風を待つ<第20話>
文明は毅然とした礼容で、宝姫にねぎらいの言葉をかけた。
「これまでの勤めに感謝する。これからは王后の妹として、私を支えてくれ」
宝姫は眉を吊り上げて、顔を赤くした。文明からの謝罪を期待していたのだろう。骨の浮いた拳を握り締め、じっと視線を下に向けている。
「――さすが、姉上です」
宝姫は顔をひきつらせた。
「私にはとても、姉上とおなじことはできませぬ。倭王の妾となり、挙句、家臣の子を孕まされるなど、とても耐えがたきことにございます。屈辱に耐えて帰還なされた姉上には頭が下がります」
宝姫のせいいっぱいの嘲りであった。だが、文明はむしろ妹を憐れに思った。
――こんなに醜く、浅ましくなって。
宝姫は、文明が新羅へ行かなければ、おとなしく従順な女のままでいられただろう。何の努力もなく王后の座に座り、権力に目が眩み、宝姫は変わってしまった。文明は妹にゆっくりと言い聞かせる。
「殿君は高句麗でも倭国でも屈辱に耐えてこられた。そのことを思えば、私の屈辱など、ものとも思わぬ。これは私にしかできぬことであった、私は倭国へ赴いたことを誇りに思っておる」
「お気の毒な姉上様……新羅のために犠牲となられたのですね。殿君も姉上に同情し、王后の座を用意したのでございましょう」
宝姫はまるで王后の位を譲り渡してやったと言わんばかりに、憐憫の目を向けている。可哀想な姉のために、武勲を用意してやったとでも思っているのだろうか。
「私は王后の位が欲しくて帰還したのではない。ただ、私よりも王后に相応しい女がおらぬだけじゃ」
肩を怒らせた宝姫は、ぎっと文明を睨みつける。赤い口紅が剥げて、妹がたまらなく醜いものに見えた。宝姫は文明の存在を拒絶し、ことあるごとに嫉妬を向けてきそうだ。
おそらくもう二度と姉妹で笑いあう日は来ないだろう。文明は少し悲しくなったが、しばらくすると、どうでもよくなった。
*
秋になる頃、文明の月のものが止まった。
どうやら、金春秋の子を孕ったようである。
文明は憂鬱だった。文明のお産は軽いほうであったが、さすがに三十歳を過ぎての懐妊は身体が辛かった。悪阻は重く、床につく日が続いた。
――これが、鎌子殿の子であれば……
鎌子の子であれば、いまごろ喜びの日々であっただろう。つらい悪阻も楽に感じられたかもしれない。金春秋の子をいまさら産んで何になるというのか。子を産んでも、変わりはいくらでもいると思っているような男だ。
文明の情緒は乱れた。夜になると、悲しみが襲ってくる。
――早く忘れなければ。
気が狂れてしまいそうだった。産褥で精神を病んだ女はごまんといる。何も考えないようにして、気を楽にし、産み月を迎えればよい。そうして、無事に子を産んだら、医師に依頼して、「王后はもうお産には耐えられない」と診断させればよい。そうすれば、閨のつとめから解放され、文明にもう苦痛は訪れない。
夜、腹の奥がむかむかとして、文明は風に当たりたくなった。倭国で感じたような、さわやかな風でなくとも、冷たい風を感じたかった。
外に出ると、満天の星空である。
倭国で覚えた歌でも詠んでみようかと、文明は星の光をじっと見つめていた。
そこへ、すう――と流れる、彗星のような光が見えた。
彗星は凶兆だと考えられている。戦争、飢饉、天災、疫病など、さまざまな脅威の前触れである。
――倭国に、なにか凶事があるのでは。
文明は、瞻星台に向かった。善徳女王が建設を命じた瞻星台は、天文の動きを知るための大切な建物だ。星讀師がつねに観測をしているはずである。誰かが彗星に気づいたかもしれない。
文明にとって意外な人物が瞻星台にいた。
「法敏」
「母上様――母上様も、彗星にお気づきですか」
法敏はひどく驚き、文明を迎え入れた。
「どうやら私の幻覚ではなかったようですね」
文明は少しだけ微笑む。すぐに姿勢をまっすぐにして、法敏に歩み寄った。
「彗星は、凶兆ではなかろうか。星讀師にこのことは?」
「はい、先ほど伝えました。ただ、ご安心ください。彗星はたしかに凶兆だという者もおりますが、唐では、穢れを払う吉兆だという考えもあります」
「ほう……そうなのか」
文明は瞠目した。
「詳しいことは、星讀師の見解を待ちますが、とにかく動揺なさいませぬように。身体に障ります」
法敏はちらりと文明の腹に目を落とす。すでに文明の懐妊を知っているのだろう。身重の母を労った。父に似ず、優しい子だ。唐の知識をそなえ、学識もある。
「あなたは学問に励んでいるようですね。母として、嬉しく思います」
文明は心からそう思った。離れていた我が子が立派に成長し、頼もしく思う。
満点の星空の下、文明の心はすこし感傷的になっていた。
「おまえには、寂しい思いをさせてしまったね」
偽りではなく、心からそう思っている。その文明の思いが法敏にも伝わったのか、法敏は小さく首を振った。
