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日本海の火山諸島 隠岐特有の地形地質と伝統農法

地球生まれ、地球育ち。眼下に広がる紺碧の地球がそう思い出させてくれた。海抜257mの自然の展望台。全身の細胞が喜び震えた。

650万年前、日本海の海底から噴煙が上がった。隠岐諸島は火山活動により形成された諸島である。大地は動き、呼吸している。激しい鼓動は痕跡を残す。その痕跡を辿り自然と人との歩みを観察する。

隣り合ったふたつの火山

隠岐諸島は大きく島前と島後、ふたつの火山でできている。似た環境、似た条件で、似たサイズの横並びの火山。されどふたつはまったく異なるカタチをし、それぞれ固有の生態系を育んできた。

異なる地質

海に浸かった島前と聳え立つ島後。2つを別つその秘密は、「溶岩の成分」の違いにあるという。島前ではサラサラとした玄武岩、島後ではベタベタとした流紋岩を主な成分とした溶岩が噴き出した。

島前の溶岩は低く広い地形をつくり、島後の溶岩は溶岩ドームと呼ばれる高く小さな地形をつくった。トクトクと常に流れ出す島前に対し、地中にガスを閉じ込めやすい島後の火山では爆発的な噴火が起きる。隣り合ったふたつの火山は「溶岩の成分」の違いによってまったく異なる島を形成していったのだ。

日本海の荒波

氷河期には、本土と繋がり、半島を形成する隠岐諸島だが、現在、島前カルデラは日本海に浸かり、大きく西ノ島、中ノ島、知夫里島の3つに分かれている。荒々しい日本海の波を受け続け侵食した絶壁こそ、冒頭の海抜257mの自然の展望台「摩天崖」であったのだ。

特有の生態系

当時、陸続きだった絶海の孤島には、北方系、南方系、大陸系の生物が混在し、独自の生態系を育んできた。杉などの植物の逃避地でもあり、特に島後には大杉は今も堂々と聳え立っている。

隠岐の暮らし

遠流の地

隠岐は遠流の地であった。鎌倉時代の権力争いに敗れた後鳥羽上皇や後醍醐天皇などが流罪を受けた。

島民の話によると、隠岐でとれる黒曜石の流通の窓口になっていた島前島後の諏訪湾が、当時流罪を受けた権力者によって黒曜石が長野県に持ち込まれ、のちの長野県の諏訪という地名の由来になっているとか。

田園風景の秘密

遠流の地といえど、作物がとれる豊かな土地でもあったという。隠岐諸島の海士町を歩くと驚くのは島では珍しい広々とした水田風景である。

サラサラとした溶岩でなだらかな地形を形成した島前。小さな火山の噴火により日本海に浸かった中ノ島の北部の谷が埋められ平地が形成された。島では水の確保が困難でこれほどまでの水田は珍しく感じる。ではなぜ海士町では豊富な水が確保できるのか。

それは淡水レンズ層があるからである。隠岐の地下には水の層がある。淡水と海水は重さで分離し、岩の割れ目を伝って吸い上げられ、水が湧いてくるのだという。

伝統の農法 牧畑

もうひとつ、独特な風景は、牛や馬のいる風景である。土地がやせた火山島では牛や馬を育てながらその糞尿を肥料として栄養価の高い土を育てていた。

「牧畑」と呼ばれる隠岐特有の農法で、土地を石垣で区切り、放牧と畑作を4回転で行っていた。数百年続いた伝統農法だが1970年ごろを境に行われなくなり、再生を試みる動きもある。

牧畑

それぞれの辿る道

溶岩ドームのある島後は広い流域面積による堆積と小さな玄武岩の火山によって広い平地が形成され、今では島前の倍の人々が暮らしているという。

異なる地質によるそれぞれの道を辿る隣り合う火山。大地の特性を生かし、固有の発展を遂げる隠岐諸島は、サービス化され大地と切り離された現代に人間の本来的な暮らしを思い出させてくれる存在であった。


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