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世界の95%はまだ解明されていない

観念論と形而上学

僕は16年前に交通事故で、頭を強打し、後遺症を負った。

当時は、緊急病院で簡単な検査だけをして、すぐ仕事に戻ったが、仕事が全くできなくなっていた。簡単な症状だけ書くと下記になる。

・物事を覚えられない。すぐ忘れる

・人との距離感が分からなくなる。俗にいう空気が読めないっていうものだ。

・人との上下関係も分からなくなる。距離感が図れないから。

・自転車が載れない。小脳のダメージから。

・すぐ疲れる、脳疲労から突然倒れてしまう。

・すぐにキレる。すぐに泣く。すぐに笑う、、

こんな感じで何にもできなくなってしまった。それでも生活があるから、転職して新しく始めるも、同じことの繰り返しで、人との摩擦、業務の遅延、ミスなどで、離職を繰り返した。

これはもう、会社は諦めて、起業するしかないのか、と起業するも、人間関係の悪化と借金を負って、倒産。その後、派遣社員で会社で働くも、体力が持たずストレスもたまり、うつ状態に。

そんな、もう生活するための自分の武器が思い浮かばなくなって、鬱々とした絶望の日々が続いた。

ただ何とか生活はしなければならないし、何とか生きる気力は保ててはいた。

そんな繰り返しが10年間ほど続き、転職は9回、起業は3回経験した。最近は、NPO法人の法人閉鎖も頼まれて実施もした。

それでも定期収入はない。常に生活するために追われている。

そんな中、一つの仮定をしてみた。デカルト的な帰納法、演繹法ではなく、社会経験のない空気の読めない新入社員みたいな考えかもしれないが、アブダクション(Abduction)的なものを通しての着想だ。

まず辞書に載っている下記の2つの言葉を転写してみる。

▼ 形而上学 (英語: Metaphysics)


1.形をもっていないもの。
2.感性的経験では知り得ないもの。有形の現象の世界の奥にある、究極的なもの。
・実体のない原理を研究の対象とする形而上学
・感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について
理性的(ロゴス)な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である。
・対立する用語は唯物論である。

▼ 観念論 イデアリスム(英語: idealism)

1.われわれの精神的存在だけをこの世界の本源的な存在とし、外界は、われわれが自己の精神的存在すなわち観念で認めた、仮象の世界にすぎないとする認識論。

2.現実に基づかず、頭の中で組み立てた考え、論
対義語 : 実在論・唯物論


アブダクションから得た仮説を一つ下記する。

「世界の知識、現象、自然科学等々、すべての見聞きする物事は、全宇宙の5%以下に過ぎない」 01

形而上学的に、この着想の仮説を、現代の理性的な論理をもって説明をする場合、大きな助けとなりそうなのは、宇宙科学を研究している学者の言葉だと思う。

「人類は宇宙の5%も理解できていない」02

これは結構な宇宙関係者や論文発表者が口にする言葉なので、一般的なものとしてエビデンスの人物を出す必要もないのかもしれない。

01の仮説を拡大的に着想していくと、今もし僕がこの社会での生活や仕事、人間関係で絶望していたとしても、僕たちの見聞きする、また体験している世界は全てのたかだか5%以内である、と。

言い換えれば、人類が勝手に決め付けた狭い世界の環境、法則、ルール等々で縛りあげた現代の人間社会は、全宇宙の法則の95%以上を無視して、利用も活用も発見もしない状態なのに、今が最良だと思われている、ということだ。

ああ、多分痛い人だね、とあきれられてしまうだろうね、もしこの意見を人に押し付けたりしたら、、💦

今段階では、僕の仮説だけど、結構な割合で僕は信じている。

以前、地域の社会福祉協議会と区役所と協働して、高齢になった引きこもりの方の支援をボランディアでしたことがある。

その時、僕の頭に物凄いエネルギ―のしこりが宿る言葉を当事者から言われ、今も頭の中に残っている。

「引きこもっているのは、お前らだろ!」

怒鳴るように最後に言い放った当事者の言葉だった。

その詳細の意味を質問する時間は許されなかったが、「お前らだろう」の”お前ら”というのは、今の社会全体のことなのかも、と僕は解釈した。それとも僕だったのか、、

もし01の仮説が何%かで正しいという有意性があるのであれば、引きこもっていた当事者の方が言う”お前ら”とは、

お前ら=5%以下

という方程式を意味していたのでは、と。

 

彼らは、幼少の時から肌でこの社会の理不尽さと不平等さを、今の僕みたいな形で、集団からのけ者にされ、仲間として認識されず、また自分の満足できる環境がどんなに探しても出会えなかったことを身をもって体験していた。

そしてその理由は、社会はこの方程式の外にある95%以上のまだ見ぬ領域を全く活用していない、ということをうすうす感じていたからではないのか。

だから、「健康で健全ならもっと探せよ」と。

「もっと開拓しろよ」と。

少し僕の体験談に仮説を照らし合わせてしまったが、僕が今、もっとも興味がある分野はこの95%以上の、人類がまだ見ぬ「時空」ともいうの云うべき、未知なる可能性がもっている新しい次元だ。

僕にとっては、生きるための、生活の食い扶持としての、方向性として死活問題でもあるので、ここへのアクセスにすべてを注力したい。

そんな大元になる考え方として、「形而上学」「観念論」の2つの題名を、今日は恐れ多くも、つけてみた。

以上。



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