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コロナ禍で思いを馳せる場面緘黙のこと

かつて私にとって、家で過ごすこと・ひきこもることは絶対的な安心と自由を保証してくれる正義だった(社会参加していない罪悪感や焦燥と引きかえに)。

場面緘黙、視線・対人恐怖、被害妄想、うつ、激しい動悸に過呼吸etc。人との関わりをすべて断絶したかった。

話せないうえにどうしようもない人間だから、一人で生きていくしかないのだと信じていた。今は、対面で話せなくなる不安も湧くけれど、あの人はどう過ごしてるだろうか、会ったら何を話そうかという風に、誰かのことを考える余裕がある。昔より、日常での人との関わりの大切さを実感している。他人と関わるのも悪いもんじゃないと思える(昔の私が正気か?とうそぶく)。

過去の私の動機と今の私の動機が混ざり合い、場面緘黙の活動をいつも何かしらしたいと思っている。

世界はいつの間にかコロナ禍にあり、人と話すとき、対面じゃない方がよい世界になってしまった。人と話せない場面緘黙の人にとっては、距離を取らなければならない・近付いて長時間話さない方がよい現状は、以前より安心して過ごすことができる。

積極的に話さない(話したくても話せない)、人と距離を取る(パーソナルスペースが広い方が安心)、マスクをする(私は視線恐怖を感じるときなどにマスクをすると安心する)、家で過ごすなどは、私にとっては、もともとの暮らしの延長線だ。

人と話さないことは、感染を防ぎ、かつ場面緘黙を遠ざける。もしもずっと家にいるならば、場面緘黙は起こらない(大半の場合)。

場面緘黙の人たち、対人恐怖や社会不安・社交不安、あるいは不登校・ひきこもりの人たちは、社会から家で過ごすことを求められている今、とても気持ちが楽になっていると思う。ずっと家にいなければならないなんて正直うれしいし、ひきこもりがちな私の、社会に居ない罪悪感まで払拭してくれる。

一方、学校や職場がなければ全くと言っていいほど人と関わらないからこそ、(多少しんどくても)日頃、学校や職場で過ごすことを必要と感じてきた私もいる。ひきこもり、完全に人との関わりを断った挙句、人生で最も病んでしまったからこそ、他者の存在を尊く思う。

コロナウイルスは、私を人から遠ざけるようにして、日常を崩していった。未知の事態への不安やストレスのなか、場面緘黙・対人不安が遠ざかる。

これまで考え続けてきた「緘黙のバリアフリー」が、妙な形で現れてきてしまったような感じもする。もし今日一日、クラス全員が話さないルールのもとに過ごしたら?どうなるだろうか。コロナ禍による副作用とはいえ、それに近いことが世界規模で起こるなんて思いもよらなかった。

場面緘黙とコロナ予防は、お互い目的外使用的に手を組んで、知恵をシェアし合うとよいのだろうか。コロナ禍はときに場面緘黙の人の暮らしやすさをもたらしてくれていて、そして、ときに多くの人の間接的なコミュニケーションについて場面緘黙の人たちの知恵が役立てるかもしれなくて。

そしてこの先、社会のしくみ・あり方は急速に変わっていくだろう。急にやってきた過渡期に、場面緘黙の人の声を反映させるべき場所は、きっと数多ある。決定が下される瞬間に間に合うよう、過程を見逃さず、声を届けなければと思う。

未だ日々のコロナウイルス感染拡大への不安と恐怖、緊張感が続く真っ只中。世界中の人々が感染の不安のもとにある。家で過ごしたくても、過ごせない人もいる。とても苦しい立場にある人や、悲しい想いをしている人もいる。見通しが立たない状況だけれど、疲弊しても無理はせず、不安に飲み込まれず、だけど危機感は失わず過ごしていきたいと思う。

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