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いつから,「当たり前」が分からなくなったのか原因と対策を解説

この記事を投稿する際にまず初めに
「なぜ若者たちは当たり前が分からないのか?」
という題名で自然に打ち込んでしまったがすぐに取りやめた。


当たり前が分からない事は「若者たち」だけではなく
日本全体の問題であると感じたからだ。


むしろ今の「若者たち」は礼儀正しくむしろ団塊の世代程
「暗黙のルール」を理解できていないという見方も
若者たちからみたらそうであろう。


ある理学療法士から聞いた話しであるが、病院の廊下を
歩く際に手をポケットに入れて歩くセラピストがいたそうだ。


また、カルテの記載ではメールの文面を打つ内容。


人の目を見て話さない(これは少し疑義があるが・・)


あいさつをしなければならない理由を聞いてくる新人


ご飯を食べながら携帯をいじる人々


電車の中でラーメンをすする人   等々


これらの行為は法律には触れないがその場にふさわしくない行動である。
つまり、「共同体の当たり前」にそぐわない行動なのだ。
また、古い記事ではあるが以下の出来事を覚えているだろうか?

2008年12月19日、麻生総理は 東京渋谷の区のハローワークに訪れた。
彼は以下に述べた。
「そこで何かありませんか?と言うんじゃ仕事は見つからない。
 目的意識がないと雇う方もその気にならないし就職は難しい」
 と声をかけたという。

上記は言っている事は正しい。

しかし、仕事を見つける事が困難な雇用危機の際にこの発言は
ふさわしくないという事でバッシングを浴びたのだ。

この発言は、その時の「状況にそぐわない」と人々が感じたのである。


これも、「当たり前」を理解できていないという事になる。


こんな事は誰しもがあるし,私自身も「当たり前」
が分からず苦労したものだ。

「自分の当たり前」と「社会の当たり前」を照らし合わせる
作業が社会化なのかもしれない。

当然、新人スタッフは
「社会の当たり前」が分からないから苦労するし
上司は十分にその事を周知して指導に臨まなければならない。


社会人1年目は「できなくて当たり前なのだから


「当たり前の要求水準」には個々の差があって
その認識に互いにズレが生じる事で争いが起こるのであろう。


いやはや、難しい問題だ、、


さて、話は変わるがここで二つの補助線を紹介したい。


法律に触れないがその場にふさわしくない行為を「非社会性」
と呼ぶ。


一方で、法律を犯す様な社会秩序を破る特性を「反社会性」と呼ぶ。


暗黙のルールを理解できない事を今回は「非社会性」と意訳し
何故これほどまでに非社会性が蔓延しているのか
について自分なりに解説していきたい。


なお本記事のアンチテーゼと言える内容は前記事を参照にして欲しい。


何故、非社会性が蔓延しているのか?

非社会性が蔓延していると言えるエビデンスは以下の通りである。

文科省が今月中にも公表する「問題行動・不登校調査」の結果によると、
22年度の不登校の小学生は10万5113人、中学生は19万3936人で
計29万9049人(前年度24万4940人)
在籍する児童生徒の3・2%が不登校だった。
この結果は、過去最多の不登校小中学生の人数である。

うち学校内外の専門機関に相談していない児童生徒も過去最多の
約11万4千人。いじめは小中高などで約68万2千件が認知され
被害が深刻な「重大事態」は923件。いずれも過去最多だった。

文科省の調査

非社会性の行為として「いじめ」があるが(反社会性に近いが)
いじめ件数約68万件、重大事態923件とかなり深刻だ。
もちろん、隠蔽されずに申告されるようになっている面もあるため
そのままデータを受け取る事も懸念しなければならない。


※補足
なお誤解して欲しくないのは非社会性=引きこもりではない。
当たり前がわからず,他者との距離をとる,そして感情すらも分からなくなる
(非社会性)。その事で生じる現象が「引きこもり」
「その他の精神疾患」という状態(現象)である。


ある心理学者が以下の様に述べた。

現代は物は豊かになったが、心は貧しくなった


まさに芯を突いた言葉であり私たちの心は間違いなく以前より
病み,何を失ったのか分からない曖昧な喪失の中を生きているのだ。


心の貧しさが「非社会性」を生むのであれば,心が豊かとは何なのか?
そして、何故私たちは心は貧しくなってしまったのであろうか?
社会心理学者の加藤諦三氏は以下の様に述べている。

非社会性の人とはひと口で言えば「当たり前の感情」を
持っていないという事である。
「当たり前の感情」は人と人のコミュニケーション
の中から生まれてくる
のである。

