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呪会 第11章

亜希子はバス停に降りると、自宅マンションに向かった。

歩いて5分ほどのいつもの帰り道なのに、今日は遠く感じた。

ここ数日間でいろんなことがありすぎた。

呪会のこと、菅野好恵の事件、そして里美や祐介たちが、

亜希子のために呪会のことを暴こうと行動を開始したこと・・・。

何かが動き始めている。亜希子はそう感じていた。

それは亜希子の不安や怖れを洗い流してくれるものなのか、

それともさらなる恐怖の道へと誘うものなのか。

沈みかかっている夕陽を見上げると、

雲がほんのりと赤みがかっている。

まだ初秋という時期で、風は涼しく心地良いくらいなのに

亜希子は少し身震いした。

その時、亜希子の背後で、自動車のクラクションが短く鳴った。

亜希子は反射的によけながら振り向いた。

そこには白のクラウンが停まっていた。

彼女にとってそれはなじみ深い車種だった。

クラウンのドアが開いて、中年の男性が降りてきた。

ダークグレーのスーツに濃いブルーのネクタイ、

少し白いものが混じった頭髪をオールバックにしている。

「亜希子」

その男性は亜希子に優しく微笑みかけた。

「パパ!」

亜希子も駆けより、その胸に抱きついた。

その男性は亜希子の父親の山村希一だった。

「どうしたの?こんなとこに来たら、

 ママに見つかっちゃう・・・」

亜希子は希一の顔を見上げて言った。

離婚調停の時、親権は母親の由実に渡った。

その時に、由実の許可無しに会えないように条件を出され、

希一も了承している。だが実は時々、

亜希子は内緒で希一に会っていた。

なぜなら、希一に会うことを由実が許さないからだ。

亜希子は希一が好きだった。

離婚のきっかけになったのは希一の女性問題だ。

それはわかっている。だがしかし、

亜希子はそれでも希一を憎めなかった。

希一をそんな行動に走らせたのは、

母親の由実にも大きな原因があることもわかっていた。

ただそれだけではない。

なぜか希一には由実にはない温かみを感じることが

あるのも、その理由かもしれない。

「電話かメールしてくれれば

 よかったのに」

希一から身を離し、亜希子は少しむくれて言った。

「すまない。この時間にたまたま

 暇が作れたんでな。事前にメールでもすればよかった」

希一も広告代理店の営業部長という立場上、

由実に負けず劣らず多忙な身だ。

事前に亜希子と会う約束をしても、必ず守れるとは限らなかった。

実際以前にも急な会議や商談で、約束をすっぽかされたことは

1度や2度ではない。

「亜希子、時間あるか?」

「うん、ママはまた残業で

 遅くなるって言ってたから・・・」

「そうか、じゃあこれから食事でもどうだ?」

「うん、いいよ」

亜希子は時々、希一とこうして会っている。

もちろん、母親の由実には内緒だ。

彼女に知られたら、また裁判沙汰になりかねない。

当然、これまでもバレたことは1度もない。

それは亜希子が慎重だったということもあるが、

仕事に追われている由実に、亜希子に大きな関心を払う余裕がない

ということも理由にあった。

仕事に忙しく、かまってくれない由実に

不満もあったが、こうして父親と会える機会がつくれる点では、

そのことが幸いしていた。

クラウンの助手席のドアが開いて、一人の女性が現れた。

希一の再婚相手の絵里子だった。

亜希子に向かって軽くお辞儀をする。

「こんにちは」

亜希子も快活にあいさつを返した。

彼女には以前にも何度も会っている。

小柄な女性で、物腰の柔らかな優しい雰囲気を持った女性だ。

その点、大柄で勝気な性格の由実とは

正反対のタイプといえた。

亜希子は希一に促され後部座席に着いた。

助手席に絵里子が座ると、

希一はクラウンを夕闇が迫る街並みの中へと

ハンドルを切った。

大手IT企業の経営する、高層ビジネスホテルの34階のラウンジ。

その一角にあるフランス料理店のテーブルに、

