2024年、写真作家として「やらないこと10箇条」
今年は写真作家としての活動をちゃんと始めよう、と思っている。
作家活動を整理するうえで、「やること」よりも「やらないこと」を明確にしたほうが活動の骨子ができると思っていたので、「やらないこと」リストとしてまとめてみる。
カメラ趣味のなかで有名になろうとしない
写真、カメラ界隈について。
写真を撮っている人だけが写真を見ている。
これがずっと違和感だった。
写真展のギャラリーにいる人がみんな首からカメラを下げている、みたいな状況は、なんだか気持ち悪いのだ。
僕は同業者から注目もされていないわけだが、同じようにもなりたくない。
この課題を克服するということは、写真という枠を越えて表現者として一流となる、世に認められるということだと思う。
素人サッカーの観客は、自分のチームと相手のチームのベンチメンバーくらいである。
素人の絵画展を見に行くのは、友達や家族に加え、同じ美術サークルや趣味仲間の人が多いイメージだ。
一流になって初めて「関係者」「同業者」以外の人に自分の発信を見に来てもらえるようになる。
「写真」「カメラ」というキーワード以外の軸でどうやって僕の写真を認知してもらえるか、考え実践し続けたい。
インターネットの中だけで終わらない
先日、六本木のフジフイルムスクエアで細江英公氏の展示が行われていたのを見に行った。かの有名な三島由紀夫のポートレートも展示してあり、これを見たとき「写真はプリントしなくてはだめなんだ」と思った。
具体的には三島由紀夫の眼球に走る血管を見てそう思った。気迫が尋常ではなく、写真に殺されるかと思った。ただ、僕はこの三島由紀夫のポートレートをウェブ上では何回か見たことがあるのだ。そのときはこんなことは感じなかった。今、再度パソコンの画面見ても、その気迫は感じられない。スマホならなおさらだ。
「細部を見せる」ということは数ある表現の手段の一つでしかないとは思う。一方で写真が得意とする部分であることも事実である。
写真の可能性について、スマホやパソコンの画面に限られず探求する年にしたい。
写真だけで語ろうとしない
写真と言葉の関係について最近よく考えている。
メインは写真であることに変わりはないが、写真集や展示のように「作品群」として成立させていくとなると、それらを紐付ける「言葉」が必要になってくると思う。(この話は長くなるので別noteとして後日発信する予定)
この「言葉」を探すのが難しくもあり、面白い。
そしてこの取り組みのヒントをくれるのがnoteの「みんなのフォトギャラリー」機能である。
①京急沿線(自分のテーマ)の写真撮る
②noteに載せる(自分の「言葉」を写真に載せる)
③記事に使われている写真をみんなのフォトギャラリーに登録する
④他の方がその写真を自分のnoteに利用する(他人の「言葉」が自分の写真に乗っかる)
⑤使ってもらったnoteを見て、コメントする(他人の「言葉」に対して。僕の「言葉」を返す)
今年はこの活動を継続したい。
自分の写真が意図せぬ「言葉」を持ったり、それが複数の写真で繋がっていたりすることに気づくことがあるのだ。
他人の言葉が自分の写真たちを、「作品群」として成立させるためのヒントになると思う。
自分の発信するテーマ以外を発信しない
SNSを見ていると自分が「ちょっと口を出したくなるような」話題が週1くらいであがってくる。
これらに首を突っ込むことは作家としてよいことだろうか。
作品を展開しているSNS(ここではnoteも含む)では、その話題が自分の作品を結びつける「言葉」と関係していないようであれば、首を突っ込まないようにしたい。
それまで発信し続けてきた作品に別の「言葉」を与えることは、それまでの「言葉」の意味を混乱させたり、拡散、希釈することに繋がりかねない。
いいね、フォローの量を追わない
今年のインターネット上の活動の場は
メイン:note
サブ:instagram
という位置づけにして、Xやthreadsは見る専にするか、別の用途にしようと思う。