~中略~

「当たり前の事が分からない」ということは
「相手の気持ちがわからない」という事である。

正当な事と社会性は違う。
だから時には正義を唱える人が冷たい人である事もある。
人間の気持ちを考えれば自然と出てくるのが社会性である
それはマナーとかテクニック以前のものである。

非社会性の心理学,加藤諦三


「コミュニケーションの喪失」や「他者に対する畏敬の念」が持てなくなった事が非社会性が蔓延した要因であると加藤諦三氏は述べている。


また、国分康孝氏と加藤諦三氏の対談本には以下のやりとりを参照して頂きたい。

國分「倫理観だ。触れ合いこそが倫理の起こりなのだ」
「倫理観とは何かというと触れ合いがあるのですがら、人の人生を不幸にしてはならないという人への思いやりでしょうか?」

加藤「そうですね。僕は倫理観って本当は自然なものだと思っているんです。相手を思うから自分で自分を律する事ができるんですよ。
相手に対する思いやりからその人の心の鉄則ができる」

ふれあうことで優しくなれる,加藤諦三,國分康孝


なお、倫理とは「ある社会で人々がそれによって
善悪を判断し正しく行為をするための規範の総体」を指すそうだ。


コロナ以降コミュニケーションは喪失し、その事で生じる
心の病理をまさに今目撃しているのである。
自然の倫理観が欠如している事もその一部だろうか?


孤独」の問題はそれだけとても根深いのだ。


さて、少しまとめさせて頂く。
倫理の起こりは人との触れ合い(コミュニケーション)によって起こる。


よって、「相手を思いやらなければならない」ではなく
そうしたいから相手を思いやる

「べき(シュッド)思考」ではなく
したい(ウォント)思考」によって
本来の「思いやり」が醸成される。



そして、共同体の立場になって考える様になる。
つまり、完璧でなくともそこそこの
暗黙のルールが分かる様になるのだ!!


社会性は「他者との触れ合い」が基盤となるのであった。


ちなみに、自分一人で内面に問いかける事を「イントラパーソナル
と呼ぶ。


一方で他者とのやり取りを通してできる関係から考える事を
インターパーソナル」と呼ぶ。


私の場合は、完全に「イントラパーソナル志向」であるが
それだけだとバランスが悪いため時々
インターパーソナル志向」となる。


自分が与えられた役割を正しく認識する必要がある場合はやはり
インターパーソナル志向」が優位となるだろう。


「暗黙のルール」や「当たり前」がわからない場合は
是非「インターパーソナル」から自分自身を考えると何かが
見つかるかもしれない。


例えば、自分は現在、父親としての役割を担っており、
父とは家族を守るための支柱である。であるならば
「どの様な行動がふさわしいのか?」がおおよそ見えてくる。


誤った行動であったのであれば次に修正すればよい。
大事なことは「ふさわしさ」を考える事である。
それは、サービス精神であり優しさでもありその様にして
成長(社会化)していくのであろう。


※補足
上記の内容から分かる様に
「人に優しくしたい」という動機(思いやり)
が湧くような扱いを受けてこなければ
社会性が身につかないのは「当たり前」
である。
今まで外界に傷つけられた心は必然的に
「イントラパーソナル」に向かう。

傷つかない様に外界を考える暇がないのは必然だ。
かといって自己憐憫(自分が可哀そうだと思いこむ事,被害者意識)
に浸る事も自分自身の成長を止めてしまう。

今の在り方でいかに
「工夫」するかを専門家と共に思索
して頂きたい。

非社会性は知的合理主義者を生む?


まず、疑う余地がない当たり前のことを「自明性」と言う。

例えば
・人に会えば、まずは挨拶をする。
・食事中は携帯をいじらない。
・人に暴力を振ってはならない。
・道端で唾を吐いてはいけない。
・葬式は喪服で参加する
等々である。

「自明性」とはつまり「その場の文脈のふさわしさ」である。
そして「自明性の欠如」は知的合理主義者を生むとされている。
知的合理主義者とはどの様な傾向を指すのであろうか?
加藤諦三氏の述べた例を挙げる。