「母上とは離れて過ごしましたが、上大等(庾信)に聞けばいつでも母のことを話していただけました。碧海の向こうで苦労されている母上を思い、必ず私が連れ戻しに行くと決意しておりました」
「おお……そうだったのか」
文明はじんと胸が熱くなった。
「おまえの言葉でこれまでの苦労がすべて報われた気がしますよ。これからはその優しさを、新羅の民に向けてやっておくれ」
「はい――」法敏は厳かに礼をした。
「ところで母上、このような場でお伺いするもどうかと思うのですが……」
「なんだ、申してみよ」
「私の妃についてです」
顔を少し赤くして、法敏は相談を持ちかけた。
「妃……そうか、そなたも妃を考える年齢じゃな」
「はい。そのことで少々困っておりまして……」
法敏には、好いた娘がいるらしい。ただ、父親の官位が小烏《ソオ》(十六等品)と低いため、王は後宮へ入れることすら許可せぬということだった。
たしかに王の後宮は、大阿飡以上の官位にある真骨(王族)、大臣の娘ばかりである。
王は、正妃には真骨の娘を迎え、あとは真骨から美しい女を選び、後宮へ入れればよいという。だが、法敏はせめて後宮くらいは好きにさせてほしいと、父に訴えていた。純粋に娘を愛しているのだろう。好いた娘を夫人として迎えたい、と言った。
「私は、聖骨の絶えた新羅王朝で、もはや真骨だの位だの、関係ないと思うのです。母上はどう思われますか」
法敏は、あきらかに文明に同意を求めている。
文明も本音をいえば、身分の低い娘を後宮に入れることには抵抗がある。もし、その娘しか子を産まなかった場合に、血統が乱れるというのがその理由だ。だが、法敏の言うように、新羅の聖骨は絶えた。これからは新しい血族を後宮に入れていかなければ、王族の維持ができぬだろう。唐や高句麗から、あるいは倭国からも妃を迎えることがあるかもしれない。
「難しい問題であるから、早急に進めぬほうがよかろう。あなたは太子とはいえ、ほかにも王子はいるのです。足元を掬われぬようにな――」
「はっ」
法敏はうれしそうに頷いた。文明は賛同こそしなかったが、反対もしなかった。それを好意的にとらえた法敏は、その後も文明の部屋をよく訪れるようになった。
太子たる法敏が、倭国から帰還した文明を「王后」として認め、尊敬のまなざしを向けるようになったことは、文明にとって大きな後ろ盾となった。文明に向けられる冷眼が少し和らいだ気がする。一方で、妹の宝姫からの嫉視は続いていた。
星讀師は、小さな彗星を旱魃の予兆と結論づけた。そのため、積極的な戦は避け、民が農耕に従事できるように対策が取られた。
倭国への進軍は見合わせることとなり、引き続き百済残党兵と高句麗の動きに注視することとなった。
文明は安堵した。これで、いましばらくは倭国との戦闘を回避できそうである。
冬が近づく頃、文明に仕える尚宮(女官長)が、「聞くに耐えぬ風聞が出回っております」と文明に告げた。
文明の腹の子の父親が、倭人だというのである。
「ばかばかしい」
文明は笑う気にもなれなかった。「孕った身で、船に乗れるものか。あの揺れを知らぬ愚者どもの戯言だ、放念しておけ」
船に乗ったことのない者にはわからぬだろう。立つこともできぬほどの揺れを耐えながら、男でさえ自失し、泡を吹くのだ。どうして文明が倭人の子を宿して新羅へたどり着けようか。
だいたい、文明が帰還したのは夏である。子を宿したのは秋頃だ。産月は春になるだろう。少し考えれば、新羅に帰還してからの懐妊だと、医官でなくともわかるはずだ。
「しかし、これが殿君のお耳に入れば、気を悪くされましょう。あまり軽視してもどうかと思いまする」
尚宮は困った表情で頭を下げる。
「殿君は、そのようなことに心を裂くほど暇ではありませぬ。どうせ、私をよく思わぬ者たちのやっかみであろう。相手にしてはならぬ」
文明が相手にせぬようにと命じても、侍女たちはこういった噂が大好物である。いつのまにやら、文明はいまだに倭国の大臣と内通しており、生まれてくる子を倭王として君臨させようと企んでいるとか、勝手な話が創作され、ふくらんでいった。
放置し続けるのも腹立たしいことだが、文明が厳しい処置を下さなかったのには、理由がある。噂をまいている首謀者が、妹の宝姫のような気がしていたからだ。
「王后を誹謗する者は、だれか」
と、犯人探しをしたところで、おそらく宝姫だという証拠は掴めない。見せしめに宝姫の尚宮を殺すしかない。尚宮を殺したところで、噂はとまらず、次々と侍女たちを殺すことになろう。
――莫迦莫迦しい。
文明は久しぶりに刺繍の針を手に取り、作業に没頭した。こうする間にも腹の子はふくらみ、文明の腹の奥でもぞもぞと動くようになっていた。綾羅に金糸で刺繍してゆく。鏡宮の池の景色を思いながら刺してゆくと、時を忘れて没頭できた。
第21話へ続く
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