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風を待つ<第15話>陰と陽

「ですが、夢やぶれて誅殺されるかもしれませぬ。石川麻呂のように。山背大兄皇子のように」

「だから妻を一人しか持たぬのか」
 いずれ殺されるかもしれぬのに、死なせるとわかっていて子を作れぬと鎌子は考えていたのか。

「臣が妻子を少なくしておるのは、怖いからです――血族すべてが吾のために殺されると思うと」

「真逆だ、鎌子どの」文姫は鎌子の衣を握りしめていた。「だから子を多く作らねばならぬ。ひとりで戦おうとしてはならぬ」

 鎌子ははっとして、文姫を見た。

「そなたひとりで何ができる。そなたの子、真人はなかなか賢そうな男児だ、しかしあの子だけではたよりない。真人を守るきょうだいがいる。子を作れ、鎌子どの」

 鎌子の目が微妙にゆらいだ。とまどう鎌子の目と合って、文姫はおのれが何を言っているのか気づいた。文姫が鎌子の子を産むと言っているようなものだった。

 身を引こうとしたが、遅かった。
 強い力で床に押し倒された。驚いて、逃れようとすると、鎌子の涙が文姫の頬に落ちた。再び唇を重ねたとき、ぞくりとした快感が走った。足がふるえた。躰の奥が熱くなっていく。

 陰と陽。
 女が陰で、男が陽の気を持つ。だがいまは文姫が陽、鎌子が陰だった。

 鎌子は文姫の持つ陽の気を求めている。本能のすべてで。
 鎌子はするりと手を伸ばし、文姫の腰に触れた。裳をまくりあげ、太股に指を這わせる。鎌子の指が、文姫の湿りを知ったとき、文姫は首をのけぞらせた。

 鎌子の指が、文姫にさらなる悦びを与えていく。
 尖った舌先が、文姫の股へすべってゆく。探るようにして、鎌子が深みへと顔をうずめた。

(ああ、私は)
 秘奥を舌で弄ばれ、文姫は悲鳴のような声を上げた。

 乱れる衣をもどかしく払い、肌を重ね合わせる。
 鎌子は顔を離し、文姫の足をおのれの肩にかけた。
 いつの間にか鎌子の闇は消え、陽に転じた。文姫は陰となり、鎌子の力を受け入れていた。文姫の奥で鎌子のそれを受け入れたとき、文姫は処女のごとく呻いた。それは文姫を汚すものでも、陥れるものでもなかった。全身がびりびりとしびれ、鎌子が動くたびに、文姫は満たされてゆく感覚だった。

 文姫の中にある何かが壊れ、何かが目覚めた。
 壊れたものは、金氏の血統であるとか、真骨であるとか、文姫にまとわりついていたものだ。それが文姫の誇りであり、すべてだった。文姫がまとう衣であり、文姫そのものであった。

 だが、鎌子がそれを壊し、そして文姫の中にあるもうひとりの女を目覚めさせた。
 愛されたい。愛したい。裸の女が叫んでいる。魂魄が叫ぶように、文姫は鎌子の背に爪を立てていた。

「うう……」
 鎌子の目は、苦痛に歪んでいる。こらえきれぬ、といった苦悶の表情だ。男もまた、おのれを包む何かを破ろうとしているのか。あと一枚の理性を保ちながら、文姫をさぐっている。

 ――このひとはまだ、躊躇している。
 文姫を貫きながら、わずかに残った理性で、おのれの行為を後悔している。鎌子の動きがゆるやかになった。

 力をゆるめた鎌子の腕から逃れ、文姫は身を起こした。そのまま、鎌子を押し倒す。鎌子の目が大きく開かれた。その身体にまたがるようにしておのれの身を重ねた。

 鎌子の手が、乳房を持ち上げる。
 子を産んだ文姫の乳房は、若い娘に負けず劣らず、小さな山のようにふくらんでいる。それを鎌子は恍惚とながめ、
「――文姫」
 何度も文姫の名を呼び、下から突き上げた。

 互いの絶頂が押し寄せた。果ててもなお、二人はまた絡み合い、互いの何かを奪うかのように抱き合い続けた。

 夜が明けきって、ようやく鎌子は文姫の躰を離した。
 文姫は、床に伏したまま、衣を着る鎌子の背を見つめている。その背には、文姫がつけた爪痕がくっきりと残っていた。

 鎌子の中にあった闇も、文姫に取り憑いていたものも、すべて落ちた気がした。
 どうしてこんなにも荒く抱かれたのに、おのれが救われたような気がするのか、まるでわからなかった。

 少しだけ振り返った鎌子は、少し申し訳なさそうに、
「臣はかならず、あなたを新羅へ帰します」とぽつりと言った。

「鎌子どの」
 文姫は床に横臥したまま、鎌子の背に言った。

「やはり私のための宮を建ててくれぬか。この屋形には、奈津が相応しい。奈津を追いやってはならぬ。そなたはここに居て、どうしても苦しいときは私の宮へ寄ればよい」

 鎌子は静かに微笑した。

***

 六五四年(白雉五年)――

 文姫はひとりの女児を産んだ。氷上娘ひかみのいらつめという。中臣鎌子の子である。

 四年前、鎌子の邸宅のそばに、文姫のための新しい宮が造られた。美しい池があり、鏡のように空を写していた。文姫の倭国での呼び名「鏡王女」と合わせるように、鏡宮と呼ばれている。

