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夏はあけぼの

かねちゃんのお仕事とか、恋愛とか、

かねちゃんのアメリカでの1番初めのお仕事はハワイでマリンスポーツのインストラクターをやっていました。
もっとちゃんと言うと、腰掛キャバ嬢みたいな事も短い間やった事もあるが、そのマリンスポーツの会社では、
毎日毎日筏の上で数百人程のお客様を次から次へと迎えては送り帰し、
主にジェットスキーを教えた仕事帰りには、ナンパもされながら真っ黒けっけの毎日でした。

ジェットスキーのその後は、スクーバダイブ、乗馬、セスナ、潜水艦、色々やらせてもらいました。 全て観光客相手の娯楽エンターテイメント会社です。
かねちゃんは何故か何時も男性達の仲間的存在であった為、結構楽しく大事にされていましたが、仲間も居れば、酷く嫌う人達も居ました。
大体は日本の人に嫌われましたが、男性陣の妹の様なマスコットの様な存在をやっかむ女性陣や、ちょっと変わり者で浮いている人からは嫌がらせやセクハラも在りました。
コソコソしたセクハラや パワハラ、女の子達の集団イジメは、結構憂鬱にも有りました。

そして かねちゃんは、前にも言ったけどディスレクシア(読解力が無い)なので、学校が苦手で大した学歴も無く、日本の会社には丸っきり相手にされませんでした。
その反面、日本に居た時は、マガジンで訳の分からない記事を書かせて貰ったり、(サイクルワールドと言うバイク雑誌)。
朝日新聞の1ヶ月に1度の湘南版4ページを請け負ったり、近所の看板等を描いたり、
国鉄横浜駅の光る大きな看板に漫画絵の名所地図等も描いたり、
神奈川県の自動二輪の指導員をやったり、
不思議でしょ? 読解力無いって言ったよね、でも文章はかけるのさ。 (笑)

 会社勤めは1年程、横浜駅の周辺の広告会社で、イラストや、ミニマガジンを作らせてもらっていた。 仕事は面白かったけど、社内の男たちは事務の女の人をまるでお手伝いさんのように お昼ご飯を運ばせて、 下げさせて、お茶を入れさせて、ありがとうさえ言わない様なオフィスだった。
なんだかだんだん腹が立って来て、上司とうまくいかなくなり、辞めてしまった後は、近所の看板や、お店のウィンドウに絵を描く仕事などを適当に請け負ってやっていた。

最後の仕事は、自動二輪の指導員。
二俣川の免許試験所で、原チャリ免許の合格者にスクーター乗り方を指導するのが主なもくてきだった。 引退した警察のじいちゃん達にはとても可愛がってもらったけど、 年頃の人には意地悪もされた。 しかしこの意地悪男は最終的にオレをデートに誘ってきやがった。 (笑)  そのころ40年前 オレ鼻にピアスしていて、 アホだと思われ’ちょったよね。

自分はそんな中、結構好き放題やらせてもらっていた。
それでも余り狭い価値感や偏見で、この小さな活きのいいクイは打たれまくり、何でも一人でやってしまう僕を 人々は敬遠した。

認めてもらえない苛立ち、反発し、 怒りだけが大きくなりつつある自分に呆れ果て、
このままではラチがあきそうにない自分を変えるため、日本に居るよりアメリカに行った方がいいんじゃないかと言う考えがふつふつと湧いて来たのは、ほぼほぼ結婚していたとも言える様な同棲生活をしていた相手と上手くいかなくなった頃からであった。

(ゴメンね、オレがガキだったので続けられんかった。)
大好きだったけど、余りに豹変したオレたちの生活は毎日がイザコザだらけで、彼はこの風変わりなオレを普通の女の子にしたくなって、(人選ミスもぇぇとこやろ!)
彼は周りの人にも かねちゃんを教育するように、こうしろあぁしろと、毎日の様に言われていたようだ。
初めはみんなオレを面白がって近寄ってきて、それを自慢にすらしていたのに、
最後はみんなオレが普通になれない事に苛立ち、怒りをあらわにして、去ってゆくんだ。
(認められないなら、最初から面白がって近づいてくんな!) 無理に決まってんじゃん! まともになるなんて!

