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古民家の保存活用・2地域居住・一人暮らしに老馬がかけた!

 古民家の保存と活用、2地域居住(栃木県佐野市⇔埼玉県熊谷市)、一人暮らしと欲深い目標に挑戦した古希を過ぎた老人のひとり言。
 2017年9月に栃木県佐野市の里山地域の古民家取得。2019年4月から住民票を熊谷から佐野に移し、2地域居住と一人暮らしを開始。古民家活用のために、2019年11月に創業。
 6年目の夏はコロナ第7波、猛暑、雷雨の中で迎えた。
 5年間の成果は・・・
目 次
1 古民家取得とビフォーアフター
2 古民家活用に挑戦
3 再挑戦のレンタルスペース事業
4 老馬は再びかけだせるか?

1 古民家取得とビフォーアフター
 四住期(学生期・家住期・林住期・遊行期)という人生を4区分するインドの人生論に、当てはめるのは無理があるので、私なりに4区分した。
 25歳まで学生期、25歳から60歳まで家住期、60歳から70歳まで地域貢献期、70歳から林住期とした。
 無事に古希を迎えられたら、全てから解放されて自由になり、好き勝手な日々を送るという身勝手な生き方である。
 古希を迎えた年(2017年)にチャンスが到来した。
 「野菜を買うように、1軒の家を買う人がどこにいるの!奇人変人馬鹿老人!私は一緒に住まないし、手伝いもしない。一人でやりなさい!」と妻から攻められた。
 それを押し切って、栃木県佐野市の里山地域の古民家を取得して、古民家の保存と活用、2地域居住(栃木県佐野市⇔埼玉県熊谷市)、そして一人暮らしと欲深い生活が始まった。
 夏の盛りに物件を見学し、9月に取得したから、今年の夏は6度目である。 
 私の身勝手ないきさつから、親戚・知人・地域の隣組などに内緒事にしていた。
 妻も煩い夫がいない分、自分の自由時間は増え、好きな趣味活動が充実していった。家事の必要が生じれば、呼ぶという生活スタイルに、徐々に満足感を高めていき、こんな関係も良いかなと、妻は思っているかもしれない。
 また、長く続くコロナ禍で、家族だけで過ごす時間が増えて、夫の存在と他の地域に家があることに、価値を見出していた。

 この夏、妻は初めて妹を案内して来た。
 里山古民家一人暮らしを5年間も内緒にしていたから、妹も興味津々であり、直接私の話を聞きたがっていた。
 
 2017年8月5日、栃木県佐野市の中山間地に建つ古民家の前で、不動産会社の担当者の説明を聞いていた。
 夏の陽射しが照り付けていたが、熊谷からすれば過ごし易さを感じた。周りの木々の緑と標高の高さからだろうか。
 「山城跡のような場所ですね」
 「標高が150mありますから」
 「中をご案内します」と担当者は、先に立つ。
 母屋は南向きの切妻屋根2階建てで、東が山裾で進入路は西側である。
 南側の雨戸が閉めっ切りだから、光が入らない。懐中電灯を持って案内の先に立ちながら「埃が凄いから、靴のまま上がってください」という。

 「案内するから、上がって」と妹に声を掛ける。
 妹は土間に入った時から、落ち着かない。土間の天井の高さと上框から広がる座敷とガラス戸を通して入る夏の陽射しに、感嘆の声を上げる。
 「この間、三宅裕司さんのふるさと探訪の撮影場所に使われたよ。この上框に三宅さんが座っていたんだ」というと、口を開けたまま言葉を失う。

