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「音楽の依存性」と「依存」について

年齢を重ねていくたび、日常における「音楽」の存在感が日に日に薄れていく。おそらく技術の進歩のおかげだ。iPhoneのおかげで思い立てば、すぐ曲を聴ける。最早聴いてるという意識すら捨て、気づけば、そこにかかっている。「音楽」は決して特別なものではなく、納豆のパックに付いてる醤油とカラシの袋と同じで、無意識にそこにあるものだ。

私は、手持ち無沙汰になるとすぐにApplemusicやSoundCloudやYouTubeをひらいて、音楽を聴いている。ジャンルも国籍も年代もメジャーもインディーズにも一切合切こだわらず、とにかく聴いている。思い出したようにライブハウスに足を運ぶことだってあるし、年に一回はフェスに足を運ぶ。好きなアーティストは当たり前にいるけれど同じ曲を何度も繰り返し聞くというより、ほんとうに毎日ランダムに違う曲を聞いているし、新しく配信された知らないアーティストの曲もバンバン聴く。別に、みんなが知らない「原石」を発見してやろうとかそんな音楽ナタリーのライターみたいな考えは毛頭ない。私の性格が、飽きっぽいというか、なんでも聞きたいというだけだ。

しかし音楽が好きかどうか、と聞かれたら「好きだよ~!」と答えることができずに、「わりと聞いたりはするかなぁ…?」と曖昧な語尾でもって誤魔化している。全部iPhoneで聞いちゃったりするのでイヤフォンとかスピーカーも特にこだわらないし、レコードを300枚くらい集めているがっつりと音楽をわかりやすく好きな指標があるわけでもないし「まぁ、うん、暇なとき色々聞いたりするかなぁ…」とこれまた歯切れの悪い答えをしてしまう。

なぜ好きと答えられないのかについて、考えた。私の場合、ちょっと音楽に依存しているみたいな節があるからではないかと思った。それは、映画とか漫画とか小説とか他のものにも言えることであるけど、音楽は特にその色が濃い気がする。

これは私だけかも知れないし、あるいはみんな感じていることなのかもしれないけど。

常に人と向き合いながら、激しい乖離を感じる。

自分の中に、乖離がある。そのせいで、ひととの間にも、乖離がある。それは孤独と言い換えることも出来るものなのかもしれない。表面の薄皮と内面の肉が、細い糸でさえ繋がっていない、というか完全に分離しているみたいな時がある。相手に必死にしゃべりながらも、自分の言葉の嘘っぽさに愕然としてしまう。本気で話しても思いを伝えられなくて、私はいつからこんな風になってしまったんだろうと悲しくなる。

音楽を聴いている間は、きっとその乖離が軽減されているのだ。中毒になるものというのは、往々にしてそういう性質のものなのかもしれない。セックスとかアルコールとかドラッグもそうだけど、自分との融合を感じられる瞬間は、脳を溶かすのだろう。でもどうして自分と融合しなければならないのだろう。どうして自分がこんなに乖離しているのだろう。

あんまり「乖離」そのものを考えすぎると、よくない気がするのでここまでにしよう。

 つまり、依存体質でない人間というのは、自分自身の中に乖離を感じていない人なのかも知れない。そう考えると、これまである種の人々に対して感じてきた違和感が少しほどけたような気がした。私が他者の悲しみと苦しみを完全に理解できないように、私の悲しみと苦しみも他者に完全に理解されることはない。完全に固有で唯一のものだ。だけど、その一方でこの孤独とも言える場所は、きっと、世界中のどこかで、いつか、誰かの通った道であるはずだ。

唯一であるのに誰かと共有してるってのは矛盾してるだろうと自分でも思うが、矛盾を孕みながらそこにあることができるものこそ、私は純粋であると思う。私は文字通り(悪い意味で)馬鹿だから、整合性よりも、イノセントを大事にしちゃうよ。

私が感じるこの乖離は、唯一なものだけど、もしかしたら1862年にお手玉とかの曲芸が得意なインドゾウが通った道かもしれないし、1948年にトウモロコシを歯に詰めて両親を笑わせた少年が通った道かもしれない。前世とかそういうことを言いたいわけではなく、私たちはほんとは気づいていないだけで「完全に固有で唯一の孤独」を無関係に見える誰かと共有しているはずだ。私は、家族や友達や恋人のような、近くて親しい存在を愛おしく思うのと同じくらい、その限りなく遠い存在を愛おしく思う。

なんか綺麗な言葉を並べ立ててしまったが、結局、音楽を聴いているときの私は、ヨガをしているときの片岡鶴太郎と一緒だ。(片岡鶴太郎は、起床してから家を出るまでに毎日7時間かかるといわれており朝6時出発の時は前日の23時起きと、普通の生活を送っている人には信じがたいルーティンで動いている。)

片岡鶴太郎は「内臓を剥がします」と言うと、ヨガの準備運動を始め、腹部をへこませ、自由自在に動かしたかと思うと、腹部から「内臓が剥がれる音」という不思議な音を出す。私はそれを素敵だと思うが、正直、狂っている。客観的に見たら、ただのヨガ狂いタレントである。

「音楽を楽しむ」ことも「ヨガを楽しむ」ことも、健康そうな行為に見えるが、やはり根底にあるのは不健康で不安定な精神である。そのぐちゃぐちゃになった精神を誤魔化すために、私は音楽を聴き、鶴太郎は「ナウリ」とかいう謎ヨガに励む。私たちは何かに依存することで、自らの苦しみを誤魔化す。

もしも、狂い終わったひとが緑色になる世界だったなら、私はライムの果肉くらいの、片岡鶴太郎はライムの皮ぐらいの緑色の皮膚に染まっていただろうな。

人にだけは依存してなるものか…という負け惜しみにも似た意地をもって、私と鶴太郎は、脳を溶かしながら、音楽と、ナウリと、融合していく。

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