何人かの元彼は殆ど皆付き合いが落ち着きそうになると かねちゃんを変えようとして 失敗した。

まあ その元彼の元を去ってから、ひょんな事からハワイに行く事になった。 用意してあるはずの仕事は無く、ちょいと戸惑ったが、
ハワイで観光客を相手にセーフティの説明をする仕事を貰った。それは初めに説明したとうりだ。

その後、オモチャやバイクウェアーのデザインの仕事をさせて貰えるようになる迄、運や粘りが絶妙に絡んでくる。
→→→

仕事を探すのに歩き回り、試行錯誤しながら、何も持っていない若い日本人の女は、自分の価値を下げたり、悔いたりする事もなく、
媚びたり、諂ったり、服従したりする事もなく、
立派に貧乏であった。。。。 えっへん! 

 ある日新聞広告でバイクとスキーウェアーを作っている会社の募集を見て、面接までこぎつけた。
経歴もその分野の勉強もしていなかったオレに、社長が明日までに3っつデザイン画の絵を描いて来るように言われ、
次の日に見せた所いたく気に入られて入社が決まった。
面白いもんデザインしまくりましたよ。 調子乗りなんで、
煽てればいくらでも、 ねっねっ! 
そしてヨーロッパでコピーされる程売れ線もデザインしました。

が、浮き沈みの激しい世界なので、短い間でデザインを沢山描き過ぎて、お払い箱に成りました。多分会社は向こう3年分のアイデアをかねちゃんが残していった感じです。(笑)☺

その後色々考えて、 CADの仕事をしようと思いました。
ルームメートのお友達夫人に3日間 AutoCADの指導を受けました。
たったの3日間なんちゃってCAD娘は、
次の面接で ハッタリをかまし!

家具のデザインの仕事を獲得するのです。 🤣🤣🤣

3次元を頭の中で角度等の計算にたけていたので、建具の会社で3年働くと部長に成りました。
それでも日本人のはしくれなオレはやはりアメリカでは頑張り屋さんの方で、
沢山仕事をしながら覚えました。
そのうち他の国の人々が2分の1のお給料でその仕事はそちらに流れてゆく訳です。
しかし、決して同じ丁寧な間違えの少ない仕事という風には行かず。
目先の利益を思んじる会社は後に余りいい事にはならないものです。

これにも色んな話が有るのですが、長くなるので1様 自分の主張をぶつけて闘った最初の事だけ言っておこう。 

ある日、
もっとそのあとで、建具の計算の仕事をしていました。
動体視力と判断力がMAXだったかねちゃんはある人から人へ渡された仕事内容の図面の間違えが瞬時に見えたりもしました。

その速さで間違っている事を伝えると、男達は苛立ちオレをまず疑いましが、1様確認する事にしたのです。
案の定間違っていました。
男達は自分のプライドを少し傷つけられたかのように、少し怪訝な顔をしたが、失敗を避けられたので一様にリスペクトされました。
エンジニヤリング部の天才娘とまで言われていた時期もありました。

また、口八丁なので、ミーティングでも結構な発言でルールを変えたりする事が出来ました。 

もうそんな元気ないかな?! (笑)

アメリカに来て初めて悔しさから自分の立場を証明する為物申したのは、ある日エンジニアリングの質問に入ってきたセールスのおじちゃんが何時もの男に質問をした時でした。
超忙しかった時に、彼はその質問をオレにその場で降ったのです。
何時もは時間を置いてから、オレの説明をこちらから出向いてその男が答えていましたが、大体はオレから出ている答えでした。

その時セールスの男性が俺の答えを嘲笑うように笑ったのです。
初めての経験でした。
その後モヤモヤが止まらず、どうにかしないとっと思いました。
自分は自分の為にこの状況と戦うべきだと感じたのです。
決心してその人に話をしに行こうと決めた時、とっさにこのまま行ったら負ける!っと思いました。 準備して行こうと思ったのです。

それは背の高い白人男性は、エンジニアリングの質問にとっさに答えてしまったカネちゃんを何故あざ笑ったか?と言う単純な質問でしたが、
答えは3択をあげることにしました。

何故なら、誤魔化されて曖昧にされても、かねちゃんの感じた痛手は伝わると思ったからです。
冗談だよ〜! で終わっては傷ついた想いが伝わらないし、かえってむかっ腹が立つと解っていたからです。

一生懸命考えに考えた三択がこれでした。
質問 : 何故 嘲笑ったのか?
1.かねちゃんが可愛くて滑稽だったから。
2.女の人に教えられるのが気に食わなかったから。
3.かねちゃんを見下しているから。

三つ目に行くまでに、身体はぶるぶる震え、涙もボロボロこぼれていた。

続く


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