したい」「障害や社会不適応を克服したい」「取り柄がないゆえ人の何倍も働かないと人並みに役に立てない(=自己評価の低さ)」。そういった動機や負い目から必死に働き過ぎてしまい、雇用主はそれを労働者の自主性と受け止める。このとき、結果的には搾取が起きているのではないだろうか。

元場面緘黙者や発達障害などのクローズ就労においても、こういったことは起こりうる。私の場合は「場面緘黙・対人恐怖を治したい」「(自己評価の低さゆえ)承認されたい」「話すことが苦手かつ取り柄がないので人一倍仕事しなきゃ」という気持ちが強かった。

障害グレーゾーンや長期ひきこもりなどの場合、障害者枠や支援枠での就労でなく自力で一般企業に勤めながらステップを踏めたことが自信や成功体験になっている場合もある。しかし、どうしてもハードルが低いところからしか踏み出せないのでブラックな労働環境に当たりやすかったりもする。

最低限、労働時間の不当な超過や賃金の未払い、失業保険や労災への未加入、パワハラ、労働基準法違反等があれば、どんなに臆しても、肩身が狭くても、声をあげる権利はある。「さんざんお世話になっておいて裏切り行為と思われないか?」などと心配になるだろうが、ハローワークに相談するなどして直訴したほうがいい。劣悪な職場体質の温床化を食い止め、労働環境を改善するためにも、そして自分以外の社員や今後入ってくる社員のためにも。しかし、現在進行形で勤めながらそれをするのは、障害の有無に関わらずなかなかできることではない。もし場面緘黙の後遺症があれば、尚更できることではない。

いわゆる、やりがい搾取、志搾取、自己評価が低い点で搾取される現象や劣悪な労働条件は、悲しいけれどありふれていたかもしれない。就職氷河期世代の私は、そういった労働環境について見聞きし過ぎて(やりがい搾取的なエピソードも含む)世の中そんなものなんだろうと感覚がマヒしてしまっている部分さえあった。雇う側に都合の良いことは、雇われる側が何も言わなければそのままにされてしまうのか。さらにそれは、私の職業選択の自己責任とされてしまうようだ。そんな現実へのあきらめと絶望が常態化し、はたらく意欲はどんどん萎えていった。しかし近年は徐々に労働問題が改善されてきた感があるし、一刻も早く変わるべきだ。

経済優先の社会のなか、使い捨てられるかのような労働のあり方が、ひきこもりや就労しない人たちを生んでいる背景もあるように思う。

また、ブラックな労働の現場で自分と戦い、社会へのステップを踏み出すということが、組織のブラック体質の維持につながり、ときにほかの弱者を苦しめることの温床にもなってしまう。一旦ひきこもったり病んだりしてしまうと、どうしてもハードルの低いところからしかステップを踏み出せなくなるし、不当に感じることがあっても、雇われている立場上何も言えなくなってしまうからだ。何も訴えず辞めれば、また新たな社員が同じような目に遭う悪循環。

以前、長年のひきこもりでブランクのあった人を雇ったところめちゃくちゃ働いてくれて、ひきこもりから脱せたことを感謝までされたという雇用主目線の感動譚がバズっていた(この会社では、社員に働き続けてもらうために、「働き続けなければならない理由」のある人を採用しているらしい)。この話が、雇う側の素晴らしさや感動ポルノ的にバズっていたことにはすごく違和感がある。そんな社会の価値観に辟易した人たちの声がひきこもりや就労しない人たちの声なんじゃないの?と憤怒を覚えてしまうほどに。本来ならば、自分のブランクや障害のために、一般就労で身を粉にする・過度な自己犠牲を払うといった必要はないはずなのに、なぜ「弱者」とされている者ほど苦労を重ね続けなければならないのか。ブランクや障害グレーゾーンのクローズであることなどを負い目に感じる気持ちは湧いてくるだろうが、雇われている時点でほかの社員と同じ地点にいるはずだ。リスクがあるのに雇って偉い、だから雇われた側はそのリスクをカバーしようと必死に(他の社員よりも長時間)働くのは妥当なのだろうか。私にはそうは思えない。リスクを取ったのは雇用主なのであって、それは労働者の側が自力で埋めるものではないだろう。ひきこもっていた自分のダメさ不甲斐なさを仕事で取り戻そうとしているのかもしれないが、もしそれをある程度取り戻せたと感じたとき、仕事へのモチベーションは保たれるのだろうか。当事者はセルフスティグマから、雇用主は自身の都合や経営の側面から、「私情の利用」が起こりやすい。

社員の個人的課題や動機=苦手や劣等感の穴埋め・克服、やりがい、志、憧れ、自己犠牲などに依存するような会社は、働き続けること・雇い続けること自体がイネイブルとなって、搾取が起こり続ける。容易に支配被支配の共犯関係にも陥る。その関係のさなかでは、搾取されている意識もあまり抱かないだろう。実際、克服、やりがい、志、憧れなどの個人的動機から必死で努力しているという現実もあるし、グレーゾーンやブランクのある人たちの就労の受け皿として機能してもいる。会社=自分でも働ける社会的な居場所を与えてもらっていることへの感謝の気持ちもある。

「劣悪な労働環境・労働条件」「(雇用主と労働者の関係性などを含めた)会社組織のあり方」「経営」「働き方」一般の社会問題と、「障害グレーゾーンの就労支援・受け皿の必要性」「傷付き体験やセルフスティグマによる極端な自己評価の低さ」といった課題が交錯している。

あるいは障害の有無に関わらず、「自己肯定感」といった定義も実態も曖昧なものを盾に、世に手玉に取られているかのようなモヤモヤした気持ちも、今となっては言語化されうるが、そのときの漠然のままに過ごしてきてしまったことは、振り返れば危ういことだったのかもしれない。社会が歪んでいるのか、私が歪んでいるのか。かつての私は、まわりにも、社会にも、同じことを感じている人を見つけられなかったし、自己肯定感が低いことが、社会への関心と期待をどこまでも削いでしまい、自責に終始して声をあげようだなんて思わなかった。そして、その社会のなかには自分も含まれているのに、その意識さえ薄かった。

グレーゾーンの自覚をもって働くならばなおさら「ある程度社員を尊重している会社かどうか」が大切だが、就労前の見きわめはむずかしい。不当な扱いであっても、不当に感じない自己評価の低さが、最初から対等なコミュニケーションを奪ってもいる。それ以前に、雇用されている時点で関係は対等ではない。つい「私なんかを雇ってもらっている時点でありがたい」「転職するとて、他の会社では働けないのではないか」とも感じてしまう。事業主目線の考えは私にはわからない部分もあるだろうし、一方的に被害感を持ちたくもない。だが、何とか「私なんか」という岩を持ち上げて、自分の当たり前の権利や可能性に目を向けてほしい。辞職後も職場に労働条件等について直訴することはできるので、懸念のある人は泣き寝入りせず、できれば信頼できる人とともに、ハローワークなどに相談することをおすすめする(場合によっては、ハローワークから職場に主訴を伝えてくれたりもする)。


末端のサービス業は交換可能な役割の着脱装置にもなりうる。バイトを自己回復のステップとして活用する(?)みたいなベクトルはこちら▼



皆さまからのサポートをいただけましたら幸いです。 今後の活動資金として活用いたします。