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名無しの島 第36章 離島

 水落圭介は『はやぶさ丸』の操縦室に入った。

操縦室は意外と狭かった。4平方メートルほどしかない。

漁船はおろか、船の操縦などしたことがない圭介だったが、

操縦盤をのぞくと、案外やれそうな気がした。

正面の中央には、大型トラックと同じくらいの

大きさのハンドルがある。

これが、船の進路を変える舵と連動しているのだろう。

左下には、長いレバーが二つ。

まるで木琴のスティックを思わせる形だ。

これが、船のスピード調整・・・

いわば加速と減速をコントロール

しているものらしい。右の操縦盤には4つほどの計器がある。

コンパス、速度計(ノット表示)、燃料系等・・・。

意外とシンプルなつくりだった。

 水落圭介はあせらず、

それでいて素早く『はやぶさ丸』を

岩棚から距離を置こうと試みた。

船の操縦は勿論、漁船の操縦など初めてではあったが、

今はそんなことを言っている場合ではない。

一刻も早く、この『名無しの島』から離れるのだ。

 圭介は左のレバーを下げると、

『はやぶさ丸』は後退し、岩場から離れて行った。

刹那の安堵感が圭介の胸中に、わずかな安寧の気持ちを与えた。

海水を間に置けば、少なくとも化け物はこちらに手を出せない。

それだけでも水落圭介の安心感は、

大きなものだった。後退しながら舵を取り、

船首を島の反対に向ける。

『名無しの島』を背にした形だ。

 この『名無しの島』は枕崎市漁港から、南西にある。

ということは、真逆の北東に向けて進めば、

本土に着けることになる。水落圭介はコンパスを見ながら、

船首を北東に向けようとした。

だが、思うようにいかない。それも当たり前だった。

なにしろ船など操縦したことなどないのだ。

2度ほど、エンストしながらも、1時間以上かけて、

やっと船首を北東に向けることができた。

レバーを上げて慎重にスピードを上げる。

エンジンから規則的な振動を感じる。

水落圭介は背後の窓越しに、遠のいていく『名無しの島』を見た。

大きな安堵感と同時に、

心の中に言葉にできない悔しさが占めていく。

 あの『名無しの島』を取材に行った草案社のルポライター、

桜井章一郎が行方不明になり、

彼を探しに行くことになった水落圭介。

地元の漁師からも、恐れられる曰くつきの島、『名無しの島』。

ただの都市伝説的なものだろうと、

たかをくくっていた圭介だったが、

それはとんでもない誤解だった。

 この南の孤島には、新たな戦時問題の火種となる

大きな秘密が隠されていたのだ。

太平洋戦争中に数多く行われた、

731部隊をはじめとする人体実験、

その中でも『名無しの島」で

行われたものは特異なものだったのだ。

細菌兵器研究はもとより、それを媒介する生物に、人間を選んだのだ。

それも異形の生物兵器に改造して・・・。

 水落圭介は、この事実を本土に帰って公表するつもりだった。

だが、手元に何の証拠も無い。

写真もファイルも、あの研究室と共に燃えてしまった―――。

いや、待てよ・・・と水落圭介は考えた。

あの島には、まだ化け物―――生物兵器が多く存在しているはずだ。

それこそ生きた証拠ではないか・・・。

マスコミに公表し、

世論に訴えれば日本政府も動かざるを得まい。

もし、マスコミに政府の圧力がかかったとしても、

草案社の佐藤編集長なら、必ず動いてくれるに違いない。

 有田真由美と小手川浩・・・

草案社の記者が二人も犠牲になったのだ。

この事実はもみ消しようがないではないか。

佐藤編集長も必ず同意する。水落圭介は確信した。

ふと何気なく、操縦室の右上を見やった。

そこには無線があった。

圭介はやや乱暴にマイクを手に取った。

携帯電話が圏外といえど、無線は通じるはずだ。

近隣の船舶に連絡が取れれば、この『はやぶさ丸』を、

枕崎市漁港まで、曳航してくれるかもしれない。

 水落圭介はトグルスイッチをONにした。

どの周波数が正しいのか、さっぱりわからなかったが、

丸いツマミを回して、あらゆる周波数で呼びかけた。

「こちら『はやぶさ丸』、トラブル発生。

 枕崎市漁港まで曳航をお願いしたい」

 水落圭介は、何度も繰り返し呼びかけた。

 ややあって、ある船舶から返事があった。

 水落圭介は安堵に、胸を撫で下ろした。

「こちら『豊神丸』、『はやぶさ丸』の位置を把握した。

 すぐにそちらへ向かう。どうぞ」

 『豊神丸」という船舶からの応答だった。

レーダーでも搭載しているのか、

それとも無線を逆探知できるのか、

船舶の装備に疎い水落圭介にはわからなかった。

何はともあれ、これで一安心だ。

本当の安心感が全身に舞い降りたようだった。

 そこへ斐伊川紗枝が、操縦室に入ってきた。

圭介は彼女の方に振り返った。

その顔からは、まだ恐怖の表情が抜けていない。

それに手には、どこから見つけたのか、

大きなカナヅチを持っている。

まだ警戒心が解かれていないようだ。

「もう大丈夫だ。

 他の船から無線で連絡があった。これで本土に帰れるぞ」

 水落圭介は、まだ怯えている斐伊川紗枝を励ますように言う。

斐伊川紗枝を見る圭介の左目に続いて、

銀色に変色し始めていた―――。

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