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【試し読み】ハン・ジョンウォン「寒い季節の始まりを信じてみよう」(『詩と散策』より)


【試し読み】ハン・ジョンウォン「寒い季節の始まりを信じてみよう」(『詩と散策』より)

 話をするとき相手の顔をじっと見るほうなのだが、不思議なことに、別れたあとは記憶が薄れ、声だけが耳に残る。息を引きとったあとも残るのは聴覚だというけれど、だからだろうか。
 かと思うと、ある人の声がどうしても思い出せなくてもどかしいときがある。電話をかけるとか、会えばすむことなのに、どちらもできない場合だってあるから。そんなとき声を恋しく思う気持ちはけっして、顔を恋しく思う気持ちに劣らない。声は、瞳も唇も指もついた、撫でたくてたまらない体になる。

 冬は凍った川辺によく腰を下ろす。ときには通り過ぎずにずっと眺めていたい風景もあるのだが、私にとっては凍った川がそれだ。
 氷点下になると、川の流れは白い氷の下に閉じ込められる。凍る瞬間も揺れ動いたため、川面の模様や同心円状に広がった波紋が透けて見えるところもある。表面は厚い氷に覆われていても、川底では変わらず水が流れ、魚が泳いでいるはずだ。どれだけ硬いのか確かめたくて、私は足元の石ころを拾い、氷の上に投げてみる。石は鈍い音をさせて跳ね、そばに落ちる。歩いてもよさそうなのに、なかなか足を踏み出せない。
 これは、なにかの本で読んだ記憶はあるけれどタイトルが思い出せない話。
 冬に凍った川を馬に乗って渡った人たちが、翌年の春、氷が解けたそこで馬の蹄の音を聞いたそうだ。川が凍るときにともに封印された音が、氷が解けるにつれよみがえったのだ。馬も人もとっくに去ってしまったのに、彼らがいたことを証明する音が残っている。目を閉じその光景を想像するだけで、涙が出そうになった。くだらないと思う人もいるかもしれないが、私は生きていくうえで幻想は必要だと思っている。真実に目を背けず向き合うためにも、自分だけの想像を秘めておいたほうがいい。想像は逃避ではなく、信じる心をより強く持つことだから。
 凍った川に魅せられたのはそのときからだ。そして、私が失った声はきっとそこにあると信じるようになった。

 友人といっしょに凍った川を眺めたことがある。私は彼女を慰めたいと思っていた。つらい死別がなんども彼女を襲った。それでもまた笑顔を取り戻したように見えたが、その笑顔と笑顔のあいだに暗い窪みがないはずがない。しかし、私はいつも彼女を慰めるのは無理だと痛感させられた。いかなる慰めも都合のよい言葉にすぎなかった。それが慰めの限界であり、言葉の限界だろう。
 冬には「冬の心を持たねばならない」「十分に寒さにさらされねばならない」と言った詩人がいる。

霜や、雪の皮で蔽われた
松の枝をじっと見つめるには、
冬の心を持たねばならない。
  (略)
トウヒを眺めることもでき、また風の音や
かすかな葉擦れの音に、
みじめな思いをせずにいられる。
  (略)
聞く者は、雪のなかで耳を傾け
わが身も無と化して、そこにないものは
何も見ず、そこにある「無」を見つめるのだ。
                     
ウォレス・スティーヴンズ「雪の男」(『アメリカ名詩選』亀井俊介、川本晧嗣訳、岩波書店)

 冬の心で冬を見つめるのは当たり前のようだが、いま思うと、そうではなかったときのほうが多かった気がする。春の心で冬を見ると、冬はただ寒くて悲惨で虚しくて、早く去ってほしいだけの季節だ。しかしどんなに急かされようと、冬は自分の時間をまっとうしてからでないと退かない。苦しみがそうであるように。
 苦しみは消えない。ただ、苦しんでいるあいだも季節は過ぎていく。季節が変わるごとに、苦しみは異なる帽子をかぶってそこにいる。私たちにできるのは、その帽子に気づいてやることぐらいかもしれない。
 私は彼女のかぶった帽子をじっと見つめた。どんな帽子であれ、彼女の美しさが損なわれることはない。どれだけ時間が過ぎても、「そろそろ帽子を脱いだら?」とは言わないこと。ただ見守り、沈黙することが、私にできる唯一の慰めなのだ。

 運がよければ、凍った川辺で冬の声が聞けるかもしれない。彼女と川を眺めているとき、心臓が止まりそうなほど大きな響きを聞いた。遠くの山から獣の鳴き声でも聞こえてきたのかと思ったら、じつは目の前の川の深いところで氷が解け、砕けたのだった。体が凍りついてしまいそうな、恐ろしくもある美しい音だった。目に見えない分、よけいにそう思ったのだろうか。幻聴ではないかと思わせるほどに、凍った川は堅固な姿そのものだった。
 もしかしたら川にも永遠に失いたくないものがあって、音を凍らせたのだろうか。いつか山と大地を揺るがすほどの懐かしい音が鳴り響くのを待ちわびながら、氷の帽子をかぶっているのかもしれない。
 その音をもう一度聞きたくて、私たちは無言のまま川を眺めた。かぎりなく冬の心をもって。

*****
『詩と散策』시와 산책 Poetry and Walks
ハン・ジョンウォン 著
橋本智保 訳

四六変形並製、152ページ
定価:本体1,600円+税
ISBN978-4-86385-560-1 C0098

装幀 成原亜美(成原デザイン事務所)
装画 日下明

散歩を愛し、猫と一緒に暮らす詩人ハン・ジョンウォンが綴るエッセイ
雪の降る日や澄んだ明け方に、ひとり静かに読みたい珠玉の25編

オクタビオ・パス、フェルナンド・ペソア、ローベルト・ヴァルザー、シモーヌ・ヴェイユ、パウル・ツェラン、エミリー・ディキンソン、ライナー・マリア・リルケ、シルヴィア・プラス、金子みすゞ、ボルヘス……

『詩と散策』は、著者のハン・ジョンウォンがひとり詩を読み、ひとり散歩にでかけ、日々の生活の中で感じたことを記している、澄みきった水晶のようなエッセイ集だ。読者は、彼女の愛した詩人たちとともに、彼女が時折口ずさむ詩とともに、ゆっくりと散歩に出かける。

2023年2月全国書店にて発売。

【著者プロフィール】
ハン・ジョンウォン 한정원
大学で詩と映画を学んだ。
修道者としての人生を歩みたかったが叶わず、今は老いた猫と静かに暮らしている。
エッセイ集『詩と散策』と詩集『愛する少年が氷の下で暮らしているから』(近刊)を書き、いくつかの絵本と詩集を翻訳した。

【訳者プロフィール】
橋本智保(はしもと・ちほ)
1972年生まれ。東京外国語大学朝鮮語科を経て、ソウル大学国語国文学科修士課程修了。
訳書に、キム・ヨンス『夜は歌う』『ぼくは幽霊作家です』(新泉社)、チョン・イヒョン『きみは知らない』(同)、ソン・ホンギュ『イスラーム精肉店』(同)、ウン・ヒギョン『鳥のおくりもの』(段々社)、クォン・ヨソン『レモン』(河出書房新社)『春の宵』(書肆侃侃房)、チェ・ウンミ『第九の波』(同)ユン・ソンヒほか『私のおばあちゃんへ』(同)など多数。


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