 担当者の後ろについて、上框を上がり、座敷に立つ。閉め切りの雨戸を通して差し込むわずかな光であったが、柱や梁の太さ、襖絵、欄間の飾りの凄さを見て取れた。
 これはお寺の庫裏のようだ。
 南の廊下の先がトイレであった。「水洗トイレに直されていますよ」と担当者の説明。トイレ前の廊下の先は、雑多な物が積まれていて行き止まり状態であった。
 一旦、土間に戻り、そこから台所に案内される。食卓の上には、食事の片付けをしないまま時間が止まっていた。
 台所隣に洗面所と浴室。ここは、トイレの改修と一緒に行われていた。南側の表座敷に中座敷、そして北座敷と並んだ配置であったが、北座敷は雑多な物で塞がり、入れない。
 中座敷の4畳半のこたつ部屋、その隣の仏間を日常の生活に使用していたのだろうか、この2つの部屋には生活の臭いがあった。
 唖然として佇んでいる私に、「2階に行きましょう」と、担当者は声を掛けて先に立つ。

 「どこで生活しているの」と奥の座敷で妹は聞く。
 「隣の部屋だよ」と襖を開けて見せる。
 夏場は、中座敷の6畳間と北座敷6畳間を使い、テレビを観るのは、このこたつ部屋と案内する。
 「いくつ部屋があるの?」
 「今の間取りの言い方ならば、14DKだね」
 「一人暮らしの家ではないよね」と、あきれ顔。
 土間、座敷の2部屋はレンタルスペースにしてあるから、家具など置いてない。更に、古民家に興味を持つ来訪者を想定して、整理整頓に努力してきた。

 上框から2階への階段を上る。2階は南側の雨戸は撤去されてアルミサッシ戸になっていた。
 踊り場の部屋には古い畳が積み上げてあり、南側の2つの座敷は、寝具、衣類、家具で、足の踏み場もない。各部屋の破れ障子は、空き家の現実を物語っていた。
 「洋間が1つあります」と、踊り場の北側の部屋を指さす。
 積み上げられた古い畳で、洋室のドアが全開せず、隙間から中をのぞく。ピアノが置かれているのに驚いてしまう。

 「2階に上がる階段が2か所あるんだよ」
 驚く妹の顔を横目に見て、山裾側の狭い階段を上がる。
 「ここに来たときは、この階段は物で塞がれていて使えなかったんだ」
 南側の座敷は、東から床の間、8畳、5畳、6畳の踊り場と並ぶ。北側は4畳半、6畳と9畳の洋間が並ぶ。
 「冬場はこの床の間の部屋が寝室になるんだ」
 「・・・・・」
 「2階からの景色が気に入っている」
 「・・・・」

 各部屋の物量に圧倒されている私に、「外を案内しますよ」と声を掛ける。
 外に出ると夏の陽射しは庭の木々に降り注ぐ。百日紅の花が目に入る。
 地形は扇状で進入道路が扇の要となり、山裾に広がっている。道路と山裾の高低差は10メートルほどで、石垣が積まれた段差のある敷地が造られている。
 500坪ほどの敷地内に、母屋を含めて7棟の建物がある。大きな農家とはいえ、その数に驚いてしまう。
 1時間ほどで、見学会は終わった。
 「考えてみますと」言って別れた。
 佐野を訪れた記念に、帰路の途中にある日本百名水の出流原湧水池と弁財天社に立ち寄った。
 出流原弁財天の社殿は、京都清水寺のような掛け造りであった。汗をかきかき上り、社殿の舞台で涼やかな風に吹かれながら、佐野平野を見渡した。
 「どうする。このチャンスはもうないかもしれない。里山と古民家の条件を満たしている」と自問自答した。
 妻に何と説明するか悩んだが、弁財天のご宣託だと勝手に決めて、不動産会社の担当者に電話を入れ、「購入する」と伝えた。

 妹を案内する。敷地の広さと納屋などの数に驚くが、それぞれ片付いているので、感心したり賞賛したりと、騒々しいほどの言葉をかけてきた。
 母屋に戻って、妻の顔を見ながら「凄い!凄い!」と連発。
 「何かやっているとは気が付いていたけど、本当に凄いし、兄さんも随分若返ったみたいね」
 「10歳ぐらい若返ったよ」と私は笑う。
 妹の嬌声を聴きながら、妻は微笑む。

