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「過渡期」論

生きる。生活する。
答えは簡単である。しかしその内容は簡単どころではない。
一体日本人は生きるということを知っているのだろうか?。小学校の門を潜ってというものは、一しょう懸命にこの学校時代を駆け抜けようとする。その先には生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にあり附くと、その職業を成し遂げてしまおうとする。その先には生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。
現在は過去と未来との間に劃した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。                 森鴎外『青年』


言うまでもなく、私達は日々「過渡期」を生きている。完成されることもなく、或いは徹底的な未成熟でもない、間隙としての「過渡期」。
時に思想的な成熟は、固定化された揺るぎのないものと見られてしまうが、それは誤解だ。複数の軸、複数の視座から見た、偏りのない「中点」を探し続ける動きこそが、思想的な完成系に他ならないのではないか。

日々試され、日常からの異議申し立てに震えながら対応し続けること。生きている中での、「お前の考え方は本当に合っているのか?」という声に怯えながらも、敢然と立ち向かい続けること。怯えと勇猛さのいずれが欠けても、それは思想的な傲慢さに繋がりかねない。

思想や学問は、具体的な日常から遊離し、空中戦を繰り広げる。だからこそ、そんなものは何の役にも立たない。


そう語る人がいる。
確かに、日常の苦しみは正しく「具体的な」事象であって、そこには「その人にしか触れ得ない•uniqueさ」、そして一回性が強く宿されている。だからこそ、具体性を捨象し、抽象の世界へ置き換える行為は、時に暴力的だ。その面で言えば、物事をカテゴライズすることは、安易な共感もどきに過ぎないかもしれない。
共感されるとき、その物事の個性を無視される無神経さと、一時のセンチメンタリズムからそれを許す自分の軟弱さを見せつけられる。だからこそ、「あなたには分からないでしょう」「苦しいのは私だ」という言葉が迸る。

その気持ちは分からないではない。

しかしそれは一面の真理ではあるが、反面大きな誤りを含んでいる。例えば、あなたが苦しむ時、その裏側で違う人を(意図せず)もっと苦しめているかもしれない。それどころか、あなたの楽しいことが他人の苦しみでしかないとしたら?
その因果の糸を辿り、互いの感情を相殺し、ネットしたならば、そこに何が残るのか。
「個的な苦しみ」の殻に閉じこもる限り、そこには「対話」の緒は見つからない。俯瞰し、他人も含めた議論の道は閉ざされる。

本来、そのためにこそ思想や学問や、広く言えば「抽象化」が存在するのだ。
あなたの苦しみを抽象化すると、その同類型として、今まで名指されて来なかった新たな「他人の苦しみ」が見えてくる。昨今の「〜ハラ」という言葉は、それをまざまざと見せつける。
「苦しみ」はあったが、「名」がついて来なかった。抽象化されないまま、個的な事象として放置されてきたのだ。
一方で抽象化しながら俯瞰し、具体性にも気を配る。類型化しながらも、類型化できない個的事象に耳をすませる。
抽象化と具体化の間の過渡期に身を置き続けるのだ。

過渡期は、安定しない。だからこそ、過渡期に身を置き続けることは、愉快なものではありえない。ぐらつきながらよろめきながら、絶対的な軸も標準もないまま、しかし動き続けている。「動」的な態度。

過渡期には安寧は存在しない。安定しつつある時、それは思想的な傲岸さを帯びつつあると認めるからだ。そうなれば、まさに寄りかかりつつあるその思想自身を破砕するしかない。そうしてまた、不安定な「理想」を取り戻す。

具体と抽象のいずれもが、それ自体では不足している。そういった両派の詰り合いの解決を「過渡期」は提示する。

それでは、「過渡期」論に立つならば、「連帯」はどうなされるのか。その態度は、個人の潔癖さとしてはあり得ても、社会の中で大きな動きには繋がらないのではないか。

この問いには、まだ答えは見出せてはいない。


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