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名無しの島 第37章 豊神丸

「どうしたんだ?紗枝」

 水落圭介は、カナヅチを握り締めたまま、

構えている斐伊川紗枝を訝しむように言った。

「水落さん・・・目があの化け物と同じようになってる・・・」

 斐伊川紗枝の声は怯えたように、小刻みに震えている。

彼女の言葉に、圭介はあらためて衝撃を受けた。

RNA-774に感染していることはわかっていたが、

その症状が確実に進行していることに、

言い知れない恐怖を感じた。

やはり、小手川浩に打ってもらった抗体―――

正確には10ccでなければならない

―――5ccでは足りなかったのだ。

 心なしか、呼吸音の中に、

化け物たちに似た(シュッ)という、

空気が抜けるような音が混じっているような気さえする。

そこで水落圭介は気づいた。

もうじき、この『はやぶさ丸』の場所へ『

豊神丸』がやって来るはずだ。

その時、自分の銀色の目を見て、

『豊神丸』の船員たちは、どう思うだろうか?

しかも、あの『名無しの島』から

帰って来たということを知ったら・・・。

 圭介は慌てて、操縦室の中を探し出した。

何か目を隠すようなもの・・・。

しばらくして、背後の薄汚れたラックの引き出しの中に、

古びた安物のプラスティック製のサングラスを見つけた。

それはかなり濃いブラウン色のサングラスだった。

これなら銀色に変色した両目を隠せるはずだ。

レンズもフレームも、細かいキズやホコリにまみれていたが、

水落圭介は袖口でその汚れを荒っぽく拭うと、

サングラスを掛けてみた。

「これでどうだ?目元はわからないだろう?」

 まだ怯えて、カナヅチを握る手を離さない

斐伊川紗枝の方を見やり、訊いてみた。

「・・・大丈夫だけど、水落さんはまだ水落さんだよね?」

 斐伊川紗枝の、その奇妙な問いの意味が、

しばらく理解できなかったが、

数秒後には水落圭介もゆっくりとうなづいた。

 1時間半ほどして、ポンポンポンという規則的な漁船の

エンジン音が聞こえてきた。

水落圭介は操縦室の右窓から、身を乗り出して外を見た。

暗緑色の海上、灰色の空を背景に黒っぽい船影が見えた。

おそらくあの船影は圭介たちを助けに来た、『豊神丸』に違いない。

圭介たちの乗る、『はやぶさ丸』から

300メートルといったところか。

 水落圭介の胸中に、本物の安堵感が広がった。

思わず振り返って、斐伊川紗枝にそのことを伝える。

紗枝は涙ぐんで、水落圭介の背後から『豊神丸』の船影を覗き見た。

圭介と斐伊川紗枝は操縦室を出て、『はやぶさ丸』の甲板から、

『豊神丸』と思われる船影に向かって両手を振り上げた。

 それから1時間もかからずに『豊神丸』は

『はやぶさ丸』の側面に、その船体を近づけた。

間近で見る『豊神丸』という漁船は、

水落圭介が想像していた以上に大きかった。

『はやぶさ丸』より優にふた回り以上の大きさだ。

20名以上の船員の人影が見える。

「あんたか?無線で助けを呼んだのは?」

『豊神丸』の甲板から、怒鳴るような大声で、

だみ声が聞こえてきた。

見ると、50歳くらいの丸刈りで、

恰幅のいい男の姿があった。

所々ほころびたグレーのトレーナーに、

モスグリーンのサロペットを履いている。

おそらく彼が『豊神丸』の船長だろう。

「そうです。この船を枕崎漁港まで曳航してくれませんか?」

 水落圭介も、できるだけ大声で答える。

「俺の名前は倉田っていうんだ。あんた、名前は?」

 倉田と名乗った、その船長らしき男は、圭介に問いかけた。

「私の名は水落圭介。彼女は斐伊川紗枝といいます」

「おい!ロープを持って来い」

 倉田と名乗った男は、背後の若い船員に呼びかけた。

「こっちからロープを投げるから、船首に回せ。いいな」

 倉田はそう言うと、若い船員から受け取った太いロープを

『はやぶさ丸』に投げ込んだ。

そのあと、『豊神丸』から

『はやぶさ丸』に長い渡し板が掛けられた。

倉田はその渡し板を伝って飛び乗った。

波は比較的穏やかとはいえ、

何かに掴まらないと体勢を崩しかねない凪ぎだ。

しかし、倉田は難なく軽やかにそれをやってのけた。

「船首にこのロープを結うからよ。

