風を待つ<第13話>思うひと
「いえいえ、それこそ非礼でありましょう。文姫さまを側室扱いするわけにはまいりません。私は厩でも、なんなら実家に帰ってもよいのです。どうぞお気になさらず」
奈津の笑顔に少しだけ翳が落ちた。文姫はいやな予感がした。
――この女、私が鎌子の妻になると思っておるのでは……?
文姫は息を呑み込んだ。まさか、とは思うが――おのれは中大兄皇子から、鎌子に下げ渡されたのではないか。暗澹として、「鎌子と話がしたい」と呟いた。「鎌子を、はよう、呼んでくれ……」
*
日没前になってようやく鎌子が戻ってきた。表情の乏しい顔がどうにも陰気で好かぬが、今はこの男に頼るしかない。鎌子は、文姫の前に座ると、困惑した声で言う。
「そんな隅で、いつまで座っているおつもりで……? 妻が東対を使えるようにしておるはずですが」
「東対は、そなたの妻の部屋じゃ。私の宮を用意してもらわねば困る」
尖った声で文姫は返答する。ふつふつと怒りが湧いてきた。
「そなたはまことに内臣か? これは卑賤の者の暮らしじゃ」
屋形の体裁ではあるものの、妻といい、下女の少なさといい、まったく貴族の暮らしとは思えぬと文姫は吐き捨てた。こんな屋形へ連れて来られたおのれがみじめで、恥ずかしい。不快だ。もう絶えられぬ。ありとあらゆる負の感情を吐き出すと、涙が出そうになった。
鎌子は、嘆息を押し殺したような声で答える。
「飛鳥宮や、近江大津宮は特別です。新羅はどうか知りませぬが、倭国はまだまだ貧しいのです。皇子のような暮らしは、臣にはまだできませぬ。耐忍していただくしかありませぬ」
「そんな言葉を信じるものか。そなたは倭国の内臣であろう。それなりの身分のはずじゃ」
「私はもともと、祭祀を司る家の生まれです。父の冠位は最下の小智《しょうち》でした。財のたくわえも、あまりなく……」
文姫は瞠目した。
新羅の骨品制、唐の官品制度の社会で育った文姫には、最下の冠位にある家柄が内臣にまで出世するなど信じられぬことである。
官位というのは、生まれの貴賤である程度決定する。倭国は独自の冠位十二階を採用しているとは知っていたが、唐の官品制度を踏襲したものだと思っていた。
「そなたは妾もおらぬのか。妾のために家を建ててはおらぬのか? とにかく、もう少し人の目のないところへ移してくれ」
午の童子のような者がうろつく屋形では、文姫は気が休まらない。奈津の存在も苦手である。妾を追い出し、その家を使えばよいと文姫は思いついた。
「妾はおりませぬ、ひとりも」
「嘘じゃ」
「まことです。臣の妻は奈津ひとりだけです」
「そんな……」
男児が一人しかおらぬと奈津は言っていた。もしもその子が病で、戦で死ねばどうなる。鎌子には家を継ぐ男子がいなくなる。なぜ、妾のひとりも抱えずにいるのだろう。
「文姫さまの疑問は、よくわかります。周囲の者にも妾を持てと言われまする。もとより、奈津は身分が低い家の娘ゆえ、中大兄皇子にも……采女をひとりくれてやると勧められるのですが、私はこれでよいのです」
「家が絶えても、よいと言うのか」
鎌子は微笑した。これ以上は聞くな、という固い微笑だった。
――わからぬ。
文姫は胸にちくりとした痛みを感じた。
奈津は、鎌子にとってかけがえのない女なのかもしれない。子が少なくとも、妾はいらぬと突っぱねるほどに、鎌子は奈津だけを愛している。それがたまらなく、文姫の胸に疼痛を与えている。
「奈津は、私の親族の家に移しておりますから、文姫さまはどうぞこの東対の部屋をお使いくだされ。臣は北対の部屋におりますから、いつでもお呼びください」
鎌子はすっと立って、文姫を見下ろす。
「それから、文姫さまが新羅の姫ということは、あまり大きな声で言わないでいただきたい。どこで漏れるか、わかりませぬ」
低い声で忠告すると、北対へと下がった。
文姫はひとりきりになり、下女たちの敷いた布団を眺めている。
粗末な布を重ねただけの牀だ。奈津の使っていたものではないかと思うと、文姫は横になれなかった。
鎌子と同じ屋形に寝るというのも、気にかかる。
事情を知らぬ者が見れば、文姫は鎌子の妻となったも同然だ。だが、奈津を愛する鎌子が、文姫に娉うとは思えない。この状況を、どう理解すればよいのか。
倭王の子を産むために、人質として遣わされたことでさえ、文姫には耐忍できぬことであった。すべては兄のため、金春秋のために耐えてきたことだ。それがついに、臣下の邸宅に身を置くことになるとは。身分を隠し、鎌子の妻として認知されるしかないのか。
――そうなれば、もう倭王の子は産めぬ。
いちど大臣の妻に下げ渡された女を、妻に迎える皇子などおらぬであろう。その先にある未来は容易に想像できた。
――待っていても、迎えは来ぬ……。
もはや、これまでかもしれぬ、と文姫は覚悟した。新羅からの迎えも期待できない。むしろ状況は悪くなるばかりだ。文姫にはどうすることもできない。鎌子に強く訴えたいが、この屋形を出ても、居場所はどこにもない。
