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風を待つ<第19話>文明王后として

 その夜、金春秋は盛大な宴をひらいた。王は袞龍袍コンニョンボを着用し、花郎徒たちの礼を受けた。その横に王后として並んだ文明は、叩頭した花郎徒、文官、妃妾たちの姿をざっと見渡す。平穏な日々を犠牲にして得たものに対して、どんな態度で座ればよいのか。

 人質としての苦難を乗り越えた文明を、金春秋は讃えた。文明が倭国で子を産んだことは一切明かさない。文明王后は、清らかな身のまま、倭国での人質生活を終えたのだ。そして文明王后の功績で、倭国も新羅に屈するだろう、と金春秋は述べた。花郎徒たちの歓喜の声で、月城は明け方まで賑やかだった。

 酒のすすんだ王は、文明に、法敏の武功を語って聞かせた。
 法敏は金庾信とともに五万の兵を率いて唐軍と合流し、百済討伐で武功をあげた。尓礼いれい城をはじめとする二十もの城を陥落させ、百済平定に大いに貢献したという。

 法敏は、王に賞賛され、顔を赤らめている。
 自分の子でありながら、文明はどこか他人の子のような気がしてならなかった。

 女人たちの舞が始まる。兄の庾信がそっと文明に近寄った。

「兄上様」
「よく帰ってきてくれた、おまえからの書簡が届いたときは、生きた心地がしなかったぞ」

 宴の音楽や女たちの歌う声で、庾信の声は聞き取りにくいほどだ。「おまえには、聞きたいことが山ほどある。だが、しばらくはゆっくり休んでくれ。とにかく帰って来てくれてよかった」

「兄上、私はまことに帰還するつもりはありませんでした」
「ああ文明よ、もう、何も言うな。おまえはまことによくやった、十五年も倭国で暮らして、情がわくのも致し方あるまい。殿君にも、おまえの辛さを理解していただくように話しておいたからな……」

 庾信は金春秋と文明がちょっとした諍いを起こしたことを、すでに耳にしているようだ。「殿君も、いいすぎたと悔やんでおられる。おまえも、こうして新羅王后となったのだ、殿君を支えてやってくれ」

 金春秋には、文明など必要ないだろうと思った。真骨の王后が座っていればそれでいい、従順な王后が隣に座っていれば。文明は心に思ったことを、庾信には言わなかった。

「ところで兄上、倭国の状況ですが……」
 文明は話を変えようと、倭国と百済王子について報告をした。
「百済と交誼のあった倭国は、おそらく百済奪還のために挙兵します。百済王子豊璋が倭国にいることをご存知でしたか?」

「うむ、挙兵の動きはおれも耳にしている」庾信は頷く。「だが、女帝は朝鮮三国の状況をどこまで知っているのかな。まことに新羅と戦うつもりなのだろうか? だれが百済への挙兵をそそのかしている?」

「女帝と、おそらくは中大兄皇子です。百済派の群臣も多い」
「なるほど、群臣たちに押されて、百済救済に乗り出すか。無謀だな」

 庾信は同情するように嘆息した。
「倭国は敗北する。それをわかって形だけ出陣してくるのであれば、適当に追い返すのだがな」
「新羅のためにも、戦は避けるべきです」
 文明は声高に進言する。

「百済を滅ぼし、新羅の兵力は弱っているはず。高句麗とも戦いながら、倭国を迎え討つことなど無理でしょう。豊璋王子、中大兄皇子と交渉なさいませ」

 そのとき、金春秋がちらりと文明を見た。
「おいおい、宴の席で密談か」
「申し訳ありません」庾信が頭を下げる。

 金春秋は杯を傾けながら、薄い笑みを浮かべた。
「おれは倭国と交渉などせぬぞ、向かってくるなら、徹底的に迎え討つ」
 ぴしゃりと言って、庾信に自分の前へ来るよう手招きした。

「倭国は、百済まで兵を挙げるだけで、やっとだろうよ。倭国の船を見たことがあるか? 木をくりぬいただけの船だ。あれでどうやって新羅と戦える? 少し牽制すれば、すぐに逃げ去るだろうが、挙兵した以上は逃がして帰さぬ」

 金春秋は完全に倭軍を下に見ている。無理もない。船のまずしさといったら、文明も身を持って知っている。唐や新羅、百済の所有する船と比べると、あまりにも粗末な船だった。

「倭の女帝は、朝鮮三国の船など見たこともなかろう。百済へ挙兵を唱えておるのは、豊璋だ。あやつは殺しておくべきだった。中大兄皇子は豊璋に踊らされて、夢でも見ておるのだろう……よい皇子だと思ったが、しょせん小国の皇子だったな」

 文明はそれ以上聞きたくなく、ついと顔をそむけた。
 文明の眼裏には、中大兄皇子が率いる戦船がはっきりと映る。その粗末な笹舟のような頼りない船を、新羅の戦船が次々に打破してゆく。海に沈む船を見つめて、絶望する中大兄皇子の表情がありありと目に浮かぶ。

「庾信よ、王后に戦の話など、やめよ。いまの文明王后には、あまりにも過酷であろう」
 文明はむっとした。
 文明の心にある倭国との戦を避けようとする気持ちを、金春秋は察知し、完全に否定している。だが、それは文明の甘さであり、甘い戯言をいう女に戦の話をしてやるな、と金春秋は言っている。おのれが侮られたような気がして、文明は全身が熱くなった。 