祇園総社の鐘の声
諸行無常の響きありという有名な平家物語の文章がある。

「なぜ金の声を聞いて人は諸行無常を感じるのか?」
と聞かれても答えられない。

全てのことを合理的に言葉で説明できるのなら
俳句も芸術もいらない。

知的合理性だけであれば所詮は事実だけの
世界に転落していることでしかない。

それは意味の世界ではない。

真の合理性は感情的合理性(感性)を伴った合理性である。

~中略~

もともと生きることはそんな合理的なことではない
その生きる営みを合理的に判断しようとするのだから間違う。
それを徹底すれば最終的におかしなことになる。

つまり 合理的に考えていけば
「最後はどうせ死ぬのだから 生きていてもしょうがない」

となってしまう。

何でも合理的にしようとする人たちは
生きるということの原点」を忘れている。

非社会性の心理学,加藤諦三

知的非合理性が強くなると
「何で法事をするのだ」
「なんで挨拶をするのだ」
「何でメールを返信しなきゃならないのだ」
「何故、異性不純交遊いわゆる援交がだめなの?
 大人はやっているのに何で子供はダメなの?」

となってしまうのだ。合理的性を求める背景に
「自明性の欠如」が在るかもしれない(もちろん全員ではない)


魚が泳ぐことや鳥が飛ぶ事は「自明の理」である。

命が尊い事も同じく「自明の理」だ。


上記のを踏まえた上で以下の議論の動画を視聴して頂くと
違ったものが見えてくるのではないだろうか?

(31) 【ラーメン】スマホを見ながら食べるのはマナー違反?お客様は神様って?禁止を決めた店主と議論|アベプラ - YouTube

皆さんは「ながら食べ」に対して
合理的な説明を必要とされるであろうか?


私,個人としては、就労支援専門講師としての立場
として私は言えることは「ダメなものはダメ」である。
※メンタルヘルス的にも・・

ある女性アナウンサーが言っていた通り
行儀が悪い」のである。激しく同意だ。
しかし、恐る恐る述べていたし、私もあの立場に
居れば恐る恐る述べていただろう。


※文章を書いてるときの私は番犬の如く振る舞うが
 実際は目に涙をためたチワワである事が多い。

それだけ合理性を追求する人たち(女性二人組)
の力学は強いのだ。(誰とは言わないが・・)

※ルールを規制する飲食店なんてこっちから願い下げだ
 というニュアンスがあったのは確かである。


これは「自明性の欠如」つまりモラルの欠如を示す
良い例だと思って上げさせて頂いた。


加藤諦三氏は家庭内のルールやしきたりを
教える親がいなくなった
事を原因として挙げているが
では私たちはどの様にすれば良いのだろうか?


ここからが私の私見になるが

①父性の性格(自我状態)を発展させる事

②文化を発展させる事

の2点が社会性を高めるために必要なのではないかと考える。


①父性原理(親父こころ)を発展させる事

父性原理とは、判断機能やロゴス(理性)や個人主義を司る原理で
悪く働けば他者に排他的になったり競争心が強くなってしまう。

望月,1996によると
人間として「しなければならない事は何か?
してはならない事は何か?」などの善悪の区別ができる様に
教える働きかけとも定義されている。

養育における社会機能訓練として装置が父性原理なのである。
河合隼雄氏のエピソードが父性原理を分かりやすく理解できるため
以下に紹介させて頂く。

父親と言うのは人間のおきての代弁者だという事です。
「ともかく」ということであって正しいもくそもないのです。
これが父親です。
その時に非常に大事なことはそれは絶対的に
正しいという事はないのです。
だからある意味で言うと「理不尽」なものでもあるのです。
色々理屈がある中でこれを選んだという事は
「ともかくこれなんだ」という理不尽さがあるわけである。

無茶苦茶じゃないかといわれますが論理的に
生まれた人は誰もいないですよ。
我々は理不尽にこの世に生まれているのです。

不純異性交遊というものをやる子がいますね。
先生は心配して「そういうことはしない様に」と言われます。
しかし彼女たちは論理的に反論するわけです。

「私は自分の好きな事をしているのであって誰にも迷惑はかけていない。
 迷惑どころか楽しませてあげているのだからどこが悪いんですか?
 私たちの様に好きで愛し合っているのは不純で愛し合っていないのに
 夫婦であることは純粋とどうしていえるのですか?」
 と論理的にどんどん打ち破られていくわけです。

そのような女子学生に合って最後に会って言ったんですが
世の中の悪い事というのは『理由があって悪い』というのと、
 『理屈抜きに悪い』というのと2つがある。
 あんたのやっている奴は理屈抜きに悪いやつやからやめなあかん