 あとは俺たちに任せとけ。枕崎まではそう遠くない。

 夕方には着くだろうよ・・・」

 倉田は手早くロープを結ぶと、

圭介たちのところまでやって来た。

「だいたいこの船は所沢さんのだろう?奴さんはどこに・・・

 なんだ?あれは・・・」

 そこで倉田の言葉が止まり、両目が細まった。

彼の視線は水落圭介の肩越しに、後部甲板に注がれていた。

倉田の視線の先にある物に、水落圭介は気づいた。

それは放置したままの、所沢宗一の首なし死体だった。

 倉田の視線が水落圭介に戻された。

その顔には怒りと恐れが無い混じっている。

「まさか、あんたらがやったんじゃ・・・」

「違います。たしかにあれは所沢宗一さんの死体です。

 ですが、彼を殺したのは・・・」

 水落圭介はこれまでの経緯を、かいつまんで説明した。

自分たちは東京の出版社のルポライターで、『名無しの島』で

行方不明になった同僚を探しに来たこと。

そしてそこには旧日本陸軍774部隊の、

恐るべき秘密の研究所があったこと。

ここまで逃げるのに3人も・・・

いや所沢宗一も含めると4人の命が奪われたこと・・・。

 こんな常軌を逸した話など到底、

常人には理解できないだろうと水落圭介は思っていた。

こんな異常な話、信じられないのが当然だ。

だが、倉田は厳しい目で圭介を睨むように言った。

「あんたの言ってることは本当だろうよ。

 俺も若い頃、あの『名無しの島』の

 噂なんか信じられず・・・あの島の近くで漁をしたことがある。

 その時、俺も見た。人の形をしていない人をな。

 それからはブルッちまって『名無しの島』には

 近づかないことを決めた・・・。

 あんたらは馬鹿だ。大馬鹿だよ」

 倉田はいっとき、下を向くとすぐに顔を上げた。

「とにかく、あんたらを枕崎まで届ける。

 警察と救急にも待機しとくよう、無線で知らせとく。

 後はあんたらが説明してくれ。

 信じてもらえればの話だがな・・・」

 倉田は仏頂面でそう言い残すと、

渡し板を歩いて『豊神丸』の甲板に戻った。

『豊神丸』は力強いエンジン音を響かせながら、

船首を北西に向けた。

ゆっくりと・・・そして力強く『はやぶさ丸』を曳航し始める。

 『はやぶさ丸』の操縦室に残った水落圭介と

斐伊川紗枝は、ずっと無言だった。

3時間後、はるか遠くに枕崎漁港が見えてきた。

水落圭介には数年ぶりに見るような気持ちだった。

わずか5日前に、この漁港を経ったとは

信じられない不思議な感覚だった。

水落圭介は目を凝らした。

枕崎漁港には幾つもの赤色灯ランプが瞬いて見える。

その赤い光は数え切れないほどだ。いったい何台・・・

いや何十台の警察車両や救急隊車両が

来ているのだろう。最初は心強く、頼もしい光の帯に見えたが、

水落圭介は突如として言い知れぬ不安に

心を掴まれていた。

「水落さん・・・やっと帰れたね・・・」

 彼の隣で、斐伊川紗枝の声がすすり泣きとともに聞こえてくる。

だが、水落圭介は彼女の声が、

ひどく遠くから聞こえてきているように感じた。

自分は彼女のように、単純には喜べない。

それは勿論、RNA-774に感染して、

その症状が確実に進行していること。

そして、この細菌に対する有効策が、果たして

この国の医療機関に存在するのか?存在しなければ・・・

このままなら、自分もあの化け物たち―――

生物兵器のようになるのは確実だ。あんな化け物になって、

人間を襲う自分を想像したくない。

ならば、いっそのこと人間であるうちに殺されたほうがいい・・・。

ふいに小手川浩のことが、頭をよぎった。

人体ムカデを道連れに爆死した彼。

小手川浩は水落圭介と斐伊川紗枝を助けるため、

他人の命を救うために死を選んだ。

まだ、人間の心を持っているあいだに・・・。

しかし自分は違う。徐々に近づきつつあるのだ。

あの殺戮の本能しかない生物兵器に。

そんな恐怖を押し殺すように、圭介は頬を引きつらせながら、

そしてできる限り、斐伊川紗枝を怯えさせないように答えた。

「ああ・・・もう、大丈夫だ(シュッ)」

 水落圭介の抱く不安と恐怖は、偶像のように具体的な形になり、

その身を起こして

彼の意識の中で次第に大きくなっていった。

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