亜希子たち3人の姿があった。

東側の壁一面の窓から望む街並みは、感動的なものがあった。

ちょうど夜の帳が下りる時刻で、ちらほらと明りが灯り始めている。

それはまるで、これから街が着飾ろうとしているようにだった。

「やっぱりおいしいね、このお店」

前菜を食べ終わった亜希子がにこりと笑う。

この店には希一と何度か来ていたが、

再婚相手の絵里子と来るのは初めてだった。

「今日のメインはカモのローストらしいぞ。

 亜希子の好物だろ?」

希一はナプキンで口元を拭いながら言った。

それに亜希子も笑顔で答える。

「なんだか妬けるわ。二人を見てたら」

希一の隣で絵里子が微笑みながらつぶやいた。

「ごめんなさい」

亜希子は神妙な表情で謝った。

「ううん、わたしもうれしいの。

 亜希子ちゃんに会えて。

 でも、この人ったら亜希子ちゃんと会うと

 わたしにも見せたことのない笑顔するんだもの」

そう言って隣の希一をいたずらっぽくにらんだ。

「だってしょうがないだろ。俺の自慢の娘だ」

「あら、わたしにとっても娘だわ。

 そう思ってもいいわよね?亜希子ちゃん」

亜希子から見たら、まだ30代半ばの絵里子は母親というより

姉に近い感覚だ。

姉妹のいない亜希子にとって絵里子は特別の存在でもあった。

それからしばらくして、

メインデッシュのカモのローストが運ばれた。

3人はゆっくりとそれを食べ終わると、

それぞれが好みのデザートを注文する。

亜希子はホワイトチョコのムース、

絵里子はイチゴとワインのマリアージュ、

希一はコーヒーのシャーベットだ。

「パパ。私に何か話があるんじゃないの?

 だってパパがこの店に誘うときは

 いつも大事な話のときだもの」

亜希子はホワイトチョコを口に運びながら、希一に言った。

そう言われた希一はスプーンを置き、背筋を伸ばした。

その様子を見て亜希子もスプーンを止める。

絵里子も隣で両手を膝に置いた。

「実は海外出張が決まってな。シンガポールだ」

希一は亜希子の瞳を見据えていった。

「海外・・・・出張?」

ショックで亜希子は声が出なかった。

口ごもっただけだった。

「でも、たった1年だから・・・」

希一の寂しそうな顔を見て、亜希子はパパも苦しいんだと感じた。

それに1年だ。

それだけ辛抱すればまた会えるのだ。

何も永遠の別れってわけじゃない。

だから亜希子は気丈にふるまおうと思った。

「絵里子さんもいっしょ?」

亜希子は努めて明るい声で訊いた。

「ああ、彼女も一緒だ」

「だったら安心。だってパパったら、

一人だと下着の場所もわかんないんだから」

「・・・そうだな」

そこでやっと希一は口元を緩めた。

「それで、いつ行くの?」

「それが急なんだ。

 12月の上旬には行かないといけない」

「そっか。じゃあクリスマスの前だね」

「ああ、だからちょっと早いけど、

 クリスマスプレゼント何がいいか

 聞いとこうと思ってな」

希一が優しく微笑む。

毎年、希一は亜希子への誕生日プレゼントと

クリスマスプレゼントを欠かしたことがない。

それは離婚してからも続いている。

そう言われて亜希子は呪会のことがふいに脳裏をよぎった。

欲しいものではないが、

呪会からの呪縛から解放されたいというのが今、

一番の亜希子の望みだった。

無論、そんなこと希一に言えるはずもない。

亜希子は呪会などといいうサイトの会員ということなんて

希一に教えてないのだ。

しかも今、その呪会が関係している

かもしれない事件を調べているなんてこと、

希一に絶対に言えない。

でもその一方で、すべてを希一に話したい衝動にかられた。

きっとパパなら私を励まし、優しく抱きしめてくれるだろう。

そしたらどれだけ癒されるか・・・。

いろんな思いが心を乱した。


亜希子はホワイトチョコのムースの乗った皿をみつめていた。

そんな亜希子の様子を見て、欲しいものを考えあぐねていると

感じた絵里子は助け船を出した。

「だったら、プレゼントを渡すときまでの

 サプライズってことにしない?

