「うまくいくため」ではなく「紐づいた感情を変えるため」の行動

昨日の記事(参照:もう少し笑うようにしよう)で、「お笑いを見る」ことにして、早速、ちょっと長めにお笑いを見てみた。

思ったより面白い動画で、面白すぎて涙が出た時も。狙い通り。


思い出し笑い

実際にお笑いを見て思った事は、「見ている時だけに影響があるわけじゃない」こと。要は、「思い出し笑い」が出る感じ。

実際に笑っちゃうことはなかったけど、思い出しては「ふふふっ」ってなることが、今朝まで続いている。

一日の「ふと」した時が笑顔になる。思い出し笑いって、案外すごいパワーがあるんだな、と思った。

逆に考えると、日常生活に嫌なことが多いと、「思い出しムカつき」とか、「思い出し怒り」が発生しているのかも。ふとした時に、それらが出てきてしまう生活になってしまっていたら、嫌なことに二度三度とダメージを受けさせられているのか。


喜怒哀楽、どの感情でも大きく心を揺さぶられた時は、それがしばらく何度も思い出されてしまう。

たとえば何か失敗した時に、「恥ずかしい!」と思ったとする。

そして、失敗は失敗として、それが解決されていたとしても、心に「恥ずかしさ」だけが刻まれたままになる。


紐づけされた感情を塗り替える

以前ラジオで某芸人さんが、「嫌な思い出がある場所にあえて行って、楽しいことをして、その場所に対する感情を塗り替える」というようなことを言っていた。

例えば、彼女に振られた店に仲間内で行って、わいわい騒いで楽しい思い出をいっぱい作る。

過去は変えられないし、過去に感じた感情も変わらない。だけど、場所に紐づけされた情報を増やす。感情を上書きする。そういうことって、案外有効なことなのかもしれないな、と思った。


場所だけではなく、「行動」や「状況」についても同じだと思う。

「以前こういうことをしたときにこういう失敗をした」

その行動=恥ずかしい

出来事に感情が紐づけされているのだと思う。


感情を塗り替えるために、同じ行動に再挑戦する

※ここからは、今後自分はこういう風に生きてみようかなあ、という話なのだけど、よかったら読んでください。

最初は怖いけど、「感情を塗り替える」ことを目的に、以前失敗してしまったことにもう一度挑戦する。

それは、上手くいくことが目的ではないので(上手くいけばそれにこしたことはないけど)、できなくても、違う感情を感じることができればいったんクリア

もちろん、何一つ当時の自分のままでは、同じ失敗を繰り返してしまうだろうから、完全にできるようにならなくても、ある程度勉強をしたり、前回失敗した時よりも入念に準備をする。

感じる感情を、ある程度想定しておいてもいいのかもしれない。

● よく頑張った
● 面白かった
● 成長することができた

とにかく、「恥ずかしい」から脱却したいのなら、それ以外の感情を行動後に得られるように、準備する(邪道かな?)。


自分の感情に正直すぎるのかも

ここまで書いてきて、上手に生きている人たちは

「恥ずかしい」→「でも勉強になった」

という風に、再行動を挟まずとも、自分の感情を上手に誘導できるスキルが身についているのだろうな、と思った。

それがうまくできない自分は駄目だなあ、なんて思ってしまいがちなのだけど、ひょっとしたら、自分の感情に正直だからできないのかもしれない、と感じた。

「恥ずかしい」→「でも勉強になった」

の場合、きっとそれができないのは、「いや、まったく勉強になってないなんて思ってはいないけど、『いや~、本当に勉強になった!』って言いきれるほどの納得感がないんだよなあ」と、その感覚さえも大切にしているということ。超、自分に正直。

だからこそ、「本当にそう思う」ために、もう一度行動をする。

なんだか遠回りだし、ばかばかしいような気もするのだけど、それをやると、確実にしっくりくるだろうな、という気はする。

ばかばかしいし、遠回りだし、時間はかかるし、手間はかかるし、勇気はいるけど、その「行動」や「状況」が、人生でしょっちゅう出会うものだとしたら、挑戦してみた方が、その先の人生がぐっと生きやすくなるのではないだろうか。

「うまくいくため」ではなく「紐づいた感情を変えるため」の行動

自分で書いておいて、あまりやりたくない気持ちもあるのだけど、きっとこれが今の自分に必要なことだろう。今、「何について必要か?」と考えると、思いつくことはないのだけど、「これは、『「うまくいくため」ではなく「紐づいた感情を変えるため」の行動』が必要なやつだ!」と思う時が来たら、怖いけどトライしてみよう。


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