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コメント

YouTubeのコメント欄をひとたび開けば目に飛び込んでくる有象無象に苦笑いやため息が出てしまいがちで、「なんで開いちゃうんだろうなぁ」と思いながらまた開くという行為を60万回はやってきた自負があります。そんなテスターの権化である僕は最近ふと感じたことがあるんです。

「音楽MVとかのコメント欄って作品価値を大きく高めることに貢献してないか??」

いやいや突然の自分語りとかあるし、目も当てられないだろあんな混沌…みたいな意見もあるかもしれません。てかあります。なんなら僕もそう思う節はあります。しかしながら単純な個人的感想で終わらせるのは勿体ないエリアだと思うんですよね。

というもの先日、このMVを見ました。

=Love(イコールラブ)/CAMEO 【MV full】

なんなら今もこれ流してます。イコラブサイコー!

とりあえず私情は置いておいて…
ここのコメント欄に数点、曲やMVそのものへの考察コメが存在してたんですよね。(自分がまだイコラブ詳しくないというのもあるんですけど)思わず感嘆の声をあげてしまうほどの。先程の推察を頭に入れながらもう一度MVを見ると、なんだか色付きが違うように思えてくるわけです。他人の解釈を拝借して、自分の理解を更に肉付けしていくという過程が生まれ、より作品に愛着が湧いてしまう。たとえそれが作詞家作曲家が意図した表現でなくとも、確実に私的な評価はあがるんです。「送り手と受け手により作品性が増していく」、これは文化資本の在るべき形であり、現代でそれが確保されつつあるのでは?と考えたわけです。

高校の時に谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」の一部を課題文として読んだことがあります。そこでは漆器や螺鈿品を嗜む空間の条件が論じられていたのですが、これは作品というものは製作者だけで完結するものでなく利用する者が適したTPOで作品を鑑賞することで完結しうる、という旨の主張を(噛み砕きすぎですが)していました。対象物を味わう際、作品の深みは受け取り手にも委ねられるわけです。それはきっとTPOだけでなく、知識や教養であったりもするわけです。

あなたがハマらなかった曲は聴く時間帯が悪かったかもしれない。アーティストの人物像を知らなすぎたのかもしれない。リリース時の世相が関わってくるのかもしれない。一つの作品に対して複数のアプローチをしていくことで、なにか打開できる可能性もあるんじゃないでしょうか。

おまけ

つい最近思いついたことで「うーん、薄すぎるかな」とも思ったんですが、指原莉乃さんのツイートにこのようなものがあり、「送り手もそう思ったりするんだ!もう少し吟味しよう!」となった次第です。Twitterは考えのタネがたくさん転がってて楽しいね。

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