 鏡宮に入った文姫は、鎌子の屋形へみずから寄ることはなく、ひっそりと暮らしていた。現在、文姫の周りにいる者は、新羅から伴ってきた三人の侍女と、鎌子から与えられた舎人が五名だけである。

 たまに、奈津が山菜を持ってくるほかには、訪れる客人もいない。
 それでも、風聞とはどこからともなく流れるもので、鎌子がついに側室を持ったと評判になった。世間では、文姫のことを「中大兄皇子から下賜された采女」だと噂しているようだ。

 中臣鎌子はこの年、孝徳天皇から紫冠を授けられた。ついに最上位の大臣おおおみとなったのである。

 おだやかすぎるほどの日常だった。
 夏の終わり、夕暮れ前に、文姫は氷上娘と庭に出ていた。汗で肌が荒れている氷上娘を涼ませようと思った。秋を告げるようなすずやかな風が吹いている。

 いつから鏡宮にいたのか、鎌子が石畳を歩いて来る。
「涼しいな」
 あしぎぬの紫冠が風に揺れた。鎌子は、目を細めて、氷上娘と文姫を見つめている。

「夕暮れどき、ここで涼むと、この子の機嫌がよくなります」
「たしかに、よく笑っておる」
 鎌子は、氷上娘の柔らかな髪を撫でた。

「真人は――無事に出向しましたか」
「ああ、波も穏やかであった」

 鎌子と奈津の嫡男である真人まひとは、学問を極めるために学僧となり、唐へと渡った。真人はまだ十一歳だが、国博士の僧旻そうみんに才知を認められ、学僧としての推薦を得た。文姫は反対したが、真人の意志は堅かった。

 世間では、鎌子が人質として嫡男を唐へ送ったのだとか、側室との確執で嫡男を追放したのだとか、勝手な推測をしていた。文姫に仕える侍女たちも、そうした噂に敏感である。

 文姫は、おのれのために真人が唐へと旅立ったのではないかと想念している。
 真人を産んだ奈津は、身分の低い家の出身だった。もともとの中臣氏の身分を思えば、それほど釣り合わぬ女ではないのだが、紫冠を授けられた鎌子には不相応な女となってしまった。

 真人は、文姫に男児が生まれたときに争いとならぬように、自ら去ったのであろう。もし文姫に男児が生まれなければ、そっと帰国すればよい。そのとき学問を修めておれば、真人には国博士としての道が開ける。

 いずれにしても、文姫は深く追求しないことにしている。
 真人の気持ちはどうあれ、鎌子には子供が少なすぎる。これから中臣氏を繁栄させようと思えば、もっと多くの子を産まなければならぬ、と文姫は考えている。奈津にも、まだまだ頑張ってもらいたい。

 鎌子は、文姫の産んだ氷上娘を溺愛してくれていた。
 身分の高い男は、女に子を産ませると、別の妻のもとへと通う。子育ては女と乳母に任せ、次第に離れてゆくものだ。ところが鎌子は、文姫の産褥さんじょく室にも頻繁に顔を見せた。毎日のように、侍女たちに子の様子を聞いていたという。
 これほどまでに子を慈しむ男は初めてである。

「少し、よいかな」
 いつもなら氷上娘を抱き上げる鎌子だが、今日は様子が違った。文姫に部屋へ戻るようにと促す。

 鎌子の背に、夕暮れの色があたっている。少し寒さを覚えて、文姫は首をすくめた。
 氷上娘を乳母に預け、部屋へ入ると、鎌子が一通の書簡を取り出した。

「これは……」
 全身が凍りつく。

 ――文明王后金氏
 と書かれている。

 忘れるはずもない、兄・金庾信の筆跡であった。
 それだけで、いったい何が書かれているのか、おおよそ予想ができる。文姫の名を「文明王后」と記してあるのは、金春秋が王位に就いたということだ。

 鎌子が差し出した書簡を受け取れず、文姫はふるえた。
「読まぬのか」
 文姫は逃げるように、膝で後退った。

「捨ててください」
 鎌子は少し眉根をひそめた。

「私に遠慮することはない。新羅の女王が崩御されたと聞いている。その知らせが、あなたのもとにも来たのでしょう」

「女王が……?」
 あまりにも早い死だ。善徳女王の崩御後、王位に就いた勝曼公主(諡は真徳)は、在位八年で死去したことになる。

「あなたは、いつから知っていたのですか? 女王が崩御されたこと――」
「春に……ただ、噂に過ぎなかったので、おまえには言わなかった。今朝、新羅からの使者が来て、女王が崩御されたこと、金氏が即位されたことを知った。そして、書簡を預かった」

 鎌子は、文姫の手に書簡をにぎらせた。
「ゆっくり読みなさい。金庾信殿は、おまえとの約束を忘れてはいなかったということだ」
 鎌子は立ち上がる。
「もうお帰りになるの」
「今日は、な」
 また来る、と言って、鎌子は帰っていった。

 第16話へ続く


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