2  古民家活用に挑戦
 2017年9月に古民家を取得し、居住環境を整えるのに1年半を要した。
 2019年4月に住民異動届を出し、里山で古民家暮らしを始めたものの、これだけの古民家を活用しなくてはもったいないと、年寄りが再び行動を起こしてしまった。
 佐野商工会議所の「創業の支援相談を受けます」という案内に、心が動かされ古民家の活用を相談したところ、栃木県よろず相談拠点(経済産業省所管の中小企業支援)の無料相談会を紹介された。
 早速、無料相談会に出掛けて、そこで「栃木県地域課題解決型創業支援補助金」の申請を指導されて、古民家活用事業が動き出した。

 申請の事業テーマは「古民家保存と活用を通して、地元アーティスト達と自然とアートの融合を図る」という、壮大なものであったが、事業内容は母屋に厨房設備を加え、土間と2つの座敷をギャラリースペースにする「ギャラリー&カフェ」の店舗にすることであった。
 思いがけずに申請は採択された。指導員の先生に感謝をしながらも、資金確保や行政への諸手続きなど、予定期間内に進められるか不安の中でのスタートであった。

 鼻先にぶら下げたニンジンに、老馬は走り出した。
 不思議なほど体調に恵まれ、厨房設備工事、保健所等への許可申請手続きをこなし、この年の11月1日に「閑馬の風アート館」として開業した。
 開館記念企画展は、地元工芸作家の方々の協力を得た。この企画展は地元下野新聞に取り上げられ、幸先の良いスタートになった。
 続いて、地元の伝統文化を伝える「佐野掛地の魅力・下野とちぎの民画」展を翌年1月に開催。今度は佐野ケーブルテレビの取材を受けた。

 老馬も良く走ったと自画自賛をしながら、次の事業の企画を練っていた。
 そこにコロナウイルスの感染拡大の情報に接し、不安に駆られた。
 佐野市の事業の中止や延期の報道に、当然、閑馬の風アート館の事業も中止せざるを得ないと判断した。
 当初、夏頃には収まってくるのだろうと甘い観測をしていたところ、収束どころの状況ではなく感染が拡大し、先の見えない状態に追い込まれてしまった。
 佐野商工会議所の小規模事業者経営相談や事業持続化補助金申請などの指導を受けながら、非対面型の事業に切り替えるために、国の小規模事業者継続補助金に応募した。
 この補助金申請の手続きは、高齢者には荷が重く、結局3回申請したものの採択されずに終わり、2021年を迎えてしまった。

3  再挑戦のレンタルスペース事業
 「夢破れて古民家ありだ」と妻に愚痴をこぼしたら、妻曰く「後期高齢者なのだから、大人しくしていなさい。なんなら潔く私の元に帰りなさい(笑)」
 返す言葉がなく、高齢者の創業、地域活性化の一助にと勢い込んで走り出したことが、何か懐かしくなり、夢から覚めたよう気分であった。
 だが、この間、母屋の手入れや納屋を使用した納屋ギャラリーづくりに時間を割いた。
 小規模事業者は、商工会議所に期待していた。私も足繫く佐野商工会議所に通った。
 2021年の夏の最中に、佐野市役所の「サテライトオフィス・コワーキングスペース」補助制度を紹介された。
 佐野市は高速道路を利用したアクセスと自然環境に恵まれた立地条件を、積極的に活かした地域づくりを推進中で、その一つとして、サテライトオフィス等を開設する企業や個人事業主への補助制度を作り、支援を始めていた。
 早速、佐野市役所に伺い、担当課で相談すると、補助制度に該当するからと申請を勧められた。
 事業の再開見通しが立ち嬉しくなり、直ちに申請に必要な書類を用意して提出。すると、2週間後には採択の連絡を受けた。
 補助事業の内容は、wifi環境及びび照明・空調などの整備であり、9月中に発注し、10月には「サテライトオフィス閑馬の風」オープンの予定で準備を進めた。
 事業は多少遅れたものの、2021年12月にスタートすることが出来た。
 運営は全国のレンタルスペースの簡単予約サイトに登録して行う方式を取り、
 施設のPR、予約の受付、使用料決済までの事務作業が委託でき、私がやるべきことは施設の維持管理、利用者の入退室管理ということで、一人でもこなせる範囲であった。