noteの「みんなのフォトギャラリー」を使いながら自分のテーマについての発信を続けていくと、これまでのSNSとの関わり方とは大きく違うように感じる。
「何件使ってもらったか」よりも、「どんな言葉が綴られているか」が気になるのだ。いいね数だとか、フォロー数だとかも含めて、「量の悪魔」の呪縛から開放される。
「言葉」と言っても、noteだから一言二言なわけはなく。
僕の写真をトップ画像にして小説を書いてくれる人だっている。
使ってくれた人の有り様がリアルに感じられるし、そういうリアルな「人」が僕にヒントをくれるのだから感謝しかない。だから僕はコメントをつける。
これはとても健康的なインターネットとの付き合い方だと思う。
他の人の解釈についてコメントしない
「みんなのフォトギャラリー」で写真を使ってくれる人のnoteには一言でもコメントをするように心がけている(できていない方がいたらすみません。)
コメントに際して、感謝以外の言葉をつけるときは、その方のnoteの内容についてコメントするようにしたい。
「僕の写真とはこういう結びつきがあるだろう」
「僕の写真をこう解釈したのだろう」
など、自分の写真についてのコメントは自分勝手である。というか、相手のnoteにとってみたら余計な内容である。
ただ、どうしても気になってしまったときもあるので、その場合は「なぜ、この写真を選んでくれたのか」と質問するようにしたい。あくまでも相手の「言葉」の存在を大切にするようにしたい。
カメラ、レンズ情報を作品に載せない
少し前から意識しているが、今年も続けていくことの一つ。
前述のように、カメラ、写真趣味以外の人と関わらっていきたいし、「カメラ」「写真」それ自体は僕の発信したいテーマではない。
意図しなくても、「手段」の情報は作品の意味を薄めてしまったり、捻じ曲げてしまうことがあると思う。
作家としてこのことに無自覚であるのはよくないと思う。
僕のnoteで12月にある実験を行ってみた。
「毎日カメラ」というタイトルで、僕のカメラやレンズを毎日撮影する=「手段」をあえて自分の作品テーマにしてしまうというアンチテーゼ、を試みてみたのだ。
が、どうもしっくり来なかった。
その他のこれまでメインとしてきた発信が希釈されてしまうように感じた。
(アンチテーゼをかましたつもりが自分がやられてしまった)
このことに気づいて年始にこのシリーズは中止した。
引き続き、カメラやレンズの情報は出さないようにしていきたい。
無駄にシャッターを押さない
8個目、9個目はテクニカルな話だ。
まずは撮影のこと。今年は1シーンに対するシャッター回数を減らしたい。できれば1シーン1枚で完成させたい。
1シーンに込める気合が足りないと思った。
適当にとっても何枚か撮っておけば1枚くらい使えるやつがある、というような生ぬるさがどこかにあって、それが写真全体を生ぬるいものにしていると思った。
もちろん、単純に編集・選別が大変ということもある。
何を撮っているのかわからない現像はしない
写真をアカデミックに学ぶと、「主題」とか「副題」とかいう言葉がでてきて、僕は面白くないなと思っていた。
でもどうやら僕は「主題」がはっきりしている写真のほうが好みらしいし、そういう写真を撮りたいらしいことがわかった。
そして、これは撮影のみならず、現像においても同じくらい大切なことなのだと最近気づいた。
今年は特に現像を学んでいきたい。
ショート動画で時間を浪費しない
本業はサラリーマンであり、それを辞める予定は当面ない。
なので、写真作家としての時間を確保することが非常に重要になる。
特に意識したいことを一つだけあげるとすれば。。。
「ショート動画を見ないこと」
Tik TokやYoutube Shortsに加えFacebook、Instagramなどでもショート動画ジャンルはあるが、中毒性が高く非生産的である。
一つの世相として観察するのもよいかもしれないが、飲まれてしまう可能性がある以上危険である。
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