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名無しの島 最終章 隠された過去

 鹿児島県枕崎市漁港に到着してから1日半後、

斐伊川紗枝の姿は、東京都内の、ある国立病理疾病センターの

無菌隔離室のベッドの上にあった。

枕崎漁港に曳航された『はやぶさ丸』を中心に、

半径500メートルに及ぶ範囲で、待機していた警察、

救急隊など関係者以外は立ち入りを固く禁じられた。

異様だったのは、待機していた者全員が

全身防護服に包まれた姿だったことだ。

それに救急搬送用のヘリコプターまでが地上に待っていたこともある。

 水落圭介と斐伊川紗枝は担架に乗せられ、

その防護服に包まれた十数人の者たちによって、

そのヘリコプターに搬送された。搬送される際、

水落圭介は非常な違和感を覚えた。

彼はもとより、斐伊川紗枝も手足をベルトで担架に固定されたのだ。

水落圭介は、掛けていたサングラスを取られた。

そして何かわからない薬品を注射された。ふたり共だ。

その直後、水落圭介の意識は朦朧となっていった。

 ただ意識を失う前に覚えているのは、

防護服の者の顔面に当たる部分はミラーグラスのようになっていて、

その鏡のように反射されたところに、自分の顔が映っていたことだ。

5日前、この枕崎市漁港を発って以来、久しぶりに見る自分の顔だった。


泥や血で薄汚れ、まばらな無精ひげに覆われた自分の顔。

その自分の顔を見つめる両目は―――

銀色に鈍く光っていた。全身に衝撃が走る。

水落圭介は、口をあんぐりと開けた。彼は半狂乱になり、

絶叫がほとばしりそうになる・・・が、

彼の口と鼻は酸素吸入器のようなもの素早くを被せられ、

絶叫はその中で、くぐもった音に変換された。

 何人かの防護服姿の者が、かわるがわる圭介の顔を覗き込んでいく。

そんな行為をしながら、彼らは何やら言葉を交わしていたようだが、

そこで水落圭介の視界は暗転した―――。

彼は意識を失ったのだ。


 一連の事件は、マスコミに伏せられた。

政府の圧力によって。テレビやラジオでは、

すべては単なる海難事故として処理されたのだ。

どの放送局でも30秒足らずのニュースでしか

報道されなかった。所沢宗一の死因は、

スクリューに巻き込まれた事故死として片付けられたのだ。

ただ、インテーネット上の大手掲示板では、

いくつかのスレッドが起ち、様々な書き込みがされてあった。

その中の大半は面白半分で書かれたコメントだったが、

『はやぶさ丸』は心霊スポットの『名無しの島』から逃げ帰ったとか、

もっと他に何人もの犠牲者がいるとか、

どこからか情報が漏れたのか、それとも単なる推測なのか、

核心に近いコメントもあった。

だが、それもひと月もしないうちに、

それらの書き込みも冷めていき、スレッドはダットされていった。


 唯一、真実を知るに近い草案社にも緘口令がしかれた。

佐藤編集長はスクープ誌の任を解かれ、

経理部へと左遷された。もはや彼にも何事も

公表することはできないでいた。

確かに、水落圭介をはじめ、草案社の社員である

有田真由美と小手川浩の

ふたりを『名無しの島』へ取材に行かせた事実を認めてはいるが、

彼が知る事実はそこまでだった。

『名無しの島』で何があったのか、

それを知る生存者は水落圭介と斐伊川紗枝しかいないのだ。

ふたりの知る、その真実は佐藤の想像の及ぶところではなかった。

彼もまた、何も知らないでいたのだ。

それは自分を更迭に近い人事に対する

抗議の根拠にさえなりえなかった。

 そしてまもなく『名無しの島』は完全に海図から消された。

その上、国土交通省の権限によって、

周囲500メートル以内の立ち入りも禁止された。違反した者には、

途方も無い罰金が科せられることになった。

『はやぶさ丸』は焼却処分され、所沢宗一の遺体も当局に回収された。

水落圭介と斐伊川紗枝を救った『豊神丸』の船長である倉田や、

その他の船員たちも、2週間に及ぶ免疫検査を受け、

その後無事全員解放された。

元から『名無しの島』を恐れていた地元の人々は、

今回の水落圭介たちの事件の噂を聞きつけ、

人から人へ伝わり、新たな『名無しの島』への恐怖を植え付け、

誰もこの島に近づこうとはしなくなった。


 斐伊川紗枝は白い天井を見つめていた。

それに彼女は今、自分がいる場所さえよくわからないでいた。

いつも決まった時間に、防護服に包まれた人間が数人やってきて、

斐伊川紗枝に食事をさせていた。

それと同時に注射器を使って彼女の血液を採取していた。

その量はほんのわずかだったが。斐伊川紗枝の意識は、

そのほとんどが空虚なままだった。

