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名無しの島 第35章 終わらぬ悪夢

 所沢宗一の船は、エンジンがかかったままだった。

エンジン音が、咳き込むような音を立てている。

この『名無しの島』に迎えに来るはずだった、

約束の時間はまだ先だ。

圭介は、おそらく所沢も我々が心配になって、

早く来たのだろうと考えた。

振り返ると、笑みこそ浮かべてはいなかったが、

斐伊川紗枝も希望に、瞳が輝いているように見える。

それは水落圭介にとっても、同様だった。

所沢の漁船の側面についた。渡し板も取り付けてある。

「所沢さん、水落です」

 水落圭介は出来るだけ声を押し殺して呼びかけた。

だが、返事は無い。

水落圭介と斐伊川紗枝は、

かまわず渡し板を伝って船に乗り込んだ。

ふたりとも一秒でも早く、

この忌まわしい島から離れたかったのだ。

 漁船の後部に、二人は乗り込むと同時に、

彫像のように固まった。

そこには首の無い死体―――

以前、所沢宗一が身につけていた、

ブルーのサロペットを履いた死体が転がっていた。

辺りは血の海だった。

そして、血生臭い異臭に満たされている。

水落圭介は死体の上半身に回って見た。

 首は切断されたというより、何か物凄い力で、

引きちぎられたように見える。

ただ頭部は海に捨てられたのか、見つからなかった。

その首の引きちぎられた部分を中心に、

放射状に大量の血液が飛び散っている。

そして、その血はまだ凝固していなかった。

表面はぬらぬらとした鈍い光を放っている・・・。

所沢宗一は惨殺されていた。

 背後で斐伊川紗枝が、海面に向けて吐瀉物を嘔吐した。

ここ数日、ろくに食事もしていなかったので、

彼女の吐いたのは、そのほとんどが胃液だった。

 間違いなく、化け物の仕業だ。

所沢宗一は化け物に襲われたのだ。

いままで、圭介たちが遭遇した化け物―――

生物兵器は、その一部でしかない。

まだ、他に何体の生物兵器が存在するのか、想像もつかない。

ただ言えるのは、所沢が殺されて、

そんなに時間が経ってはいないということだ。

それは流された血液が、凝固していないことでもわかる。

ということは、まだ彼を殺した化け物は

近くにいる可能性がある・・・。

 水落圭介は緊張した面持ちで、周囲を見渡した。

視界に入る岩場には、動くものの気配は無い。

水落圭介はふと、船の操縦室が目に入った。

後部は横長の狭い窓が付けられている。

その窓のガラス越しに、何か揺らめく人影を見た。

その人影には、頭部が二つあった。

ただ片方はうなだれたように横に傾いている。

 水落圭介の全身に電流が流れたような、緊張が走った。

自分の口元に左手の人差し指を立てて、

背後にいいる斐伊川紗枝に静かにするよう合図する。

そして、右手で操縦室の方を指差した。

 斐伊川紗枝は悲鳴を上げないように、両手で口を覆った。

その両目には恐怖の色が浮かび、瞳孔が縮む。

水落圭介は何か武器になるようなものはないかと、

辺りに視線を走らせる。

動悸が抑えられないほど高まってきていた。

ようやく、船尾にある、銛を見つけた。それも2本。

全体の長さは2メートル近くあり、木製の柄の先には、

金属製で30センチほどの鋭い矢先がついている。

水落圭介はその銛を、音を立てずにゆっくりと手に取った。

その時とほとんど同時に、操縦室にいる人影が動いた。

その化け物らしき影は圭介たちに気づいたのか、

操縦室から出てくる。

 現れた化け物は、これも異形の者だった。頭が二つある・・・。

しかし向かって右側の首は腐って、うなだれている。

こいつは・・・水落圭介は思い出した。

この『名無しの島』に着いた初日に、

井沢悠斗を襲った化け物だ。

圭介自ら誘い、サポートを頼んだら、

快く引き受けてくれた井沢悠斗。

数ヵ月後のアマゾンへの冒険を楽しみにしていた彼を、

無惨に引き裂いて殺した化け物。

圭介の心は、恐怖から怒りへと変わった。

銛を握る手に力がこもる。

「シャアアアアアッ!」

 圭介たちを認めたその化け物は、

前かがみになって唸った。

その直後、信じられないような跳躍を見せ、

水落圭介に飛び掛ってきた。

圭介は夢中で手にした銛を突き出した。

矢先が化け物の胸の中央に突き刺さり、その背中を抜けた。

化け物の体重の圧し掛かる力で、水落圭介は後方に倒れこんだ。

甲板の床にしたたかに打ち付けられ、背中に激痛が走る。

 だが、化け物は何の躊躇も無く、

銛の柄をずるずると吸い込むようにして、

倒れた圭介に接近してきた。

こいつも研究施設で闘ってきた化け物たちと同様だった。

十数発の弾丸を浴びせて、

やっと殺せるような生命力を持っているのだ。

こんな銛で倒せるような相手ではなかった。

 化け物は銀色の歯を剥き出しにして、

水落圭介の喉笛を噛み切ろうと首を伸ばしてきた。

生臭い息が圭介の嗅覚を攻撃してくる。

圭介の右肩に激痛が走った。

かろうじて届いた化け物の左腕の黒い爪先が、

彼の右肩に突き刺さったのだ。

 井沢さんの仇を―――水落圭介は朦朧としてきた意識の中で、

それだけを思った。

しかし、異形の化け物の力は凄まじかった。

 すまない、井沢さん。

あなたの仇は取れそうに無いようだ・・・。

圭介があきらめかけた時、

化け物のまだ動いている頭部の銀色の左目が、

内側から飛び出すように、突き出された。

その銀色の眼球から突き出たように、

銛の切っ先が見えた。

飛び出した眼球は、細い粘ついた

白い粘膜状のものを引きずっている。

背後から、斐伊川紗枝がもう1本あった銛で、

化け物の後頭部を刺し貫いたのだ。

 化け物は、言葉で表現できないような、

異様な叫びを上げて起き上がった。

今度は斐伊川紗枝に向き直る。

胴体には水落圭介が刺した銛をそのままに、

頭部には斐伊川紗枝が突き刺した長大な銛を引きずって・・・。

斐伊川紗枝は悲鳴を上げながら、座り込んだ。

だが、化け物も二人の攻撃に動きが鈍っているようだ。

斐伊川紗枝との距離はさほどではないが、

先ほどまでの俊敏さは失われたのか、

その動きは緩慢になっている。

 圭介は身を起こした。そのままの勢いで、

全身の力を込め、斐伊川紗枝に迫る化け物に体当たりした。

化け物は頭から船から落ちた。

海面に大きな波しぶきが立ち上がる。

 双頭の化け物は海面に

動いているほうの頭を突き出して、もがき苦しんでいる。

たしか、小手川浩が言っていた―――

化け物は極度に硫酸カルシウムに弱いと。

石膏の主成分である硫酸カルシウムは、

わずかだが海水にも含まれているとも・・・。

 苦しむ化け物の灰色がかった肌は、

見る間に白く変色していく。

そしてついに、その動きが止まった。

まるでマネキンのように固まり、海中へと沈んでいく。

 水落圭介は、まだ座り込んで震えている

斐伊川紗枝に言った。

「ありがとう。助かったよ。さあ、本土に帰ろう・・・」

 そう言った圭介の左目は、

すでに銀色に変色していた―――。

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