「お言葉ですが、王」
 文明は怒りをおさえて王に言った。

「倭国が、百済へ援助する理由は、王子豊璋のためです。豊璋を討てば、百済はこんどこそ滅亡します。倭国と無理に戦をして、兵を消耗する必要はありませぬ」
「そのとおりだ。おれは豊璋を討つ」
 金春秋は残忍な笑いを含んで言った。文明との話を一方的に終わらせ、金春秋は大臣たちと話はじめた。文明は席を立ち、自室へと下がった。怒りで震えが止まらなかった。

 ――新羅へ帰ってくるべきではなかった。
 はげしく後悔した。たとえ倭国で殺されても、新羅へ帰るべきではなかった。新羅にいて、倭国が攻撃されるさまを、文明は王后として見なければならない。

 文明にははっきりと、倭国の未来が見える。
 百済救済に失敗した倭国は、その責任を中大兄皇子に求めるだろう。当然、大臣たる鎌子も連帯して、失脚する。

 鎌子はそこまで予想していたのかもしれない。

 百済への援軍など無謀と知りつつ、女帝と中大兄皇子に逆らえなかった。文明を豊璋の手から隠すこともできたはずだが、しなかった。倭国へ残れば、どのみち文明を不幸にする、と考えたのでは――。

 いまさら文明はそれに気づき、声を押し殺して泣いた。

 宴が終わると、金春秋は文明の閨を訪れた。まさか夫が今夜、閨へ来るとは思っていなかった文明は、「いかがしたのです」と驚きを口にした。

 金春秋は自嘲するように「夫が来てはならぬのか」と笑った。酒に酔った目で、文明の全身を見つめている。

 ――抱きに来たのか。
 文明はぞっとした。金春秋の目は豺狼のように光っている。いつから夫は、こんな恐ろしい目をするようになったのだろう。

「随分会わぬうちに、おまえはどうやら、おれへの愛を忘れたようだ」
「そのような――」
 文明の言葉を遮るようにして、王は文明の頬に触れた。「あいかわらず美しい女だ。この美貌をいっときでも倭国の愚人に与えねばならなかったおれの気持ちも少しは知れ……」

 金冠をはずすと、文明の衣裳を剥ぎ取った。こうするのが当然とでもいうように。まばゆい金冠の横に、文明の髪から引き抜かれた鳳簪が並ぶ。文明を立たせたまま、金春秋は乳房を両手で鷲掴みにした。

「おまえを、統一新羅の王后にしてやる」
 金春秋は、高みから見下ろす目で笑った。
 金春秋にとって文明とは、倭国へ預けていた傀儡くぐつだ。傀儡が返還され、おのれの手に戻ったに過ぎない。戻らなければそれでも良し、戻ったのならば、また手元に置くだけである。

 ところが、手元に戻ったはずの傀儡が、どうやら倭国への未練を残している。これではおもしろくない。おのれのものだとわからせねばならぬと、荒々しい手つきで傀儡を愛撫する。

 それがわかるから、文明の全身は王を拒んだ。一糸纏わぬ姿にされ、幼虫のように身を縮めた。王の手は、文明の身体を無理やり開かせる。
 女を悦ばせる、ということを知らぬ男である。早く行為を終わらせたくて、文明は下腹部に力を込めた。きつく締め付けられた金春秋は、吐息を漏らす。文明の冷えた身体は、さらに固く冷え切っていった。

         *

 二ヶ月ほど政務をとったあと、王はすぐに高句麗との戦にそなえるために月城を出ていった。

 文明も忙しい日々を過ごしていた。祖霊の廟にお参りし、王族たちの接待を受ける。十五年も経過しているため、月城に住まう王族たちの顔ぶれも随分と変わっている。
 ようやくすべての王族と挨拶を交わし、一息ついたところで、妹の宝姫が文明の部屋をたずねてきた。

「お久しぶりでございます、王后――」
 妹は随分と老け込んだようだ。一目みて、宝姫とわからぬほどだった。髪は薄くかさついており、化粧は粉が浮き上がっている。

「宝姫、息災だったか」
 どう見ても壮健とは思えぬ妹に、文明は躊躇しながら言った。

「王后は、いつまでも美しゅうございますね」
 宝姫は笑わずに答える。その声は、冷えびえと響いた。

 なぜ、すぐに挨拶に来なかったのだろうか。妹ならば、どの王族よりも先に、文明に会いにきてもよいではないか。
 侍女に茶菓子を用意させて、宝姫を座らせた。宝姫は、文明の鳳簪をじっと凝視している。

「ご存知ですか? 姉上がお戻りになるまで、その鳳簪は私のものでした」
「――ああ」
 文明は察知した。宝姫は一時、王后となっていたのだ。文明が庾信に新羅へは帰らぬと書簡を送ったゆえに。いつから王后となっていたのかは知らぬが、突然の文明の帰還に驚いたに違いない。姉の帰還を喜ぶどころか、王后の位を剥奪されたのだ。宝姫のやつれた姿は、そのためだろう。

 ここで妹に詫びることが正しい選択だとは、文明は思わない。
 文明は王の正妃であり、太子法敏の母である。長く不在であったからといって、妹に王后の座を譲ることはできない。妹はあくまでも王后の空位を埋めていただけだ。おのれの立場を忘れて、王后の位を剥奪されたと憤っているのであれば、筋違いである。

 第20話へ続く


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