あまりに想像を絶する恐怖体験をしたことによる、

ショック状態が続いていた。

ただ、時おりフラッシュバックのように、

あの島での恐ろしい光景が脳裏に浮かぶ。

 人ではない人の異形の化け物。銀色の目。銀色の歯。

銃口から放たれる、目もくらむ銃火。そして化け物の黒い血しぶき。

化け物に噛まれ、その黒い爪で貫かれる女。

そして彼女の苦悶の表情。その女性は誰だったか。

名前が思い出せない。思い出そうとすると、

ひどい頭痛が走る。頭が割れそうになる。

 そして爆発。自分を追ってくるムカデのような化け物。

立ち上る巨大な黒煙。

視界に近づく海。海面に叩きつけられる衝撃。

そして身も凍るような冷たい海。海・・・。

 岩場にある船。頭をもぎ取られた死体。

頭が二つある怪物。その怪物の頭を背後から、

銛で突き刺す自分。

その怪物は海に落ちてマネキンのように固くなって沈む。

銀色の目をした男が、自分に呼びかける。

その男は、もう大丈夫だと言っている。

だが、その銀色の双眸は化け物と同じ。

その両目が自分を見つめる・・・。

 記憶をたどるたびに、

彼女は声にならない叫び声を上げた―――。


 水落圭介は厳重な隔離室にいた。

それは斐伊川紗枝の隔離されている部屋とは

別物だった。広さは3畳にも満たない。天井の高さは2メートル。

四方の壁は、分厚い乳白色のマットで覆われている。

水落圭介は白い厚手の帆布製の拘束衣上下を着せられていた。

両腕を交差させられ、固定されている。

固定された両手の指先の爪は、

『名無しの島』に生息していた化け物と同様に、

黒く変色しているのが見て取れた。

彼が隔離されている部屋の扉は、

極めて頑丈な鉄扉で閉ざされていた。

 拘束されている水落圭介もまた、定期的に採血されていた。

採決された血液――その色はどす黒い――は、

サンプルとして別室の研究室に渡され、

血液検査に使われていた。

防護服に身を包んだ人間が、

すくなくとも2人以上でその作業に取り掛かっていた。

水落圭介の収容されている隔離室の扉は2重構造になっている。

彼の隔離室に入る者は防護服を装着し、まず第一の扉を開ける。

そして二つ目の扉を開けると、隔離室に入ることが出来る。

逆に隔離室から退出する時は、

第一の扉を開けて、第2の扉との間にある

殺菌室で総合殺菌剤の水溶液のシャワーを、

その体の隅々まで浴びねばならない。

そうして初めて、隔離室から出ることが許されるのだ。

 水落圭介は、その頭に金属製のヘッドギアを被せられていた。

そのヘッドギアには、アメリカンフットボールの

ヘルメットに取り付けられているような

マウスガードが装着されている。

ただし、それは水落圭介の下顎を固定していた。

そのため、彼はわずか数センチしか口を開けられないでいた。

それには確固たる理由がある。

防護服を着た者たちを守るためだ。

その銀色の歯に噛まれないために・・・。

彼の口を封じておけば、両腕と同様、他の者を攻撃できないからだ。

 そして水落圭介は今や、その個人名で呼ばれてはいない。

彼はRNA-774KM001という名称が付けられていた。


 RNA-774KM001

―――である水落圭介の双眸は、

銀貨をはめ込んだように、鈍い銀色の光を放っていた。

その肌も完全に、灰色に変色している。

それだけではない。彼は下顎を固定されているため、

声はほとんど上げられないが、

(シュッ)という不気味な呼吸音を、ときおり発していた。

その症状は水落圭介が、

『名無しの島』に巣食う化け物と同様の生物兵器に、

変貌していることを証明していた。

 その化け物―――

かつて水落圭介と言う名のフリーのルポライター―――

だったものは、頑丈なヘッドギアと拘束衣のために、

その動きを完全に封じられている。

だが、彼―――RNA-774KM001は、低い天井を見上げて、

時おり、思い出したように何か言葉を発していることがあった。

銀色の歯の並んだ口を開けて。

隔離室の壁面や天井に取り付けられている、

高感度のマイクがその言葉を録音していた。

 その言葉は・・・(シュッ)という呼吸音と共に、

かすかな声で刻まれていた。

「・・・ナナシ・・・ナナシ・・・」

 彼の脳裏に思い起こされるのは、灰色の曇天を背景に、

暗緑色の海に浮かぶ傾いた黒い島影だけだった。

その光景は桜井章一郎の残したファイルにあった、

あの島の写真と重なっていた。

だが、それを知る者は誰もいなかった―――。


名無しの島  完

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