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一日一善は

人間には、誰一人残さずとも課せられた最大の務めがある。


それは己が受け入れようが受け入れまいが、知ろうが知るまいが事実存在する実相。


それは“生涯、善人たれ!”ということ。


「え?むりむり~。私、普通でいいし、善人とかぜったい無理!私、ほんとてきとーなんです。」


「善人とか悪人とか、どっちでもいいじゃん。自分らしく生きる!それで十分!私はオッケー!」


「今から善人になれって言われても、もう無理ですよ。これまでぐうたら人生で生きてきちゃったんで。もう、死ぬまでこれでいかせていただきます。」


「自分で言うのも何ですが、私はそれなりに善人だと思う。週末ボランティアもしているし、寄付もしてる。これまで誰にも後ろ指刺されるようなことはせず、慎ましく、真面目に生きてきました。こういうことですよね?」


「周りにいっぱいいますよ善人ずらしている人たち。顔では笑ってるけど、心はグロい。いざという時に、誰も助けてくれない。そんな社会に善人なんて本当にいるの?」


「我が社の社訓で、“善人であれ”を謳っています。ウチが長く商売をさせてもらえているのは、これがあるからです。私自身がまだまだ未熟ですが、生涯、善人でありたいと思っています。」


「悪人でなければいいんでしょ?悪いことしてない人は、みんな善人!そういうことですよね。だから、私は善人だと思います」…。


人間、一人ひとりの胸の内。


本音と建て前の世界。


己は如何に?


「善人」とは何か?


人間社会の定義では、“心の善良な人。


行ないの正しい者。


また、気だてのよい人”となっている。


また“お人よし。だまされやすい人”なんていうのもある。


実相で云うところの“生涯、善人たれ!”とは何ぞや?


それは善一筋、完善なる生き方。


即ち、善でもない悪でもないものは、善人とは言えない。


時々善人、時々悪人。


一日一善。


善人でも悪人でもない普通人。


これらは自負の善人であり、従って完善ではない。


人間、善が当たり前。“普通”は悪の類となる。


日常の些細なる0.0001%の微悪。


これ思い当たるならば、全くもって善人とは言えない。


実相は厳しい。


厳しいから目指し甲斐がある。


本来、人間、これ宿命として捉え、この世に生まれてきている真実も忘るべからず。





そのことを肝に銘じ、善一筋で生きることを決意し、これまでの大悪、微悪の数々を洗い出し、懺悔し、残りの生涯を掛けて清算し、少しでも善が加えられるよう精進致します。





有難う御座います。

幸せを呼ぶそよ風チャリダー/サステナビリティイノベーティブコンサルタント。「感謝感動を世界に地球に」のカングロ代表、ザッポス研究会、イノベーションサロンZ、システムD研究会、サステナ塾、セブメディ創設者