――ならば私は、誇りある死を選ぶ。
家臣の妻となるくらいなら、自刃する――。文姫は腹をくくった。
侍女たちを呼び、別れの言葉をかけた。
「夢は潰えた。大臣に降嫁するくらいなら、死を選ぶ。おまえたちには、苦労をかけた」
侍女たちに告げると、さめざめと泣いた。その涙を見ていると、倭国へ辿り着いた日のことを思い出す。文姫の頬にもぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「文姫さま、どうかお待ちください。せめて庾信さまに書簡を送りましょう。私どもがかならず、文姫さまの思いをお届けいたしまする」
「届けられるものか、新羅は戦禍にある」
侍女たちはそれでも、必ず新羅へ書簡を届けると強く言った。「この命にかえても書簡を届けます。そのあと、文姫さまのあとを追って死にまする」
「うむ……」
思いとどまった文姫は、金春秋と兄への別れの文を書いた。桐の箱へとしまうと、侍女に託した。侍女はかならず届けると言ったが、届くあてのない書簡である。侍女はなんとか時をかせいで、文姫を思いとどまらせようとしたのだろう。
風をだに 恋ふるは羨ともし 風をだに
来むとし待たば 何か嘆かむ
「文姫さま、それは……?」
「倭国へ来てよかったことは、歌を詠めるようになったことだ」
文姫はふっと笑う。
風を待てることは羨ましいことだ。……思うひとは、決して来ない。来ないとわかっている風を待って、何を嘆くことがあろう。
文姫の待つ「思うひと」とは、金春秋だろうか。それとも、中大兄皇子だろうか。おのれでも、いったい何を待っていたのか、よくわからなくなっていた。
――何のために、子をすててまで倭国へ来たのだろう。
詠み終えて、歌を書き記した紙を桐の箱へ入れた。
――いっそ、中大兄皇子が悪人であれば、恨みをぶつけて死ねたのに。
皇子の優しさがつらい。もう二度と会えぬことが、こんなにも狂おしいとは。もう一度だけ、耳元で囁き、強く抱いてほしかった。
*
突如、がたがたと屋形が揺れるような音がして、文姫はびくりと身体を震わせた。
「なにごとだ」
慌てるような兵の足音。鎌子がなにかを指示する声。馬のいななき。鎌子とともに、何人かの兵が急いで屋形を出て行った。文姫は刀子を懐にしまうと、侍女を呼んだ。
怯えたように侍女たちが文姫の部屋に集まってくる。
「いったい、いかがした」
「蘇我倉山田石川麻呂というお方が、謀反を起こされたと……」
「謀反だと」
石川麻呂とは、どこかで聞いた名である。文姫は記憶をさぐり、たしか中大兄皇子の妃が、蘇我倉山田石川麻呂の娘ではなかったかと思い至った。
『これから血なまぐさいことが起きるでしょう――』
鎌子の声が脳裏に響く。
――謀反……
それが真実か否かは不明だが、中大兄皇子の側近にいやな動きがあったことは確かだ。
それからすぐに、奈津が屋形へ来た。
「奈津か。一大事のようだ」
「姫さま――」
蒼白な顔の奈津は、五歳くらいの童子を伴っていた。聡明そうな目つきで、すぐに鎌子の嫡男だとわかった。
「失礼仕ります。中臣真人にございます」
童子ながらにりっぱな礼をした。文姫は胸裡で感心した。奈津の産んだ子とは思えぬほどに、容儀にすぐれている。午に騒いでいた童子たちとは明らかに違う。
奈津はというと、午のような快活さは消え、目を赤くしている。謀反の知らせを聞き、怯えているのだろうか。
「姫さま、蘇我氏の残党が中臣の領地を襲うかもしれませぬ。どうか私どもが屋形へ入ることをお許しくださいませ」
奈津の震える声に、文姫は驚いた。
「ここは、そなたたちの屋形であろう。私の許可など要らぬ。早う、上がれ」
と、奈津と真人を促した。真人は頭を下げたままである。
奈津は恐る恐る部屋に上がると、敷かれたままの布団に目をやった。使われた形跡のない布団をみると、「おやすみにならなかったのですか」とおずおずと言った。
「考えることが多くてな、ひとりで月をながめておった」
「そうですか……」奈津は少し安堵したのか、目元を緩めた。
奈津は、文姫と鎌子が床をともにしたと想像したのだろう。はっきりとさせておかなければならぬと文姫は思い、
「なにか誤解しておるようだが、私は、鎌子の妻にはならぬぞ」と、奈津に向かって明言した。「鎌子の妻は、そなたひとりだ」
「……いえ、いえ、それではいけません」奈津はぽろぽろと涙をこぼした。「姫さまのような高貴な方が妻となってくだされば、夫は安泰です。ですから、どうか、中臣の妻となってくださいまし」
「莫迦を申せ」
やはり奈津は、文姫が鎌子の妻になると考えていたのだろう。
第14話へ続く
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