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名無しの島 第26章 灰色の手

「あのドアかしら?」

 有田真由美は、部屋の右端にある扉を指差した。

ノブは通常のものだ。少し錆付いている所を除けば。

有田真由美が、ノブに手をかけてひねるが、びくともしない。

よく見ると、ノブの下に鍵穴がある。

その様子に気づいた小手川浩が、部屋中を探し出した。

すると、配電盤の横の壁にある、小さなフックにキーを見つけた。

小手川浩は、その鍵束を手に取った。その鍵束に視線を落とす。

そのキーは3つあり、小さな金属製のリングに束ねられている。

「これじゃないかな」

小手川浩は、そう言ってドアの鍵穴に差し込む。

キーはどれもよく似ていて、どれが合うものか、一見してわからない。

2度目に試したキーが、合った。小手川浩は用心深く、ドアを開ける。

彼の片手には、小銃が握られている。3人は彼のあとに続いた。

 その部屋にも、化け物の姿は無かった。

一同に安堵の空気が流れる。広さは先ほどの部屋と変わらない。

天井の高さも。床もリノリウム。ただ違うのは、レトロな機械類は無く、

8台ほどの机が並べられている。

並べられているとは不正確な表現かもしれない。

1台1台の机はそれぞれ、あらぬ方向に置かれている。

かつて、ここにいた研究者たちに何があったのか?

机の乱れ具合は、当時のパニックを想起させた。

少なくとも、水落圭介には、そう感じられた。


 それらの机上には、黄ばんだ書類が

乱雑に山積みされていたが、壁を見ると、

多くのファイルが収められた書類ラックがあった。

散らかされた机とは対照的に、整然と並べられている。

 小手川浩は、とりつかれたように、それらの書類を調べ始めた。

机の上からは、古びた書類が雪崩れのように床に落ちていく。

その次は、ラックをこじ開け始めた。ラックの戸は錆でうまく動かない。

だが、彼は力づくで押し開いた。

彼が何を調べているかは、圭介にはわかっていた。

化け物から感染されたかもしれない、細菌のことと、

その抗ワクチンの存在を調べているのだ。

 地下室にいるせいか、室温はそれほど高くはなかった。

地下であるにもかかわらず、湿度もそれほど高くは感じられない。

 しかし、書類やファイルをあわただしく

調べている小手川浩の顔には、滝のように汗が流れていた。

溜まった汗が顎の先端に集まり、滴り落ちる。


水落圭介、有田真由美、斐伊川紗枝の3人は、

必死の形相でファイルを開き続け、目を血走らせる彼を傍観していた。

いや、傍観するしかなかった。

小手川浩はパニックに陥っていると、誰もがそう思っていた。


「これは・・・」

 その険しい表情とはそぐわない、冷静な声で小手川浩が言った。

「何かあったのか?」

 と圭介は声をかけた。その声は上ずっている。

「水落さんは経口摂取で感染、僕は接触感染、なのに僕のほうが、

 なぜ症状の進行が早いのか・・・水落さんが飲んでた・・・」

 小手川浩が、こちらを振り向いた。その瞬間―――。

圭介は自分の目を疑った。彼・・・小手川浩の左目が、

銀貨をはめこんだように白濁していたのだ。

まるで、自分たちを襲ってきた化け物のように・・・。


有田真由美と斐伊川紗枝は、あとじさった。

しかし、水落圭介はそうはしなかった。

勿論、そのことを小手川浩に悟られまいという気持ちと、

いずれ自分にも訪れることでもあったからだ。

水落圭介は、小手川浩に対する共感めいたものも感じていた。

有田真由美も手鏡を彼に渡すような、無神経なことはしなかった。

彼女の表情はこわばっていたが、気づかない振りをしている。

「小手川さん・・・あの目が・・・」

 ただ斐伊川紗枝だけが、驚愕と恐怖の声で言いかけた。

そんな彼女をさえぎるように、あわてて水落圭介は小手川浩に訊いた。

「え?」

 斐伊川紗枝に声をかけられた小手川浩は、

少し過敏とも思える動きで、彼女に向き直った。

水落圭介はあわてて彼に質問した。ここで小手川浩自身が、

自分が化け物になりつつあることを

認識すれば、今度こそパニックに陥ってもおかしくない。

今、この状況でそんなことになるのは、なんとしてでも避けたかった。


「何か、見つかったのか?」

 斐伊川紗枝を怪訝な目で見つめながらも、小手川浩は言った。

「ええ・・・たぶんですが。水落さん、

 飲んでた解熱剤を見せてくれませんか?」

 圭介は尻ポケットにねじこんでいた、解熱剤のビンを

小手川浩に手渡した。彼はしばらく、ビンのラベルを見つめている。

「やっぱりだ・・・。水落さん、

 この薬にはピリン系の成分があります」

「ピリン系?」と圭介。

「成分表にあります。イソプロピルアンチピリンですよ。

 強い解熱成分ですが、薬疹を起こす可能性があるんです」

「薬疹?何だそれは」と圭介。

「要するに、薬によるアレルギー作用・・・

 肝臓・胃腸・血液に対して

 障害を起こしやすい問題がある成分です。

 あの化け物が媒介する細菌ですが、

 健康体にのみ作用するようなんです。

 このファイルにそう記されてます」

 そう言って、小手川浩は左手で、黒いファイルを掲げた。

 その左手も灰色に変色していた。

「まだ、よくわからないな。詳しく説明してくれ」

 圭介は彼の話を促した。

「簡単に説明すると、内臓器官に異変があったりすると、

 あの化け物の細菌はうまく活動できないってことです。

 それで、僕と水落さんの症状の進行具合が異なったってことです」

 小手川浩はそう言うと、

またファイルのページを気がふれたかのように、

めくりだした。実際、極度のパニックになっているのかもしれない。

ただ、事実を調べている時、それを説明している時だけが、

彼に刹那の冷静さを持たせているのかもしれなかった。


「・・・ということは体調の悪いオレは、

 細菌の活動を抑えていると?」

 水落圭介は、確かめるように小手川浩に訊いた。

「ええ・・・簡略にいえばそういうことです」

小手川浩は抑揚の無い声で答えた。

「それに、もうひとつ。この細菌の名前がわかりました・・・

 正しくは偏性寄生性菌。

 元はリケッチアを変種改良したもの・・・。

 RNA-774―――これがこの細菌の正式名です」

 小手川浩は言葉を続ける。

「リケッチアって何なの?」と有田真由美。

 彼女の問いに、小手川浩は答えた。

「単独で増殖が出来ない微生物の総称です。

 この細菌は単独で増殖が出来ない・・・。

 宿主細胞の代謝低下時に最も強い増殖を示すこと。

 それに感染した場合の症状は、その特徴を持ってます。

 感染した血管には血栓が生じ、血管破裂、壊死を引き起こす・・・

 とありますから。だからあの化け物は、灰色がかっていて、

 銃弾を浴びせられても簡単には死なない理由もそこにあるんです。

 それは奴らがすでに壊死してるからです。

 簡単にいえば、死んだ細胞をこのRNA-774が乗っ取って、

 行動させている・・・」


 彼はまた別のファイルのページを開いて見せた。

だが、小さなタイプ文字でよく読めない。

「それと、もうひとつ。有田真由美さんと斐伊川紗枝さんが、

 なぜ感染しないのか、それとも感染しにくいのか。

 その理由もわかりました・・・」

 小手川浩が引きつるような笑みを見せる。

左の銀色に変色した目が鈍く輝いて見えた。

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