 ちょっといい気分で2022年の正月を迎えた。
 レンタルスペースの利用者確保のため、自らも施設のPR活動に努力することは言うまでもない。
 ホームページの充実とブログやSNSの利用を図って情報発信に努め、更に、本来の芸術文化情報の発信のための、納屋ギャラリーの活用を計画した。
 ところが、出鼻を挫くように、またまたコロナウイルスが、老馬の行く手に立ちはだかり愕然とさせられた。

4  老馬は再びかけだせるか?
 2022年2月には第6波のコロナウイルスの感染者数がピークとなり、今年も駄目かなあとあきらめムードであったが、その後感染者数は減少に転じ、栃木県は「まん延防止等重点措置」を3月17日に解除した。
 だからといって、利用者や来館者が増えるわけではないが、施設のPRをする機会が訪れたので、4月から納屋ギャラリーの企画展示事業を開始した。
 また、レンタルスペースの貸出条件である1組利用人数制限を引き上げるなどの対応を図った。

 今年は古民家取得5周年になり、私たちの結婚50周年であった。
 当初、私の古民家取得に、妻は「奇人変人馬鹿老人」と猛反対をしていたものの、熊谷と佐野を行き来しながら「2地域居住をやっている老人はいないよ」と、嬉々として活動する私の姿に怒りは緩和し、協力する姿勢に変わってきていた。
 「なんでも記念日は大切だよね」と、妻の機嫌を取りながら、古民家レンタルスペースPR事業として、妻の作品展を提案した。
 妻は子育てを終えた後、ガーデニングや絵画、手芸等趣味の活動に時間を割き、たちまち沢山の作品を創り出していた。
 5月1日から5日間の会期で、作品展を開催し、古民家の魅了のPRに努めたことが、下野新聞に取り上げられて、すっかり気を良くし、ギャラリーの企画展示も毎月開催してきた。

 気を良くして活動を再開していたところに、三度大敵コロナが立ち塞がった。日々記録更新するコロナ第7波である。
 楽しみにしていた6度目の夏も、自粛モードにならざるを得ない状況になった。
 何しろ施設の運営者自体が高齢者であるから、栃木県のBA・5対策強化宣言の発令は、高齢者への外出自粛も織り込まれていた。

 「それにしても静かね。ヒグラシの鳴き声も清々しい」と言う妹の言葉に、うなずきながら、「ここまでできたのだから、十分よ。第7波が来ているのだから、大人しくしていなさいよ」と妻は言う。
 「ここに来る途中の工事現場を見たろう。北関東自動車道の新しいインターチェンジができるのだよ。ここから車で8分だよ。それと開通日が9月19日に決まったんだ!」
 古民家取得日は、2017年9月19日である。そして、その記念日は孫娘の誕生日に合わせて決めた。記念日尽くしと私は一人で悦に入っていた。
 だから、今年の厳しい夏をまず無事に乗り越えなくては、念願の事業の成果は出せない。
 老馬に鞭を入れてたが・・・・・。
 里山の風景は6年前と何一つ変わらない。

[付記] 古民家の地栃木県佐野市閑馬町は、名馬産出の伝承がある。木曽義仲と源頼義・源義経の宇治川の戦いで、先陣争いの佐々木高綱と梶原景季が乗る馬は、共に下野国安蘇郡(現佐野市)の産である。佐々木高綱は「池月(いけづき)」梶原景季は「磨墨(するすみ)」。いけづきは飛駒町(閑馬町の隣地)、するすみは閑馬町の産と伝わっている。
 閑馬町の名前の由来は、源頼朝が平家との合戦にそなえ、軍馬を集めるため馬狩りをした時、野生のすばらしい馬を2頭見つけ、1頭はすぐに捕らえ、もう1頭は走り疲れて、池で水を飲み休んでいるところを捕らえられた。そこから、馬が静かになったところで「閑馬」と呼ぶようになったとある。
 老馬もこの伝承に影響を受けているかもしれない。

#やってみた大賞 #里山 #古民家 #一人暮らし

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