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名無しの島 第34章 船影

 水落圭介は、よろめきながら、

あちこちが痛む体に渾身の力を込めて、なんとか立ち上がった。

ふたりとも全身ずぶ濡れな上、着ている服は泥と煤にまみれ、

あちこちが破れている。

斐伊川紗枝も上半身を起こした。

彼女の視線は怯えきった視線を辺りに走らせている。

「水落ちさん、左腕が動かない・・・」

 斐伊川紗枝が、圭介に向かって訴えかけるような、

それでいて力のこもらない声で言った。

「見せてみろ」と圭介。

彼女の前腕部を両手でゆっくりと持ちあげてみる。

 彼女の肩の高さまでくると、

斐伊川紗枝は苦痛の声を上げた。

「腕が折れているかもしれない。無理をするな。

 所沢宗一さんが迎えに来るまで、後半日だ。

 それまで、なんとか持ちこたえるしかない・・・」

 水落圭介は、そうつぶやくように言いながら、

自分たちが放り出された、ハッチの方角を見た。

岸壁から10メートルほどの高さに、

うっそうっと繁茂した森が見える。

その中から、とてつもなく大きな黒煙が立ち昇っている。

よくは見えないが、あの辺りに圭介と斐伊川紗枝が、

爆風で投げ出されたハッチがあるのだろう。

あんな高さから爆風とともに放り出されて、

この程度の怪我で済んだのは、まさに奇跡的だった。

 小手川浩は、自分自身が化け物に

なりつつあることを自覚していた。

それも、もう人間には引き戻せないほどに・・・。

彼は決して自暴自棄になったのではない。自らの命を賭して、

オレと斐伊川紗枝を救ってくれたのだ、と圭介は思った。

でなければ、脱出ハッチを見つけ出し、

それをこじ開け、先に圭介たちを逃がして、

軽油タンクに点火することなどしないだろう。

 自分もRNA―774に感染している。

おそらく斐伊川紗枝もだ。

彼女はまだ、何の症状も出ていないが、

すくなくとも保菌者であることは間違いない。

だが、自分のほうが症状の進行が早いのは確実だ。

まだ人間であるうちに、すくなくとも斐伊川紗枝だけでも、

無事に帰らせたい。

あらためて、小手川浩の最期の気持ちが、

水落圭介の胸を突き刺した。

 水落圭介は、胸ポケットからコンパスを出した。

方角からすれば、所沢宗一が船を付けた岩棚まで、

そう遠くない。船はまだ来ては無いだろうが、

そこで待っていたほうがいいだろう。

これ以上、無駄に動けるような体力も残ってはいない。

「紗枝、行こう。船着場まで・・・」

 水落圭介は、彼女に向かって言った。

斐伊川紗枝も膝に手を添えて、よろよろと立ち上がった。

足のほうは大丈夫のようだ。

一方、水落圭介は骨折のような重傷は負ってはいないものの、

全身打撲と火傷で、体中の筋肉と皮膚に痛みが走る。

苦痛に顔をゆがめながら、水落圭介は歩き始めた。

斐伊川紗枝も彼の後を、とぼとぼとついて来る。

 30分ほど歩いただろうか。

船着場になっている岩場が見えてきた。

5日前、最初にこの『名無しの島』に到着した場所だ。

あれから5日―――。

もう随分昔のことのように思える。

この島で行方不明となった、

出版社草案社のルポライター桜井章一郎を

探すためにここに来たのだが、

まさかこんな事態になるとは、予想だにしていなかった。

水落圭介は勿論、ほかのメンバーもそうだっただろう。

 最初に化け物に襲われ殺された井沢悠斗、

最期まで勇敢に戦った有田真由美、

そして自分たちを、命を懸けて救ってくれた小手川浩・・・。

思い出すと、圭介の瞳に涙が滲んだ。

しかし、今は彼ら、彼女の死を無駄にするわけにはいかない。

なんとしてでも、本土に戻りこの事実を伝えなければ・・・。

70年前、旧日本陸軍774部隊が、

この孤島で人体実験をしていたこと。

それは細菌兵器であり、

人間を被検体とした生物兵器であったこと。

そして、その生物兵器は今もなお、数多く活動していること。

それに一番の脅威なのは、この化け物たちは、

RNA-774という細菌を媒介して接触感染し、

他の人間を同じ生物兵器に変化させること・・・。

 水落圭介は目をこすって、涙をぬぐった。

そして、その両目に見えたのは・・・

所沢宗一の漁船の船影だった―――。

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