 わたしとこの人で何か考えてみるわ」

「はい、楽しみにしてます」

亜希子は絵里子に微笑みかけた。

自宅マンションの100メートルほど手前で、希一はクラウンを停めた。

亜希子は後部ドアを開け、外に出ると運転席にまわった。

運転席のパワーウインドウが下がる。

「パパ、ごちそうさま」

「どういたしまして。お嬢様」

希一は少しおどけた口調で言った。

「今度はメールするから。プレゼント楽しみにしてろよ」

「うん。絵里子さんもまたね」

亜希子は助手席の方をのぞきこんで声をかけた。

「また逢いましょうね。亜希子ちゃん」

クラウンはゆっくりと発進していった。

赤いテールランプが次第に遠ざかっていく。

亜希子はにわかに寂しさに囚われた。

言葉にできない孤独感が押し寄せてくる。

いつもこんなことはなかった。

それは今までは希一と別れた後でも、

また会えると確信していたからだ。

でも、希一が海外に行ってしまったら、

好きな時に会えなくなるのだ。

それも1年も・・・。

(たった1年じゃない。しっかりしろ、亜希子!)

亜希子は自分で自分を叱咤した。それでも、足取りは重かった。

自宅マンションへの道をゆっくりと辿っていく。

マンションに近付いた時に、ふい自宅のある部屋を見上げた。

亜希子は驚いて思わず足を止めた。

自宅の窓に明かりがついているのだ。

(ママがもう帰っている)

亜希子の頭脳は条件反射的に切り替わった。

こんな時間に帰宅した言い訳を、瞬時に頭の中に構築する。

いままでもこういうピンチは何度も切り抜けてきた。

経験値は積んであるので、大きな動揺はない。

亜希子はエントランスを通り抜け、

エレベーターの昇降ボタンを押した。

その間も亜希子は自然で道理に合った言い訳を考えていた。

エレベーターを降りると、まっすぐ自室へ向かう。

鍵を開けると、亜希子は明るい声でいった。

「ただいまー!」

いるはずの由実の返事がない。

亜希子は少し不安にかられて、急いで靴を脱いだ。

キッチンを抜けて、由実の部屋を見る。

わずかにドアの隙間から明かりが漏れている。

そうやら由実は自分の部屋にいるようだ。

「ママ、入っていい?」

亜希子はそう言うと彼女の返事を待った。

だが返事はない。

亜希子はゆっくりと、ドアのノブを回した。内側にそっと開ける。

見ると部屋の電灯は点いておらず、机の上のノートパソコンの

液晶画面の明かりだけが光源になっていた。

由実はその画面を熱心に見つめていた。

何か仕事に関するものでも見ているのだろうか?

その背中には、なんとなく声を掛けづらい雰囲気があった。

それでも何も言わないわけにはいかない。

亜希子は由実に声をかけた。

「ただいま。ママ」

その声に身体を少しピクリとさせ、

由実が振り向いた。

「おかえりなさい。遅かったわね」

由実はそう言いながら、

手早くパソコンのディスプレイを閉じた。

「うん、里美たちとマックに行ってたから」

ごく自然に言い訳を口にした。

こういう場合は

とってつけたような言い訳をしてはならない。

日常的なありふれた事をいうのがコツなのだ。

「そうなの。じゃあ冷蔵庫の作り置きのパスタいらないわね」

「明日の朝食にするわ」

「わかったわ。でも太るわよ。あんなもの朝から食べちゃ」

由実はそう言って笑った。

いつものママだ。亜希子は安心した。

それと同時にいくばくかの罪悪感も胸に残る。

ママの知らないところでパパに会っていることで、

なんだかママを裏切っているような気になる。

「私、仕事の残りがあるの。いい?」

由実はそう言ってパソコンに向き直った。

「はーい」

よかった。いつものキャリアウーマンのママだ。

それに希一とのことなど、露ほども気づいていないようだ。

というより、亜希子の行動に注意を払ってないというべきだろうか。

亜希子は安心して自分の部屋に向かった。

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