 と言うたのです(笑)
「そんな無茶な」てその子は言うたんですけど結局やめたんです。

カウンセリングを語る(上),河合隼雄より引用改変

合理的な理由を抜きにして「ダメなものはダメ」
と言ってくれる父性性を上記の学生は潜在的に
求めていたのかもしれない。

この様な問題の背景には、核家族化が進みかつ
男性がサラリーマンパーソン化した事で養育を
女性が一手に引き受けざる得なくなった背景

依存できる絶対的な価値観が崩壊してしまった事
に起因するのではないかと推測する。

※依存できる価値観とは例えば戦時中であれば
「忠君愛国」、昭和では「職に就けば将来安泰」等々

ともかく、合理性は確かに大事であるが
「約束は守る」「相手の嫌がる事はしない」
「行儀の悪い事はしない」等々の自分を律するための
健全な形での「父性性」が今の世の中に求められているのかもしれない。



「なんで食事中に携帯をいじっちゃダメなんですか?」
「誰にも迷惑かけてないですし、その人の自由ですよね?」
という意見に


「ダメなものはダメ!!」と言える大人が
果たしてどれくらい居るのであろうか?
(もちろん私も父性性を高めるために修行をしている身である)



②文化を発展させる事

ちなみに日本文化が私たちにもたらす恩恵を
記載した記事は以下に
述べているので参照して頂きたい。

「文化の発展」に関しては、フロイトとアインシュタインの
往復書簡にて述べられているので端的に紹介したい。

私たちが戦争というくびきから解放されない
原因は、人間の本能に組み込まれた「破壊衝動(死の欲動)
によるものだとフロイトは述べている。


破壊衝動」に飲み込まれないためには、
エロス(つながる事)」を用いる事。

そして「文化の発展」が戦争の終焉に向かわせる手段だと
述べられている。解説を行っている斎藤環氏の言葉を
以下に引用する。

文化目的とは常に個人主義の擁護なのです。
文化とは人間の価値観を規定するものであり価値観を
文化として洗練していけばあらゆる価値の期限として
生きてそこに存在する個人
に行きたるはずです。

人は何故戦争をするのか,A-アインシュタイン,S-フロイトより引用

文化とは
人間が学習によって社会から習得した生活の仕方の総称
風土の中で身に着けた立ち振る舞い

を指す言葉であるが、「共同体の存在」なくして
「文化」が存在しないのは確かであろう。

そして、共同体は「個人」によって成り立つ
だとすれば、文化の肯定や発展は
「個人の生き方・在り方の擁護」と捉えられる。

超訳すれば、文化の発展とは
多様性を尊重し,多様な選択肢が可能になる事
であると私は解釈した。


「多様性を尊重」という言葉が氾濫しているい
昨今であるが、他者を尊重するためには
当然「相手の立場になって物事を考える
が必要でありとても難しい事だ。

※例えば、いじめる側,いじめられた側の
 両方の背景を加味して両者のケアを行う様に・・。
 (いじめを肯定しているわけではない)

以上を踏まえ非社会性が蔓延した背景を整理すると・・
エロス(つながる事)の力が弱まり
⇒安心ー安全の欠如
⇒共感性の低下
⇒社会性(自明性)の低下
⇒当たり前が分からなくなる
⇒迫害不安,もしくは攻撃衝動,引きこもり

外発的動機付け(~べき主義)を基盤とした,他者に対する
思いやりの跋扈が人間不信の心や非社会性を招く要因
なのかもしれない。

病んだ心(攻撃衝動)で、
相手の立場に立つ事は不可能に近い。
※できる人もいるがかなり特殊

当然相手を思いやるための学習・経験は難しいであろう。


最後に・・

その場のふさわしさに見合った行動を行う事は
実際にとても難しい。


親密なコミュニケーションを築いてきた人でも
どこかで間違う。「ふさわしさ」を考える事は
大変高度であると思うし、脳機能上それができない
人だっている。

「社会性」や「当たり前」という名の「暴力」に
晒される人を多く見てきた一方で、
何故この場面でふさわしくない行動(社会的逸脱行動)
をとってしまうのか?


私自身の「排他的ふつう」が作動した事が本記事
を執筆する動機になっている。

そして、本記事を執筆し終えた今,不思議な思いが
去来しているのは確かである。

非社会性(当たり前が分からない)の人も
何かしらの背景や物語を抱えている。

その事を「理解しようとする態度」が「多様性の尊重」
なのだろう。


そして分かった上で「不条理性を行使」できる性質が
父性性であり、それはそれで「エロス(愛)」
的な力動が働いているのであった。
※相手からしたら、理解できないかもしれないが。
 相手を生かすための父性

葛藤しよう、、、
その事で「病んだ心」に一筋の光を灯せるのであれば・・


ご拝読ありがとうございました!!







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